「私を殺したいかね?」
陰鬱な牢獄で黒づくめの男が問う。
「気分としては、そうね」
素っ気なく答える女も、黒づくめの女だった。
「まず貴方は嫌味だから」
男の手の枷に繋げられた鎖がじゃらりと揺れ、女の黒いドレスが絹すれの音をたてる。
「貴方は全て御存知、私がどう答えるかも何もかも」
チョーカーに押し潰された僅かな溜息。
「何が出来て、何が出来ないのかも御存知」
男は否定しない。女の声は抑揚が乱れる。
「殺せるわけがないじゃない、少なくとも貴方は全てのきっかけだわ」
石造りの牢獄でその声は幾重にも跳ね返り、二人の耳を打つ。反響が収まるまでの間、緑の瞳が男の白い横顔を捉え続ける。
男が口を開いたのは、静寂を取り戻してから、いくつかの呼吸を置いてから。
「きっかけを消して、何もかも白くしたいとは思わないのかね?」
あくまで男は、楽しそうなのか、暇つぶしなのか、よく分からない調子で女を嬲る。
「……今更」
目を背ける女。
「君は新しい時間を作れるかもしれない。既に君の存在はイレギュラーだ……『黒の魔女』よ」
何もかも気怠くさせる黄金色の光。そして、血の色のような赤い光。
紫は不安にさせる。今から来る夜が、明日に繋がることになる今日が、どれ程のものかということを怖がらせる。
それでも夜のとばりが降りるまでの光の圧力、そして人のざわめきは、嫌いだ。
まるで雨音の様に嫌な考えが、嫌悪の感情が、やり場のない怒りが、憎しみが、俺の中に染み通ってくる。全て、俺に関わりはない。だが、その声が何かを急き立てる。俺を追いつめる。あの家の中では全て俺と、それ以上に兄に向けられていた。それに比べると程度問題でマシなのだろうが。
そうだ、そのことそのものを思い出させる。何故かも分からない、分かったところで受け入れられることなどない、理不尽な痛みを思い出してしまう。
理不尽過ぎた。何故俺達にそれが与えられるのか、疑問を持つにも俺達は幼かったころから、その痛みは与えられて、その正体が分かった頃には、勝手に消えて無くなった。
あの家は、俺の忌まわしい一族は、あの出来事−サプリーム・ソーサレス−の後、消えて無くなった。
俺が継ぐことになってしまった家。俺が潰したかった全て。俺自身の手で消したかったものは、俺の手に触れることなく消えた。燃えさかる屋敷に、帰ってくるところが無くなった、という感じはしなかった。ただ、空しかった。かといって、誰がそれをやったのかも気にならなかったが。
だから思い出してしまう。与えられた痛みを。俺が消すことが出来なかったそれを。
何処に下ろすかも分からぬまま、手を振り上げる。
このまま、私はゆっくり溺れたいのだけれど。其れは出来ない。憂鬱。
「罪作りなことは事は、余りなさらないでくださいな」
組んだ指に顎を乗せた女が、ぽつりと言った。長い黒髪が視線を隠している。ただ、緑の瞳の色だけが少し、覗いていた。
「貴殿、顔かたちはよいのだけれど、女の子の扱いは慣れていなくて?」
ただの水を満たしたグラスに当たって散乱するランプの光をじっと見つめながら、女が続ける。馴れ馴れしい様な、探るような、囁くように低い声。背を預けると軋む安物の椅子に腰掛け、年期が入っただけの机に肘を乗せる。動作の一つ一つが、ひどく淫靡な女だ。
俺はその様子をベッドに腰掛けながら眺めている。女が足を組み替える絹擦れの音。少し女の背が触れた椅子が軋む。軋むといえば、ここにある調度は全て安物で、俺が腰掛けているベッドも精一杯出来の悪いダブルベッド。軋む音だけはよくたてる。有り余る広さのその上には、普通、女が常に横たわっている筈なのだが、今は居ない。今、この部屋にいる女は、椅子に腰掛け、投げやりに足を組んでいる。
