それは、シュリアスが8歳の頃。  宮仕えである父に、忘れ物を届けるため王城を訪れた時の事であった。  王城は、幼いシュリアスが踏み入れるような場所ではなく、門番を務める衛兵に言伝を 頼み、父を呼び出してもらう。 「お父様は、どうしていつも忘れ物をするのかなぁ。出かける前に母上が、いっつも忘れ 物がないかって確認してくれるのに」  青い空を見上げながら、溜息を一つ。  見上げた先には、いくつもの小さな影が舞っている。  鳥――ではない、飛竜だ。  クルルミク王国軍を、各地の列強と比肩しうる実力たらしめている、最強の竜騎士団。  シュリアスも竜騎士に対しては憧憬の念を隠せないでいたが、それはあくまで御伽噺の 英雄を見るような、手の届かない憧れ。  どちらかといえば、将来は父のように政治の一端を支えるような仕事に就いて、英雄達 を――そしてこの国を支える事ができれば、そう考えていた。  そんな思いを巡らせながら父を待っていた時。  シュリアスの見上げていた空で、小さな異変があった。  翼竜の翼が、小さく震えた――少なくとも、シュリアスにはそう見えた。 「ああ、シュリアス、すまんな。やはり家に仕事を持ち帰るのはいかん、こうやってお前 の手を煩わせてばか……」  叩き付けるような勢いで書類の束を押し付けられ、呆然とする父を尻目に、シュリアス は子供らしい、だが精一杯の速度で駆け出していた。 (呼ばれた……!)  彼女が、理屈も何もない直感的な行動をするのは、これが生まれて初めての事だった。  衛兵の制止を振り切り、驚いた厩舎番の脇をすり抜け――シュリアスは、自分を呼んだ 者の元へと辿り着いたのだ。  言葉を交わすまでもなく、彼女はそれを厩舎から解き放ち。  次の瞬間、彼女は空を舞っていた。  訓練の疲れと、慣れによる油断と、いくつかの偶然が重なった不幸な事故だった。  僅かに緩んでいた鐙を踏み外し、新調したばかりの皮手袋が手綱を滑らせ、あっという 間にバランスを崩した彼は、飛竜が一瞬で小さくなっていく様に呆気に取られていた。 (ああ、俺、落ちたんだ)  妙に冷静になった感覚の中、すぐさま異変に気付いた飛竜が、自分を追ってその巨体を 翻すのが見えた。  だが、軽く首を捻って地面までの距離を確認し、普段自分が乗っている飛竜の速度と比 較した結果。 (こりゃダメだ、間に合わない。それどころか、俺を追ってそんなに勢いつけたら、お前 まで地面に激突するだろ)  追ってくる飛竜の目を見つめ、自分の事は諦めろと告げる。 (ダメな乗り手に今まで付き合ってくれてありがとな。お前はもっと自分を大事にして、 新しい乗り手に見初められろよ)  その意思が伝わったのか、飛竜の速度が、ふっと緩んだ。 (諦めてくれたか)  やれやれ、と安堵の溜息を吐く。  これから自分は地面に叩きつけられて絶命するであろうに。  だが、次の瞬間に彼はまたパニック状態になる。  飛竜の羽音、鎧越しに伝わる柔らかい感触、そして自分を抱き留める小さな腕。 「え……俺の竜はあっちに……下に誰か待機してた……っけ……?」  首を巡らせたところにあったのは、緊張で強張った、眼鏡を掛けた少女の顔。 「君が、この竜を? 騎士団じゃ見ない顔だけど……」 「え、あ、その……私は……」  シュリアスは口篭もりながら、ばつが悪そうに視線を逸らす。  旋回しながら降下速度を落としていく二人乗りの飛竜に、上空から乗り手のいない飛竜 が追いついてくる。  二頭の飛竜が、厩舎の前にある広場へと降りると、そこはあっという間に騒乱の坩堝と なった。 「ジェンス、無事か!?」 「その飛竜はまだ乗り手が決まっていなかったのでは」 「お前を助けに来たというのか、二頭の飛竜に好かれるとはなぁ」 「というかその子は誰だ?」 「シュリアス、お前は一体何をしているんだ!?」 「あ……お父様」 「ああ、グリーンウッド殿のご息女だったんだ」 「いや、だからその娘さん、何でジェンスと飛竜に乗ってるんだ」 「いくらジェンスがロリコンでも、訓練中にナンパはしてないだろ」 「ちょっと待て、ロリコンって何だロリコンって!?」 