菜園の人
あの人の名前か噂を聞くと、大抵その日のうちに必ず出会う。
それはあたしにとってジンクスみたいなものだった。
そしてあの日以来いつも思うのだ。あの人にとってあたしは、紛れもない失敗作だったと。
菜園の人
この龍神の迷宮は、思いのほか広い。それは物理的な意味合いも含むが、そこに集う人間の種類もまた同じく広い。
幾多の人種、幾多の人生を背負うものが集い、その中で交錯し、あるいは連結していく。
その中に悪意じみた宿縁があり、神がかった奇縁さえもあった。
この話はそのうちの一つ。取るに足らないような、小さな縁の重なりの語である。
龍神の迷宮の奥。
通路内で二つのPTが出会い、行き掛けの世話話の様子を見せているとき。
バンダナを頭にまいた少女──スーは、暗闇の先にある通路の角を見つめている。
普段は騒がしい印象のある彼女だが、見張ってる間も騒げるほどお天気娘というわけでもなかった。
(……あそこでパーだしたのは失敗だったなぁ。)
後悔の念と共に、わきわきと手を動かし己の失策を責める。グーを出す仕草をしながらのパーという視覚的知略を尽くした一投は、放つ前の予備動作を見切られ、その裏を見事にかかれるような形で惨敗した。その結果として彼女には栄誉ある見張りとしての役割が分担されることとなった。
そんな小賢しいとも言える手段を使用したにも関わらずぶーたれるスーに対し、警戒機能と指揮の低下を重く見た隊長メリッサは、視力的な点と経験を考慮した上で同PTのフィオーネに協力を要請することで妥協するよう提案。双方の合意の後可決され、現在に至る。
ぶっちゃけただのつきあいとも言うが、それを引き受けるフィオーネもかなりに人が良い。
そして、現在見張りを続けるスーの背中では、情報交換をする仲間の声。
見張りをしながら、その中央にいる赤毛の少女の話を途切れ途切れに盗み聞きするが、なんだか興味をそそる内容がちらほらと顔を出しては消えていく。
まじめな話うらやましい。さらに言うとなんとなく侘しい。
しかし見張りを疎かにするわけにも行くまい。
下手をすればそこから襲撃の糸目を、闇の中のモンスターやら、今日も元気に(性的な)精力的活動を続けるにハイウェイマンズの皆さんにプレゼントする羽目になる。
そんな連中にプレゼントを差し上げるほどスーは慈愛に満ちた心などしているわけもなかったし、わざわざ付き合ってくれるフィオーネの善意を蔑ろにするわけにもいかない。
(オナー……だっけ? 街で会ったら話しかけてみよっかな。)
赤毛の少女の名を頭の中に刻み込みながら、見張りを続けているとぽんぽん、と肩を叩かれる。
振り返ると、すでになじみとなったフルフェイスのメットが見下ろしていた。
最初、迷宮で見上げたときはホラー体験と思えたが、馴染んでしまえば普通の顔と見えてくる今日このごろ。
「スー、どうだ?」
「異常なしであります、メリッサたいちょー」
びしっと敬礼ポーズをとって、下っぱ度をアピールしてみる。
そんなシタッパーズ最有力候補のスーに帰ってきたのはノリノリの声ではなく。
「スー。見張りをしろとは言ったが、警備兵になりきれとは言ってない」
全力であきれ返った声。
さすが鋼の聖女。ジョークに関しても鉄壁だ、などとと心で呟いておくとさらに追撃が飛んできた。
「それに警備兵は敬礼する必要もない。勉強不足だぞ、スー」
なるほど、少しは理解してくれていたらしい。それはよい傾向だと思いつつ、言葉のコミニュケーションとして高めのボールを投げつけた。
「メリッサ殿は最年長でありますから、サー」
別名余計な発言とも言う。
「それは敬ってるつもりか、最年少?」
がっちりとこめかみをホールド。鋼の小手にセットオンラブ。そこからは愛のこもった説教タイムの開始を告げるスーの苦悶ボイスが自動的に流れるはずだったが。
「サー! 自分にはこうされる理由が……ってあれ? あ、ちょっと待って」
「理由なら………ん? あ、こら、スー!」
するっと、イタチのようにメリッサの腕の中から抜け出すスー。たたたっと軽快な足音とともに、同じ仲間であるフィオーネの傍まで駆けていく。
突発的と言えるスーのこんな動作はわりとよくあること。メリッサはため息を一つ吐くと、話し合いに戻っていく。
「フィオーネ、どうしたの?」
「え……?」
顔を上げたフィオーネは、まるで白昼夢にでも囚われていたかのような表情。二、三度瞬きをしてようやっとこっちに戻ってきた、という感じに見えた。
「ぼーっとしすぎだよ、フィオーネ。風邪引いた?」
と、彼女に問うものの、なんでもない、との答えが帰ってくるばかりで。
その視線をふと追いかけると、その先には小柄でどこか人のよさそうな紅茶色の髪をした少女の姿がある。少なくとも、こんな場所に出てくるような風には見えないが、それはそれぞれの事情。知った方が面白いかもしれないが、知らない方がいいことだってある。
そう結論づけたところで、ひっかかった。
(……あれ?)