何時からそこにいるのだろうか、女はベッドには近づこうとしない。
「乱暴に過ぎますわ、あれじゃあ」
なさりたいように、なさり過ぎです。黒いドレスの女は、視線だけ寄越して呟いた。丸く、白い肩の線が、ゆっくりと形を変えた。
「乱暴? そうか? 俺は足りないがな」
せせら笑う様な声で俺は吐き捨てる。女達と、俺自身、両方に絶望を抱いていた。
「傷なんて一つも残ってないだろう?」
いつもその一歩手前で、女達は嫌悪の叫びを挙げて俺から離れる。怯えと、憎しみを目から俺の心に差し込んで。貴方の全てを受け入れるなどと、安っぽく囁いていたくせに。
「付いていたら、それはそれで問題ですわ。貴殿、その子をそのまま囲う訳ではありますまいに」
安っぽい囁きは、女にただ一夜だけの金しか払ってないからだろうか? だが、出来もしないことを歌う喉を、いつも俺は締め上げてしまう。安い女への短絡的な怒りを自制出来ない俺がそこにいる。
「好きにさせて貰えるなら、それでもいいけれどな、だが……」
「ええ、貴殿、乱暴に過ぎますわ」
はっきりと女は言った。
「もう貴殿の顔も見たくない、という子ばかりで」
綺麗な顔ですのに、怖いんでしょうね、殺そうとするときもその顔でしたら。そう呟くと女は、この売春宿の女主人は溜息をついて首を振る。
「だから、今夜はお前が俺の相手をしに来たのか?」
冗談混じりの問い。誰かが横にいなければ寝付きが悪くなる、というわけでも無い。ただ、何もする事もない逃亡者の俺には、時間だけは有り余っていた。身体をさらけだしてるくせに、痴れ顔をわざわざ取り繕う女より、最初から何もかも作り物めいた、こんな女との夜も、悪くはないかもしれない。
どうも喋らされているという感じがするのは、ただ俺に酒が入っているからなのだろうか。
「貴殿、お忘れですか? この宿と一緒に、この私も買った様なものでしょうに」
女は微笑んで答えた。俺にしてみれば、ほんの気まぐれだったのだが。
「お前は、買えていたのか?」
「ええ、私だけは」
かたん、と椅子が鳴った。女が立ち上がり、俺の方に向き直る。
「なら何故、最初から俺の部屋に来なかった?」
「……お嫌いでしょうに、私の様なのは」
そう言いながら、ドレスの胸元をはだける。長い黒髪が、白い双丘を隠して、焦らす。
「何故、そう決める?」
「貴殿、女、は嫌いでしょう?」
腰から下の、薄く広がった布がふわりと解ける。くびれと盛り上がり、膨らみが暗闇に広がる。
「……責めようと、するからか?」
「まぁ、そういうところです、エルサイス・エス・ディー……様」
蠱惑的な香水の香りをうなじから漂わせ、慇懃に、場の雰囲気を崩すことなく女は答えた。
何故か、言葉の末尾のイントネーションだけ、妙に据わりが悪かった。
溺れようにも、海が私を拒絶する。丘に上がっても、息もできないのに。
ぎし、と音を立てて、二人分の重みでベッドが軋む。すぐ側に、黒髪に縁取られた女の顔。
俺は甘い香りの黒髪に顔を埋めながら、耳元で囁く。
「何故、俺にかしづく」
吐息が、女の耳に掛かる。
「何故、ですか?」
女も、俺の耳元で囁く。お互いの囁きは、低く、小さいが、触れたこめかみから、直に振動が伝わっていく様な、そんな距離だ。
「私は、貴殿に買われましたから……」
「それだけか?」
答えは、遠い。
「不十分ですか?」
女の指先が、俺の胸を軽くなぞる。
「構わぬさ、お前はたかが売春婦だ」
「……」
冷たい指先の違和感を引き剥がすように、肩を掴んで、シーツに押し付けた。
黒髪がシーツに広がり、皺が女を中心に広がり、女は、蝶の様だ。
規則正しく盛り上がる、白い乳房。血の気も通わぬように、ただ、白い。
指と同じように、冷たいのだろうか?