「そもそもお前、訓練中に落竜なんて竜騎士として恥ずかしいと思わんのか。あとロリコ ンとか」 「だから違うっつってんだろ!?」 「言い訳はいい。落竜については後日、再訓練と反省文の提出だ。あとロリコンについて は龍司祭様に懺悔してこい」 「小隊長まで何言ってるんですかぁぁぁぁっ!?」  ジェンスと呼ばれた竜騎士の絶叫を尻目に、シュリアスは飛竜の背から降りて、怖々と 父の元へ歩いていく。 「シュリアス、正直に言いなさい。何があって、お前は何をした?」 「……竜が騒いでいるような気がして、つい厩舎の方へ駆けて行ってしまいました。そし て、飛び立つ竜の乗具に引っ掛けられて、あの竜が騎士様を助けるのに巻き込まれてしま いました」  父の目を真っ直ぐに見詰め、深々と頭を下げるシュリアス。  幼子が竜に見初められる事は多々ある。  だからといって、その全てが竜騎士となれるわけではない。  乗るだけが竜騎士ではない、竜と共にあり戦場を駆け戦うのが竜騎士なのだから。  シュリアスには、武の心得は全くないし、隠れた才能があるとも思えない。  たまたま竜に乗る事ができたとはいえ、数多の竜騎士候補生の座を軽々しく奪うような 事はあってはならない。  その他にも、彼女が助けた竜騎士ジェンスについてもだ。  事故を起こした竜騎士が年端もいかない少女に救われたとあっては、その面目も保てな いであろう。  そこまで考えた上で、シュリアスは父に嘘を吐く事を決めたのだった。 「そうか……この報告は私がしておこう、お前は帰って休みなさい」  机仕事を続けてきた、少し頼りないが優しい手のひらが、そっとシュリアスの頭を撫で てくれた。  まだ騒がしい広場で、シュリアスを乗せてくれた飛竜が、彼女をじっと見詰めている。  シュリアスは逃げるようにその場を駆け出していった。  それから数日後。  騒動の翌日から毎日、シュリアスは龍神を奉る司祭が集う教会へと通っていた。  無思慮に竜を駆った事、父へ嘘をついた事について懺悔をするために。  といっても8歳の少女の事、傍目には龍神の像に毎日祈りを捧げているようにしか見え ない。  この日も自問自答を繰り返し、答えの出ないまま数時間を教会で過ごしていたのだが。 「あれ、お嬢ちゃんは確か……」  ふと顔を上げると、そこには数日前に助けた竜騎士、ジェンスの顔があった。 「熱心にお祈りしてるなぁ。竜騎士候補に志願して、合格祈願といったとこかい?」  屈託の無い笑顔を浮かべているジェンスに対して、シュリアスは気まずそうに視線を逸 らす。 「……志願はしてません、私には無理ですから」 「そんな事を言われたら、助けられた俺の立場ないだろ」  苦笑交じりのジェンスは、シュリアスの頭をぽんぽんと叩く。 「あれだけ竜を操れて、才能が無いなんてこたないさ」 「あれは飛竜があなたを助けるためにやったことで、私は巻き込まれただけです」 「……なるほど、自分でそう言ったのか。落竜の話ばっかりで、女の子に助けられた話題 が出てこなかったのは、そういう事だったんだな」  ふむ、とジェンスは頷き、何事かしばらく思案した後にぽんと手を叩く。 「よし、お嬢ちゃん。ついてこい」 「……何処へですか?」  訝しげに、上目遣いで睨んでくるシュリアスに、ジェンスは屈託の無い笑みを浮かべて、 頭上を指差した。  三十分後。  二人は、空を飛んでいた。  あの日、シュリアスが乗ってジェンスを助けた、あの飛竜の背に乗って。 「はーっはっはっはっ! やっぱりすげぇ才能だよ! お嬢ちゃん、二回目の騎乗でこれ だ! 一年後にゃあ部隊長どころか騎士団長、将軍だってなれるってなもんだ!」  事故に巻き込んだお詫びにという口実で乗せられた飛竜の手綱は、しっかりとシュリア スに握らされていた。  安全帯だけで身体を固定したジェンスは、さも嬉しそうにバカ笑いを続けている。 「こいつもさ、結局俺が世話する事になったんだけどさぁ! あの子は何処だ、あの子は 何処だって毎日うっせーのなんのって! こんなに竜に好かれる奴は、そうそういないぜ!?」 「……随分と印象が違いますね、教会でお話した時と!」  