とあるスラム街の片隅、みすぼらしい三階建ての木造アパートの一室に、一組の母子が住んでいた。
「ジキル、オルドおばさんの店でトマト一個とジャガイモ、ニンジンを二つずつ買って来てくれる?
 母さん、そろそろ仕事に出ないといけないから」
母親は、井戸水を運んできた桶を炊事場に置くと、娘に呼びかける。
娘は、繕い物の手を休めると、母の方を見てコクンと頷いた。
タンスの方へ駆け寄り、その奥に隠してあるわずかな貯金の中から、小額を抜き出し、部屋を出る。
「あっ!ちょっとぐらい痛んでてもいいから、安くしてもらうんだよ!」
戸口から顔だけのぞかせ、またコクンと頷くと、少女は出かけて行った。

母親は、腰をトントンと叩きながら、一つだけため息をつくと、少しだけ寂しそうにつぶやく。
「ホントに喋らない子だねぇ」
そして、フッと昔のことに思いを馳せた。
滑らかな金色の髪を持つ美少年に夢中になった少女時代。
意中の人と一緒になり、幸福の絶頂だった新婚当初。
なまじ二枚目の為、女遊びに興じ始める夫。
そんな中、唯一の希望であった娘の出産。
いつか分かってくれるだろうと、夫を支え続ける妻。
それでも、やはり襲ってくる結婚生活の破綻。
捨て台詞を残し別の女の元へ行った夫。
涙に明け暮れる母と、それをおろおろと困った様子で見つめる幼い娘。
気付いたときには、娘は笑顔と言葉を失っていた。
「やっぱり、私のせいなのかねぇ。あの子に、つらい思いをさせてしまったから…」
もう一つ大きなため息をつく母。
「おっと、いけない。こんなことしてる場合じゃないね。さあ、仕事に出ないと!」
母親はいそいそと身支度を始めた。



ジキルが野菜の入った袋を抱え通りを歩いていると、見るからに柄の悪そうな男達が声をかけてきた。
「おっ、そこの可愛い子ちゃん。お買い物かい?」
ジキルはこんな時は、聞こえないかのように無視することにしていた。
スラムとは言え、そこの住人は大半が一般人。
周囲の目と後の生活を考えると、小悪党程度の連中では、人通りの多い中、表立った悪さは出来ない。
こうしてやり過ごしていれば、舌打ちでもしながらどっかに行ってしまうのが普通だった。
だが、今回は様子が違う。
「おいおい、どこ行こうってんだよ。ちゃんと質問されたら、答えるのがマナーってもんだろう?」
ジキルの行く手を遮るように、なおも絡んでくる男。
踵を返して避けようとするが、逃げ道も別の男に塞がれる。
「これでも俺たち中央で騎士やっててね、マナーは厳しく仕込まれてんのよ」
肩についた紋章を見せながら喋る男。
ここまで強気でいられるのは、相応の理由があってのことだった。
ジキルの顔に、困惑の色が浮かぶ。
「ほら、お返事は?」
周囲を大柄の男に囲まれ、髪を撫でられ、太ももを触られる。
ただでさえ喋ることが苦手な彼女が、こんな状態で何かを喋るなど不可能だった。
ましてや、大声で助けを呼ぶなど、出来るはずがない。
泣きそうな顔で、されるがままになるしかなかった。