舌を這わせると、吸い付きそうなきめ細やかな肌だった。顔を埋めてみても、冷たかった。
心臓が、ちいさく、とくとくと、音を立てていた。
「……放っておけない、そんな感じがしましたわ」
真紅のルージュに彩られた唇をうごめかせ、女が語る。何処か遠くを見ながら。
「ほう?」
放っておけない感じがした、という過去形、それが少し気に入らなかった。
「貴殿、逃亡者なのでしょう?」
乳首に歯を立てる。血が滲んだろうか?
「私も、帰る在処などありませんから」
女の指が、俺の頭を撫でた。
「この宿の主人はお前だろう」
力のない女の指の愛撫を振り切るように、女の顔を覗き込んだ。
女は、屈託のある笑みを浮かべた。それは作り物ではなかった。
「売春宿に、淫売以外の女がいるのは、不自然というか、不義理なことではありませんか?」
肩を押さえている俺の腕に指を這わせ、抱きすくめてかかられる。
「お前は、違うのか?」
「私には、春は売れませんから……」
女が俺の身体を引き寄せる。
「まるで、冬みたいでしょう? 私の身体」
汗一つ、かいてなかった。
吐息は、規則正しすぎた。
太股の間に押し入った足にあたる感触は、さらさらとしていた。
「……無様でしょう、私」
ほんの少し、涙だけは出ていた。
「感じない性質なのか?」
「ええ……もう随分と前から……何も」
女は、涙をすくって、股間にあてがった。
「理由など聞かれなければ、もう少し、うまく演じられたのですけれど、ね」
すくってもすくっても溢れる涙。涙で緑色の瞳が煌めいている。
「ですから、なさりたいように、なさって下さいませ。私には、痛みがないのですから」
俺は身体を女から離した。
「……駄目、ですか」
女は、じっと俺を見つめて、ぽつりと言った。
「面白くはないからな」
「痛みを感じられないことが、いけませんか?」
「そうだな……それが気にくわない」
「貴殿の痛み、私では感じ取れないと思いますか?」
「……利いた風な口を利くな、出来損ないがっ!」
女の首に、手が掛かった。
「お前が全てを受け入れる? 何も感じぬ出来損ないの女が、安請け合いなどするな」
女の細い首に、俺の指が食い込む。
「痛みが、今の貴殿の受け入れて欲しいもの……感じて欲しいものなのですね」
それでも、女は苦しそうなそぶりすら見せず。
「買われたのに、殿方を満足させられない淫売等、何処に存在価値がありましょうや?」
俺の方を見つめて、
「……せめて、宿の主人として、もてなしをさせて頂きますわ」
ただ、悲しそうな視線だけ寄越した。
せめて、グラスに残してきた痕に、あの人は口づけしてくれるだろうか?
朝が来る。
……来たのだろうか?
鎧戸に塞がれた窓からは、光が射し込まない。ただ、静かだった。
いつも朝は静かだ。窓越しに聞こえる嬌声も、俺の下で挙がる悲鳴もない。女の寝息も、ない。そういえばあの女は、このベッドで寝ていた筈なのだが。
……冷たくなったシーツに、昨夜の事を思い出す。
醜い夜だった、嫌な夜だった。
俺を見透かした女、いや、見透かしたというより、痛みを既に知っている女。それなのに、俺の痛みは受け入れることの出来ない女。
売春婦なのに、何も感じぬ欠落、それと、男を受け入れる性で、より淫らに見える心と形。あの女の中を、いつものように覗いてしまうと、その中の痛みだけで俺は狂ってしまうかもしれない。
醜い夜だった。俺は女の、痛みのない痛みを見せつけられた。
嫌な夜だった。俺の痛みの伝えかたを「たかが売春婦」の感覚に、あの女は落とした。
「魔女だな、あれは」
喉の渇きをどうにかしようと手に取ったグラスの、きつい真紅のルージュの痕を見て、ふと、そんなことを呟いた。自分で言って、耳にこびりついた。
人をたぶらかすとか、惑わせるといった色香、そういうものを越えた、女の全てを持ったような女。あんな女に、男なら狂えるのだろうか? 狂ってしまうのだろうか?