被っているゴーグルつきの簡易ヘルメットと、風を切る音のせいで、二人の会話は自然 と大声になる。 「あー、俺ってなんかさぁ、竜に乗って空飛んでるのが楽しくて! すっげぇハイになる んだよ! お嬢ちゃんはそういう感覚にならない!?」 「竜と通じ合えるのも、空を飛ぶのも確かに楽しいです! けど、楽しむためだけに竜を 駆れるわけじゃない、竜に乗る以上は義務を果たさなくちゃいけないんです! その義務 を果たせる能力が私にはないんです!」  半ば自棄になって叫ぶシュリアスに、ジェンスは更に大声で笑う。 「何が可笑しいんですかっ!」 「能力がないなら、鍛えろよ! 人間、頑張りゃ何でもできるもんだって!」 「無茶言わないで下さい! 多少鍛えたところで、どうなるっていうんですか!」 「多少じゃなきゃいいんだろ!? 竜に乗ってこの国を護る義務と、等価になるまで鍛え りゃいいんだって! 俺だって、元は下級貴族の三男坊、喧嘩じゃ常敗無勝の勝ち星プレ ゼントボックスだったさ!」 「私は女ですよ! まだ8歳です!」 「それならまだまだ前途有望だ! 俺は18歳で志願して、2年で竜騎士候補になれたぜ! 俺より10年も早い志願となれば、時間はたっぷりあるってもんだ!」  前向き過ぎるジェンスの意見に、反論しても仕方ないと諦める事にした。 「もう降りますよ!? 午後の訓練の時間、もうそろそろですよね! 私が手綱を持って るところを見られても困ります!」 「なんだ、もういいのか!? もう少し楽しんでったらどうだ!」 「………………」  答えは返さない。  一時の楽しみと、一生の目標の匙加減を誤らないように。  シュリアスは巧みに飛竜を操り、広場へと降り立った。  ジェンスに抱えられるようにして鞍から降りたシュリアスは、踏みしめた地面の感触に 軽く溜息を吐く。 「……ふぅ」  たった十数分ぶりの地上だというのに、やけに身体が重く感じられる。 「……今日はありがとう、こんな私をまた乗せてくれて」  シュリアスが微笑みながら首を撫でてやると、飛竜は目を細めて擦り寄ってきた。 「きゃ……」  ほんの軽い動作であったにも関わらず、シュリアスは大きくバランスを崩して尻餅をつく。 「ほんとに鈍臭いみたいだな。ほれ、大丈夫か?」 「……すみません、ありがとうございます」  差し伸べられた手を握って助け起こしてもらったものの、今度はその勢いでふらついて、 ジェンスに慌てて支えられる。  丁度そのタイミングで。 「なんだ、またその娘か」 「そういやお前、教会に行くとか言ってなかったか?」 「その娘、ここ数日よく教会に来てたって、竜司祭様が言ってたな」 「またナンパしてきたのか、このロリコンが」 「懺悔しに行った先でいたいけな少女をナンパか、このロリコン」 「懺悔するつもりがあるのか、このロリコンめ」 「せめてあと5年待たんか、ロリコン野郎」 「違うっつってんだろぉが、手前らぁぁぁっ!?」  訓練用の木剣を振り回しながら同僚を追い掛け回すジェンスを、困惑した表情で見送る シュリアス。 「はは、騒がしいだろう。最初は一発ネタでからかわれてるだけだったんだけどね。ここ 数日、君の話ばかりしてるから、すっかり定着してしまってね」  ジェンスの同僚の一人――竜騎士であろう青年が、苦笑を浮かべてシュリアスの頭を撫 でる。  優男といった外見の彼であったが、その手のひらは父のものとは全く違う、硬く逞しく 雄々しいものだった。 「……あの」 「ん、なんだい?」 「私でも、竜騎士になれますか?」 「無理だね」  少女の、疑問と困惑に彩られた質問に、優男は即答した。 「そう……ですよね」 「今の君は、竜騎士になりたいかもしれない。でも、なれるはずがないと思っている。そ れじゃあ無理だ」 「……でも、私は武器を振るうどころか、運動も苦手なぐらいだし……力もありません。 目もあまり良くなくて、眼鏡を使っているぐらいです」 「隻腕でありながら太刀を振るう者もいる。盲目でありながら敵を捉える者もいる。病の 身でありながら戦場を駆ける者もいる。