少なくとも、このクルルミク王国に来て初めて見る顔。どこかですれ違ったことがあるかもしれないが、直接話したことは一度もないはず。
しかし、違うとスーの記憶が告げていた。
ずっとずっと昔、もっと身近で見たような感覚。
気のせいと言うにはひっかかる。そんな曖昧な記憶。
首を何度かひねるものの、スーの脳は昨日食べた晩ご飯のメニュー程度しか絞りだせなかった。
(……既視感ってやつかな?)
「ああ、ええっと。あっちは異常なし。変な動き一つ無いから安心して。それじゃっ」
同じくぼうっと見ていたスーはごまかすようにそう告げ、所定の位置に駆け戻っていく。
そして、しばらくして話し合いは終わったらしい。
「へえ、それじゃあ大分地図も埋まったんだ」
聞けば向こうのPTから、迷宮の配置などを教えてもらえたとのこと。
礼を告げ、互いに無事と幸運を、とあいさつを交わし、別れる最中。
件の紅茶色の髪の少女がすれ違いざま、一言だけ呟いた。
「耳の長いお母さんに宜しくな」
──え?
──イマ、コノコハ、ナント、イッタ?
耳の長いお母さん。確かにそう聞こえた。
だが、おかしい。
そもそも初対面の人間で、その言葉が出てくるはずもない。スーはどう見ても人間にしか見えず、該当人物はそれ以外に入る人物なのだ。
ましてや──彼女はこう言ったのだ。
『宜しくな』と。
それは、間違いなくあり得ない。
あの人を母と知っている上で宜しくなどと言えるのは、同じギルドに所属している人間か──それともすでに墓の下にいるかのどちらしかないのだから。
得体の知れない寒気が体を包み込む。
手が震える。足が笑い出す。
思考が纏まらず、平衡感覚が乱される。
そうして混乱した心のまま、背中を振り返ってみれば。
そこには誰もいなかった。
そして迷宮から帰還したスーは仲間と解散し、一人街をぶらつくこととした。
頭の中にはまだ、あのときの混乱が残留していた。
なぜスーの『母』のことを知っているのか。
なぜあんな言い方をできたのか。
答えを求めながらに歩き続け、気づくと自分の借りている宿の前までたどり着いていた。
(……今度どこかで会ったら聞こう。なんだかちょっと怖いけど)
宿のドアをくぐり、ただいまの一言を言おうとした瞬間、スーは全てを理解した。
あの子がなぜ、あんなことを平然と言えたのか。
その根源が堂々と、宿の真ん中に鎮座していたからである。
極上の葡萄酒を縫いこんだ、といっても偽りではなさそうな深紅の上等なドレス。
蜂蜜色のふわりと波打つ髪と、髪にさえぎられて片方しか見えない透き通ったパライバブルーの瞳。
白磁のような透き通った肌と、人形じみた華奢な体つき。
そして妖精の血を引いている証である、長い耳。
ドレスと同じく、真っ赤な扇を手にした彼女は、まるで童女のようにでスーに微笑みかけ、
同時にタン、と床を踏み切った。
──え? ちょ、ちょっと!?
「スーちゃん、みーっつけた♪」
ダイブアンドキャッチ。キャッチアンドプレス。
良い感じの踏切から、勢いのしっかりついた真っ赤な物体に真正面から捕まって、スーはそのまま床の上に押し倒されるハメになった。
エレン・ケルセミィ。
スーのかつて所属していたギルドの監督員であり。
彼女に生きる術を与えた師であり。
スーという名前を与えた、正真正銘の育て親であった。
クルルミク王国でもそこそこに有名なレストラン、という題目のスー的不可侵エリア。
普段目にすることのない装飾品やら着飾った人種やらの中に紛れて、スーはひらひらとした頼りない衣服と、やけにすーすーする胸元の違和感にさっきから居心地の悪さを覚えていた。
オシャレをするのは嫌いじゃないが、この格好はいささかに先端を走りすぎている。がばりと開いた胸元なんて一歩間違えれば娼婦の仲間入りでもしそうなきわどさだ。
少なくとも今のこの状況をPTの皆に見られたらどう思われるか。仮装パーティと思われれば幸いだが。まかり間違ってもこんな面白い服装が最大限のオシャレなんです、なんて思われた日には記憶を洗い流す方法を必死で考えねばなるまい。
「しかし馬子にも衣装っていうけどー」
そして、家族水入らず宣言を発動しここまでスーを引っ張ってきた義母は、そんな居心地悪そうな娘の様子を気遣ったのか、上から下まですうっと流すように見て。
「あれ、嘘ね。似合わないものは似合わないわ」
ぶん投げやがった。
「自分が飾りつけておいてそれ!?」
あれやこれやと楽しげにリボンを飾りつけられ、似合もしない装身具をプレゼントされ、とどめにそれでは切なすぎる。