鎧戸を開けたくなる。今は、あの女の残り香から逃げたかった。逃亡者という自分の居場所をさらけだす危険、そんなことよりも、あの女にこそ、今は追われている気がする。今も、すぐそこの影にいるような錯覚が。
狂った男共と、その中にいる女。そういう光景は一度目にしたことはある。
あの狂宴の中にいた女、狂ったように淫らな言葉を吐き出し、男のしるしをくわえ込む女。あれも魔女とは言われていたが。全てを受け入れて淫らに狂う女と、全てを受け入れられず、人を狂わせる女。どちらが魔女なのだろうか。
全てを受け入れる女。
ふと、あの「黒の魔女」なら、俺の与える痛みにも耐えられるのだろうか? そんなことを考える。
俺自身、何が痛いのか、何を消したいのか、いや、どうしたいのかすら忘れてしまった。そんな、やりようのない痛みを与えてみて、耐えられるだろうか?
何かを痛めつけてみたい。誰かを痛めつけてみたい。ただ、その衝動が夜を支配する。
痛みの伝えかたが下世話なことだということは分かったけれど、その衝動は一層、収まりがつかなくなっている。あの女の様に、あの何も感じぬ女の様に、俺の中の痛みで、俺を狂わせる様な何かを刻み込むことが出来るだろうか?
そして、あの女の様になった女を、この手で抱けるだろうか? そう言えば、あの女も「黒の魔女」も、同じ黒髪と、緑の瞳の女だったな。
「見ているだけ、というのは、あんまりだな」
「何か、お気づきですか?」
突然の声、本当にどこかの影の中にでも居たかの様に、あの女が現れる。
「何時からそこにいた?」
「今し方、食事をお持ちしたところですが?」
確かに、女は湯気を立てる皿が載った盆を持っている。長い黒髪を真っ赤なリボンでまとめ、メイドの様な服を着ているのが、昨夜の事を忘れさせるように可笑しかった。
「もう、昼食の時間です」
「そんな時間か……」
随分と考え込んでいたものだ、それとも、俺の時間そのものが緩くなっているのだろうか。
「その食事は誰が?」
「私が作りましたが、何か?」
女はテーブルの上に皿を並べていく。うなじの後れ毛が、こうして昼間に見ると意外とこの女が若い、俺とそう歳も変わらない女だということに気付く。
「……お前みたいなのが作れるとはな、味は確かか?」
それが今、一番気がかりだったのだが。
「……」
女は無言で、スープをひとさじすくって、俺の前に差し出した。
「いつもの味だな」
「ずっと、私が食事は作っていたのですが?」
「……」
「お気に召しませんか?」
「……いや、どうも意外続きでな」
なにより、俺が好むような味が、この女が作っていたものだということが意外だった。ここに来たときと、昨夜、その二度程しかまともに話したこともないような女が、その実、日に影に関わっていたとは思いもよらなかった。
「身体が、ああなものですから……マネキン代わりと、こういったことしか出来ませんもので」
「ここの食事は、全てお前が作っているのか?」
「いえ、貴殿の分だけですが?」
ずっとここに居て下されるお客様なんて、他にいませんもの、と女は言う。まるでメイドの様に、ずっと側に立ったままだ。
「何故、俺にこうも……手間を掛ける?」
理由がないと、居心地が悪い。
「この様な宿に貰えた、不釣り合いなお金のため、ではいけませんか?」
「即物的な理由だな」
「そうでしょうか?」
女は、少し首を傾げる。
「私を買われた、ということなのですから」
「……そうだな、お前は買えていたのだな」
どちらにせよ、即物的だ。
「『黒の魔女』の話は知っているか?」
子羊の肉のソテーにナイフを入れながら、気に障る話題を変える。皿の中の香草のコントラストが、二人の女の瞳を思い出させた。
「お伽噺でしょう、あの話は」
いやにあっさりと、女が返した。