強い意思で進むべき道を目指し己を鍛える気があ れば、君のような疑問は抱く必要すらないんだ」  そう言って優男は、逆に武器を持った同僚集団に追い回されるジェンスを眺める。 「竜に惚れた。それだけの理由で、2年もの間バカみたいに特訓を続けて竜騎士になった 男もいる。それに付き合ってるうちに、何時の間にか同じ道を歩んでいたバカもいる。全 力疾走をするバカに付き合ってたら、迷う暇すらなかったわけだ」  優男の手のひらが、またシュリアスの頭を撫でる。 「迷えるのは若さの特権だ。だけど……迷わないだけの信念があるのなら、付き合ってく れるバカはたくさんいるものさ。あいつや、私みたいにね」  未だ追いかけっこを続ける一団に、優男は声を張り上げる。 「そらそら、昼休みはそこまでだ。午後の訓練を始めるぞ! ジェンス、お前はレディの エスコートだ! ちゃんと家まで送って差し上げろ!」 「お呼びだぞロリコン」 「後でエスコートの時間分も鍛えてやろう」 「竜騎士の名を汚す事のないよう、礼を弁えろよロリコン」 「お前ら……俺をロリコン扱いする事で、彼女を子供扱いしてるって気付けよ、こん畜生」  その言葉に、竜騎士一同はひとしきり笑った後、その表情を引き締めて一人一人頭を下 げながら、シュリアスに声を掛けてくる。 「悪かった、こいつをからかうのに夢中だった。今までの非礼を詫びさせてもらう」 「失礼をしたな、レディ。こいつが楽しそうに君の事ばかりを語るからと、悪ふざけが過 ぎた」 「済まなかった、気を悪くしないでくれるとありがたい。悪いのは全部こいつだからな」 「ちょっと待て、俺のせいか!?」 「そもそもが、お前が落竜事故なんぞ起こすからだ」 「その上で、恥ずかしげもなくその事故の話ばかりするからだ、彼女の話題のために」 「独身が女性の話題ばかりすれば、どういう扱いをされるか気付け」 「くそぅ……戻ってきたら覚えてやがれ」  ぶつぶつと言いながらも、シュリアスの元へ来た時には笑顔――といっても苦笑いでは あるが――を浮かべていた。  その笑顔にシュリアスはくすりと笑みを返し、竜についての他愛もない会話を楽しみな がら帰途についたのであった。  その夜、父の書斎を訪れたシュリアスは、全てを正直に告白した。  嘘を吐いていた事。  飛竜を駆って竜騎士を助けた事。  そして、竜騎士を目指したいという事を。  父は軽く溜息を吐くと、まずはシュリアスの脳天に拳骨を落とした。 「何故、私がお前を殴ったか、わかるか?」 「……嘘を吐いたから、です」 「違う。他人を想っての嘘なら、それを吐き通してしまうべきだったのだ。それを、自分 の願望のために翻すなど論外だ」  真面目さを絵に描いたような父から、嘘を吐き通せなどと言われるとは思わなかった。 「次に、嘘を吐くならば、地盤固めはきちんとしろ。少なくとも当事者同士ぐらいは口裏 を合わせるべきだ。ジェンス殿が、お前の勧誘に何度も私の元を訪れていたぞ」  今度は、嘘はばれないようにしろ、ときた。 「私もな、政治というものの一端に関わっている以上、その辺りの機微を求められる事も ある。より良い状況を作り出すための必要な嘘ならば、それをきちんと運用するべきだし、 相応の心構えをする必要がある」 「お父様は、嘘をたくさん吐きましたか?」 「ああ……数え切れないほどだ。もっとも、私利私欲のための嘘は、龍神に誓ってもなかっ ……あ、いや、待て……プロポーズの時に……学生寮でのアレはノーカウント……」  なにやらぶつぶつ指折り数えていた父が、ふと我に返ったように軽く首を振り、誤魔化 すように咳払いをした。 「ともあれ、だ。先に露見していたとはいえ、お前の心の内では、竜騎士を目指すために ジェンス殿を売った事になる。そうまでして竜騎士になりたいと言うのか?」 「自らの悪評も省みず、竜騎士の道を示してくれたジェンス殿に報いたいです。それが嘘 を吐き通せなかった償いでもあると、私は思っています」 「そもそも、お前は運動が大の苦手だろう。こないだも何もない石畳に蹴躓いて転んで、 泣いて帰ってきただろう」 「鍛えます」 「そちらで芽が出なかった場合は、どうするつもりだ?」 