「偉ぶったガキどもが、随分楽しそうなことしてんじゃないの」

不意に聞こえてくる、飄々とした声。
どうやら一人が、誰かに話しかけられたらしい。
「は?黙ってろよ、おっさん。俺たちは…」
すると突然、ジキルを覆っていたその男が吹っ飛んだ。
差した光の方には、無精髭を生やした男が一人立っている。
「あぁ、話はさっき聞こえたよ。騎士なんだって?」
ジキルの周りから離れて、身構える男達。
さっき吹き飛んだ男は、頬を押さえているところを見ると、殴り飛ばされたのだろうか?
「おいおい、おっさん。それが分かってて俺たちに楯突こうなんざ…」
「奇遇だねぇ。実は私も騎士なんだ。ほれ、竜騎士団の事は、聞いた事あるだろう?」
周囲の声を無視してひげ面の男は続ける。
「最近では、異名なんかも付いちゃってねぇ。『二刀の大火』とかいう、訳のワカラン名前で呼ばれるように…」
一人の男の顔色が変わって、ひそひそと隣に話しかける。
さらにその隣にと行くうちに、狼狽の表情が伝播していくのが判った。
「俺は、そんな恥ずかしい名前嫌だったんだが、周りの連中があまりに…」
そして、そのひそひそ話が、倒れている男まで伝わった瞬間、
「「「も、申し訳ございませんでした!」」」
一斉に大声で謝罪しながら、土下座する男達。
「いや、まあ、私は別にいいんだよ。その女の子にちゃんとお詫びしてくれれば」
「「「す、すみませんでした!」」」
あまりの様子に、呆気にとられて頷くジキル。
竜騎士を名乗る男は満足そうにその様子を見ると、シッシッと追い払う仕草をしながら、
「ほれ、許してやるから行った行った」
と、男達を解放した。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
頷くジキル。
「ウチは近いのかい?送って行こうか?」
「…あの」
おずおずと口に出すジキル。
「…偉い…人?」
三秒ほど間があって、大笑いしだす男。
ジキルはキョトンとして、男を見つめている。
「ゴメン、ゴメン。勘違いさせちゃったか。
 昔、こうやって剣を二本さして歩いてたら、竜騎士団の人間と間違えられたから、嘘ついてみただけ。
 ホントの騎士連中が気付かないんだから、よっぽど似てるんだろうな。
 ほれ、あいつら権力に弱いから。自分は単なる、しがない傭兵」
男がいたずらっぽくウィンクすると、ジキルは少しだけ考えてから、普段よりちょっと嬉しそうに頷いた。



「ただい…、どちら様ですか?」
母親が仕事から帰ると、娘が見知らぬ男の話を一生懸命聞いていた。
男が気付いて、慌ててお辞儀をする。
「あぁ、自分は傭兵をやっているセラトナと…」
「出てって下さい」
「え?…いや、その…」
「いいから、出てって下さい!」
ドアの外を指差す母。
昔、男に裏切られた経験のある女性が、自分の娘と見知らぬ男が自宅で親しそうにしているのを見たにしては、穏便な対応と言えるだろう。
モノが飛んで来ないだけマシである。
ジキルが、男の袖を掴む。
「…違うの」
母はそれを見て、驚きと憤慨が半々といった表情。
「まあ!ウチの子をこんなにたらし込むなんて!」
「いや、お母さんね、これには訳があって…」
「あなたに『お母さん』と呼ばれる筋合いはありません!
 だいたいあなたの様な、いいおじさんがまだ15にも満たない子に手を出すなんて!」
完全に勘違いしている。
頭を掻きながら、「まいったなぁ」という表情をするセラトナ。
ジキルは、彼女なりに説得を試みる。
「…困ってたの…、」
「帰ってくれないのね」
「…助けて…」
「ええ、すぐに助けてあげるわ。早くその子から離れなさい」
「…くれたの」
「モノで釣るなんて、まあいやらしい」
さっきから矛盾だらけだが、それに気付く様子もない。
「…いい人」
「男なんて、羊の顔していても、心の中は、オオカミが牙を剥く。そういうものよ!」
ジキルの中で、何かが弾けた。

「だから、助・け・て・くれたの!!」

突然の大声にビックリして、母の反撃が止まる。
というより、言った本人が一番ビックリしていた。
すかさず、セラトナが説明を加える。
「あのですね…、娘さんが柄の悪い連中に絡まれてて、それを助けたという訳でして…」
「はぁ…、それはどうも」
硬直状態で、気のない返事を返す母。
とりあえず、誤解は何とか解けたようだ。



それからというもの、ジキルはセラトナの元にしばしば遊びに行くようになった。
セラトナは、先の戦争で奥さんと娘を失っているらしく、いつも一人でふらふら歩き回っており、ジキルも一緒になって色々なところを歩いて回った。
また、料理がからきし出来ないようで、たまにジキルの家に来ては、食事をご馳走になっていく。
母は母で、セラトナがたまに「大きな仕事が入ったからお裾分けに」と言っては、彼自身が食べる分よりも随分多い食べ物を持って来てくれるので、無下に追い返す理由も特になく、八方丸く収まっていた。
ちょうど、その家庭になかった『父親』という存在を彼が埋める形だった。
ジキルは、「今後絡まれることのないように」とセラトナに剣術を習い、他にも様々な話を聞いた。
それらには、常に上を目指すことの大切さというような人生哲学的なことから、冒険者としてパーティーを組む時には出来るだけ役割が被らないようにしたほうがいいというような、今のジキルには直接関係のない話も混じっていたが、ジキルにとっては、新しい知識の全てが面白く、その世界に魅了されていった。