「知ってはいますわ。お寝付きの話には些か品が無くて、寝物語には丁度いい。そんな話ですから」
「不機嫌そうだな」
「……そうでしょうか?」
言葉とは裏腹に、女の目には僅かな曇りが浮かんでいる。笑顔はいつも作りものめいているのに、この女はネガティブな感情だけは素顔を見せる。
「似ていると、いったらどうする?」
「まるで、見てきたみたいですね、その『黒の魔女』を」
「黒髪で、緑の瞳の女だった」
「私も知っておりますわ。『漆黒の髪、毒を孕んだ緑の瞳、血で濡らしたような唇、雪より白く、氷の用に青ざめた肌』なんて、まるで白雪姫の死体みたいですわ。誰もお目覚めのキスをしてくれなかったから、そのまま死んだ白雪姫」
「お前も、喋る死体みたいなものだろう」
「……否定は、致せませんが……だから、似ているのですか?」
「見た目だけはな」
そうだ、『黒の魔女』は、
「あの女の方が、煩かった」
「私と違って?」
「……どちらも、淫売ではあるがな」
「……そうですか」
だから、似ているのですね。と、一言呟いた。
「だが、あれが魔女かどうかは、な」
今となってはあれが魔女かどうかとは、疑問だ。あれこそは淫売に違いない。
「貴殿、『黒の魔女』を見たと言ったでしょうに」
目を落とすと、皿の上からは緑が消えて、少し冷めた肉だけが残っていた。
「お前も、同じ姿形だからな」
すっと影が落ちる。いつの間にか女が俺の前で指を組み、上目遣いに覗き込んでいた。
「……どちらが魔女だと?」
「今夜も、お前が来るのか?」
「出来損ないでは、夜は務まりませんから……」
「なら、一人か。明日は来るのか?」
「いえ、今夜から、また新しい娘を貴殿に回そうかと思います」
「新しい娘? 何日持つかな」
「さぁ……貴殿次第かと。今度の娘は、貴殿が飽きるまでは大丈夫かと」
「安請け合いにしか聞こえないな。それで、どんな娘だ?」
「私と同じ黒髪と、緑の瞳を持った、名前と顔と、心のない娘ですわ」
「似ているけど、違う娘、か」
「ええ」
カタカタと鳴る皿は、少し、俺をいらつかせた。
壊れた時計、針が同じ時間をいったりきたり。
いつしか感情もなくなり、ただ、存在することのみが目的になってしまうのだろうか?
本当は、妾こそがこの扉の中にずっと居たいのに。
姿形は同じなのだ。
似ているけど、違う。その言葉を言い換えてしまったときに、俺の中で下世話な決心がついた。
今夜、あの女が来たのなら、この部屋から二度と出さないと。
自分の痛みの伝えかたが低俗なことは、自分自身でよく分かっている。そのことを思い知らせたのが誰かということも、よく分かっている。つまり、俺がやろうとしている行為は、この世で最も醜い行為であろうことも、よく分かっている。
だが、そんなことはどうでもいい。いや、そうだからこそ、自分の醜さを把握しているからこそ、俺の中で今、最も美しいと思われるものを手にしたいし、それに溺れていたい。
既に俺は狂っているのだろう。何もかも理解していながら、その意味だけを認識し続け、己の判断は下していない。ただ、そこにある感覚だけを知覚する衝動に駆られて、止まれない。
あの女が何も感じないのなら、叩きつけてやるまでだ。
あの女にも、血は流れている。なにより、あの緑の瞳には、痛みを感じる感情が浮かんでいた。あの瞳を、舌で転がしてみたい。きっと、不思議な味のするキャンディだ。
血のような赤い光が降り注ぐベッドの上で、俺は夜が来るのを楽しみにしていた。
こつこつと部屋の扉が叩かれるのは、俺が夜と認識した時だった。多分、都合のいい時計でも持っているのだろう。誰何の声に扉を開ける許可を与えると、声の主が−あの女−が、暗闇の中に白い顔だけ薄く浮かべて現れた。きついルージュの赤すら霞んで見えるように朧気だった。
「娘を、お持ちしました」