「出るまで鍛えます」 「志半ばで諦める事になるかもしれんぞ?」 「諦めません」 「泣いても誰も助けてくれんぞ?」 「もう泣きません」  ひとしきり見詰め合った後に、父は机の引出しから一枚の羊皮紙を取り出した。  それに慣れた手付きでペンを走らせると、丸めて封を施す。 「竜騎士への志願書だ。竜騎士を目指せると自負した時、封を解いて名を記して持ってき なさい。諦める時は、封をしたまま持って来るように」  シュリアスは真剣な表情でそれを受け取ると、両手でしっかりと抱えて、力強く言い放った。 「諦めません」  そして、深々と頭を下げると、足早に書斎から駆け出していった。 「やれやれ……運動神経は私に似て、融通の利かないところは家内に似て、か。諦めんと 言ったら、本当に諦めんだろうなぁ……道を見定めたのは嬉しい事だが、竜騎士とは。い ずれ戦場に送る事になるぐらいなら、このまま芽が出ない事を祈るばかりか。我が子の夢 が潰えるのを願うとは、親としてはかなり駄目な部類なのだろうなぁ」  ぷるぷると震える木剣の切っ先。  へろへろと往復を繰り返す太刀筋。  ランニングはすぐに息が切れ、腹筋や腕立て伏せなどは1回も出来るかという有様。 「……想像以上だ」  休暇がてら様子見にとシュリアスの元を訪れたジェンスは、その様子を呆然と眺めていた。  シュリは真っ赤になりながら、ぷいと視線を逸らす。 「家で素振りなんぞしなくても、暇な奴に声を掛ければ、基礎訓練ぐらい教えてくれるぞ? 我流じゃ辛いだろう」 「私は、その基礎を習うレベルにも達してません。数字で言ったらゼロ以下です。まずは、 訓練をできる体を作るのが目標ですから」  へろっ、へにょといった感じで木剣を振るうシュリアスに、ジェンスはつかつかと歩み 寄る。 「それでも、効率よく体力をつけるようにしなきゃいかんだろう。ホレ、剣の握り方はもっ とこう」 「……なるほど」  握りを変えて、姿勢を正し、改めて木剣を振る。  1回、2回、3回……でバテる。  両手で握った木剣をぶら下げて、焦点の定まらない目で荒い息を吐く。 「よ……余計に疲れます……」 「そりゃそうだ。今までの振り方だと、ちゃんと体を使ってないからな。楽で負担が掛かっ てないから、当然鍛えられているわけはない。時間と疲労の無駄だ」 「な……なるほど……無知でした」  ふるふると首を振って、きゅっと口元を引き締める。  姿勢を正し、木剣を構え直す。 「ペースだけ上げてもしょうがないぞ。疲れたらちゃんと休憩も入れんと」 「疲れてませんから大丈夫です」 「さっき、疲れるって言ってたろ」 「今までより余計に疲れてただけで、体力が尽きたわけじゃないです」  先程よりは幾分かましになった太刀筋で、シュリアスは素振りを続行する。 「無理して体を壊しちゃ意味ないからな。限界以上にやるんじゃないぞ」 「まだ限界がわかりませんが、動けなくなったらそこまでだと思います」  そう言って、木剣の素振りは続く。  息は上がっており、太刀筋も鈍く、踏み込みは地面に引きずるようなものだった。  だが、それは日が落ちるまで続き、腕が上がらなくなった時にようやくその動きを止め て、地面にへたり込んだ。 「……はっ…………っ…………ぜっ…………」  荒いのを通り越して、発作を起こしてるんじゃないかと疑うような呼吸。  全身が汗だくで、足元はそこだけ雨が降ったかのように湿っていた。  ずるりと落ちた木剣の柄は血で汚れ、手のひらがどんな有様なのかを物語っていた。 「お疲れさん。限界は判ったか?」  返答はない。  正確には、返答が出来ない程に呼吸が乱れている。  ジェンスはぽりぽりと頬を掻くと、何時の間にか用意した救急箱を開くと、慣れた手付 きでぼろぼろの手のひらの消毒を済ませて包帯を巻いてくれた。 「なん……こんな……時間まで……付き合っ……て……くれる……ですか?」 「そりゃ、煽ったのは俺だし。志願とはいえ、同じ道を目指すなら後輩だろ?」  ぐったりしてるシュリアスの頭を、ぐりぐりと撫でるジェンス。  汗でぺったりとした髪が、くしゃくしゃになって酷い有様になる。 