その日も、夕食を食べに来ていたセラトナだが、少し様子が違った。
いつも、満面の笑顔で本当においしそうに食事をする彼が、その日はどこか思い詰めたようだった。
「…大丈夫?」
テーブルを挟んで正面に座っていたジキルが、首を傾げながら彼の顔を覗き込む。
「お体の具合でも、悪いんですか?」
母は、普段ならスープ一滴残ることのない彼の食器が、今日は半分以上手つかずで残されているのを見て、下げようにも下げられないでいた。
「いや、体の方は問題ないんですが…」
セラトナは、寂しそうな微笑みをジキルに返し、続けた。
「明日から、ここを離れなければならなくなったんですよ」
ジキルの表情が、彼の予想外の言葉に固まる。
「グラッセンが、クルルミクに対し侵攻を掛ける準備をしているという話が、巷でちらほら出てるんです。
 まあ杞憂だとは思うんですが、もしかしたらってんで、こんな末端の傭兵風情にまで、招集が掛かりましてね」
ジキルの顔が泣きそうに変化して行くのがわかる。
些細な変化なのだが、それが分かる程に、二人の関係は親しくなっていた。
いつになく真面目な顔をしたセラトナが、一度大きく息を吸ってから、覚悟を決めたように言った。
「誓って、戻ってきます」
そして、彼は、自身の持つ二つの剣のうち、片方をテーブルの上に置いた。
「これを、約束の印として、ここに置いていきます。
 この剣達とは兄弟みたいなもんです。最初の戦場からずっと一緒で、折れてもその度に打ち直してきました。
 離ればなれのまま使い手を死なせちゃならんと、この手に残った一本が、自分を絶対に戦場から戻してくれるはずです」
更に、二の腕に巻かれた二本のベルトを外す。
「これは、自分の名前と所属が彫られた、ベルトです。
 たとえ首を落とされて死んだとしても、自分だと判ってもらえるように付けていたものですが、ここに残して行きます。
 自分は絶対に死なないと誓ったんですから、こんなもの必要ない。
 それにこれは、自分という人間がそこにいるという一番の証。
 顔がそこに無くても、体がそこに無くても、魂がそこにあるという証」
そう言って、ジキルの隣まで来ると、彼女の腕に填めようとするが、少女の細い腕には、一番きつくしても大き過ぎる。
いつもの様に、「まいったなぁ」という表情で苦笑するセラトナ。
いつもと違うのは、間近で見る彼の目に、涙が溜まっていたことだった。
ベルトをじっと見ていたジキルは、何かを思いついたようにそれを手に取ると、おもむろに首に巻いた。
そして、頬を伝っていく涙を一回だけを拭って言った。
「…これで…一緒」
彼女に出来る限り一番笑顔に近い表情を作り、セラトナに真っ直ぐ視線を合わせる。
ジキルは、その顔を崩さないようにと頑張っていたが、流れ落ちる涙だけは止まらなかった。
セラトナは、笑顔と泣き顔の混ざった複雑な表情で、しばらくジキルを見つめていたが、結局、感極まって、ジキルを力いっぱい抱きしめると、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。
母親は二人の様子を見て、少しうつむき加減で、口元に手をあてながら泣いていた。
別れの夜は、そうして過ぎていった。



それから、一年以上の月日が流れた。
グラッセンとクルルミクの戦争は、一向に終息に向かわず、混迷の時代を迎えていた。
セラトナは依然として戦場に出たまま、帰って来ることはなく、ジキル母子の生活は、苦しくなる一方だった。
食料は値上がりし、富は金属加工業に集中。
治安維持の為の人員も兵力に割かれ、犯罪率は急増。
犯罪者が跳梁跋扈する中、民間の冒険者の需要が高まっていた。
そんな中、ジキルは冒険者になる決心をする。
お金のためという面は、もちろんある。
だが彼女の場合、それよりも自由に動き回るためという意味合いが強かった。
セラトナが去って以来、満たすことが出来ない知的欲求を満たし、全く掴めない彼のその後の足取りを探すため。
とにかくふらふらと、何かに行き当たるまで動くしかない。
今の時代にそれが出来るのは、冒険者だけだった。
母はもちろん反対し、セラトナの存在を少し呪わしく思うこともあった。
だが、ジキルの人生に目的を与えてくれたのは、まぎれもなく彼だったのだ。
母という籠から出され、好奇心という生きる目的と剣術という生きる術の両の翼を与えられた少女は、世界という大空へ、こうして解き放たれた。