いつも通りの抑揚のない声と慇懃な挨拶、絹擦れの音でようやく、闇の中でドレスが広がっていく。
「……どこにいる? 暗くて見えん」
女はランプを持ってきていなかった。ぼんやりとした気配と輪郭だけでしか相手が分からない。女は相変わらず黒いドレスを着ているからなおさらだ。もう一人の娘とやらは、顔すら何処にあるか分からない。いや、気配が無い。それについてはどうでもいいのだが。
「ランプぐらいつけろ、何も分からん」
あの女を確実に、俺の手の中に収めたかった。あの丸い肩を、細い首を。
「それが一寸不味いもので……」
俺の問いを適当にあしらう様に、女は部屋の中を進んでいく。あちらからすれば俺はベッドの上にいる分浮き上がって見えるのだろうが、それにしても、暗闇は全くあの女には苦にならない様だ。
「何が不味いのだ?」
女に問う。
「火、ですわ」
簡単な問いに、簡単に女が答えた。
「この娘、火を恐れるんですの」
安物のテーブルの上にある、アルコールランプに女が手を伸ばす。ランプのガラスフードが僅かに光り、かたことと音をたてて揺れた。
「火を怖がる? まるでケダモノだな」
俺の考えていることも、ケダモノといえばケダモノだ。
自分のやり方が、自分でも低俗と理解できたというのに、この女にそれを強いようと待ちかまえているのだから。
「そうですね」
何も知らないように女が返した。だが、緑の瞳がきらめいて、俺の方を見ていた。
「捨てられた、雌猫ですから」
猫のように暗闇に視線をきらめかせながら、ふわりと、女の右手がランプの火口を撫でた。ぼおっとした炎が灯って、女の青白い顔に朱が差す様に光が写り込む。女が引き連れてきた娘が軽くおののく声。俺は暗闇の中、不意に灯された光に目に軽い痛みを射し込まれ、その瞬間を躊躇った。
いや、ふと漏れた娘の声に、身体が躊躇った。
女は相変わらず緑の瞳で、俺を見つめている。見据えていると言った方がいいかもしれない。
ほんの数瞬、交わった視線。あの女の緑の瞳に、硝子の滴が浮かんでいた気がしたのだが。
「挨拶、なさい」
ランプの明かりを近づけると、女が引き連れていた娘が耳障りな悲鳴を挙げて何もかもを掻き回した。聞き覚えのある悲鳴だった。
甲高く、息を詰まらせるような響きの悲鳴。そのあとに続くのは、大人びた、いや、剥がれた演技の向こうの甘ったるい少女の声。
その少女の声で、あれは、あのときのように懇願した。
「お願いします……なんでもしますかラ……痛いコトだけは……しないで」
安っぽく月並みな台詞を、舌足らずなのか、怯えなのか、不思議なイントネーションで少女は吐き出した。
ランプの明かりに引きずり出されたその姿は、涙に濡れ、豊かな黒髪で縁取られ、偽装された頬のラインはまだ少女のもので、血の様なルージュはその中で一層安っぽく見えて似合っていない。
左の頬には包帯が幾重にも巻き付けられ、あの独特の文様は見えなかった。引き剥がして確かめてみたかったが、火を怖がる原因はその包帯の下にあるのだろうか。
別人かとも思ったのだが。
その悲鳴は、なにより、怯える緑の瞳は見覚えがある。忘れようがない。
「なんでも……なんでも致します……どうか……陵辱して……ください」
少女は確かに、あのときの『黒の魔女』だった。
これで、全ての準備は整った。
終わることのない、愛しさと悲しさに満ちた宴の準備が。
あとは時が来るのを待つだけ。
その時が来れば、少女は私になり、運命が確定する。
私はそれを止めることが出来ない。
ただ、来るべき時を確定させるためだけしか、ここでは出来ない。
いつまで続くか分からない、否、何時かすら分からなくなる、時の迷路に迷い込む運命が、歯車の音を軋ませながら近づいてくる。
出来れば、ありとあらゆる乙女達に、いつか恵みが下されますよう……。
テキスト:muska
監修:DPC