「今日はゆっくり風呂に入って休め。ここまでやったら、明日の筋肉痛はすげぇぞ」 「……はい」  そう返事をして、ぱたんと倒れたシュリアスを抱え、ジェンスはグリーンウッド家の勝 手口の戸を叩くのであった。  それから数年は、ある意味でこの国の名物となるシュリアスの姿があった。  始めの頃はといえば、子供が竜騎士に憧れて訓練を始める、ありがちな光景だと思われ ていたが、毎朝、日が昇る前から始めるランニングで、市場の者はすっかりと顔を覚えて いた。  柄をすり減らし使い潰した木剣は山と積まれ、廃材回収に来た木屑屋を驚かせた。  冷やかしに訪れた近所の悪ガキとの試合に負ければ、数日後には自ら悪ガキの溜まり場 に殴り込み、再試合を申し込んではまた負けたりもしていた。  数ヶ月が経つ頃には、根負けした悪ガキ連中が訓練に付き合うようになる。  といっても、日が昇る前から日が落ちる後まで続くシュリアスの猛特訓に実際について これる者はいるわけもなく、もっぱら木剣での組み手や、廃材で作り上げた訓練道具を用 意したり、休憩をきちんと取らせようと野山を連れ回し皆で昼食を食べたり、といった内 容ではあったが。  その後、路地裏で猛威を振るっていたガキ大将をシュリアスが打ち倒した時には、集まっ た悪ガキどもから歓声が上がったりもした。  8歳の頃はあまり気にされなかった性別も、12歳頃には意識されるようになり、ある 日シュリアスは一人の少年に呼び出される事になる。 「あのさ、俺と付き合ってくれないか?」 「付き合う? ああ、いいぞ。何処へだ?」  少年は後にこう語る。 「あまりにもベタ過ぎて、最初はからかわれてると思ったよ。でもまあ、人をからかった りできるような奴じゃないし。逆にすっぱり諦めがついて、今まで通り友達付き合いはで きたな」  15歳になったある日、シュリアスは一枚の書状を持って少年達の溜まり場を訪れた。  それは、竜騎士見習として城へ勤める事を認められた事を現すものだった。  歓声と共に感嘆と祝福の言葉を浴びせる少年達に、シュリアスは深々と頭を下げる。 「ありがとう。今まで私なんかに付き合ってくれて。この恩は国に尽くし民を護る事で……」  生真面目に語るシュリアスに、少年達は大声を上げて笑う。 「ばっか、俺らは友達だろ? 恩とかそういうの関係ねーって!」 「お前が頑張ってる姿を見てさ、俺らだって真面目にやってられたんだしな」 「あの頃は路地裏で喧嘩とか馬鹿な遊びばっかりしてたもんな」 「俺、シュリに武器作ってやりたくてさ、鍛冶屋の親方んとこ通ってんだぜ。町外れの工 房で、親方は騎士の武器や鎧をいくつも打ってる凄腕なんだ!」 「俺だって、市場で大分顔が利くようになったんだぜ。今度、親父にいくつか取引任せて 貰える事になってさ」 「竜騎士は無理だけどさ、衛兵とかで一緒に城勤めもありだしな。こいつ何時の間にか志 願してやがってさぁ」 「んだよ、俺の事なんざ誰も祝ってくれなかったろ」 「お前は彼女いるからいいんだよ。二人っきりで一晩中祝ってもらったくせに」 「シュリの前でそういう話すんなよ!」 「てかシュリの祝いの席だからな! というか、今そういう事にした!」 「おう、俺んちの酒場来いよ! 貸切りで祝おうぜ! どうせ他に客がいたって、シュリ の事なら祝ってくれるって!」  背中をばんばん叩かれ、頭をくしゃくしゃにされ、笑顔と歓声が溢れる中で。  竜騎士を志したその時から、もう流すまいと誓っていた涙が、零れ落ちた。  彼女が11歳の時、史上最年少である10歳の少女が入隊した。  彼女が15歳の時、ついに入隊を認められるだけの実力をつける事ができた。  彼女が17歳の時、一年早く入隊していた1歳年上の女性騎士が、竜騎士団において ほぼ頂点まで上り詰めていた。  彼女が25歳の時、小隊長として部隊を率いる事を認められた。  そして、竜騎士を志してから18年。  先を行く者の、後ろから追い抜いていく者の背中を見送り続けてきたが、決して歩みを 止める事はない。  ただ修練と実戦を積み重ね、ほんの僅かずつでも糧として、這うような速度でも前へと 進み続ける。