「お義母さんのセンス、そんなに悪くないと思うんだけど」
「何着ても似合う人にはセンスなんていらないでしょ」
下手をすれば娼婦扱いされかねない真っ赤なドレスを違和感なく普段着にしてるようなこの義母は、美的センスという言葉を生まれたときからどこかに落としてきているのだろう。いっそ全裸で歩いたところで変態扱いどころかプラス修正が入って芸術作品呼ばわりされるに違いない。
「わぁい、スーちゃんに褒められちゃった。お義母さんまだまだイケるわね」
「お相手はいるの?」
「ええ。近所のサーラくん6歳。尻尾が可愛い中型犬で、お義母さんが餌持ってくと尻尾振って大喜びー」
「それ年齢以前の問題だよ!?」
思わず立ち上がって叫ぶも、周りからの視線にあえなく撃墜した。
「あらあら、はしゃいじゃって。そんなに喜んでもらえるとは思わなかったわ。家族水入らず宣言は正解ね」
「今更だけど。お義母さんがギルド監督員のお仕事をやれてることに疑問を持ったわ」
「優秀よー。この間もまた盗賊ギルドからスカウト来る子、育てちゃったし」
自慢げに胸をはるエレン。
こんな脳が湯だってそうなエルフではあるが、教え方は優秀なようであり、少なくとも才能の有無にかかわらず人を育てるという手段には秀でている。……もっとも、スーはその中でも一番に出来の悪い生徒として有名だったが。
とかく都合のいい話の流れになってきた。これならば切り出せると確信を抱き。
「……で、どうしてここにいるの、お義母さん」
小難しい名前の並んだメニューを母が目で仕草を見せる中、彼女はようやっと本題を直球で投げつけた。
「スーちゃん、ここお子様ランチないみたいね。残念」
その直球を見事にスルーした。本気で残念そうなあたり人の話を全く聞いていない。
「人の話聞こうよお義母さん!」
「あれ、嫌いだったっけ。 ……ははあん?」
「いや、背伸びしてるなって顔しない! そもそもこういう店にそんなのあるわけないでしょ」
至って常識的な話である。側に立つウェイターの顔も心なしか引きつってるように見えた。
「ないの?」
「ウェイターさん困ってるからやめてあげて」
まっこと純粋に聞き返す義母を押しとどめるスー。とりあえずメニューの解読は先ほど義母が済ませたようなので、適当に注文を告げてウェイターを下がらせた。
「で……答えて。なんで此処にいるの?」
「スーちゃん追いかけて来ちゃった」
……びく、と肩が震えるのをとどめることができなかった。
その言葉は想定した中でも一番悪い答えであり──
「っていうのは嘘で、お仕事ついでのお買い物よ。今掘り出し物が出てるって聞いたから」
こともなげに言うエレンの様子にほっと息を吐き出した。
「……そう。……でも、そんなのあたし知らないけど?」
「お義母さんの長い耳は普通の人より良く聞こえるからかしら。いっぱいあるわよ、掘り出し物」
「奇妙なモノを買いあさることは掘り出し物と言わないって知ってる?」
「あれは旅の記念よ」
「それを真っ先にギルド長の部屋に持って行くのやめようよ。捨てるに捨てられないんだから」
「涙流して喜んでくれるんだからいいでしょ? ……じゃ、お義母さんからも質問」
答えたんだから勿論答えてくれるわよね、とその目は語っており。
「スーちゃんは一言も言わずギルドを飛び出しちゃったようだけど……戻ってこないの?」
パライバブルーの瞳が、スーをまっすぐに捕らえる。表情はさきほどまでとどこも代わりはない。違いは、スーを見つめているというだけで。
責めるでもなくそして問いただすでもなく、静かに答えを待っている。
こういう義母の様子は久々に見る。
答えづらいことを聞くとき、いつもこんな目をしていた。
「……うん。ごめん、お義母さん」
だから、言えた。ひどく重たいその言葉を。
「あの時のことは事故よ。誰にも止める事なんてできなかったわ」
聞きわけのない子に言い聞かせる様子で義母は続けた。
だが、あれはスーの過失に間違いはなかった。
その事故と呼ばれる事件のあった日、そっとドア越しに見たギルド長から投げつけられる叱責と、エレンの懸命の謝罪。
部下の失敗を補うと言うにはあまりに過分な言い訳。罰を回避するために自らを矢面に立てるという犠牲。
普段見ることのないそれは、彼女の行動が原因の事故であるとはっきりと浮彫りにしていた。
ただでさえ普段から覚えの悪さを披露し、数々の失敗を重ねてきた。それはエレンの教えが優秀なだけにどうしようもない失敗品としての事実を示していた。それだけならまだいい。
そんな失敗品のことまで、エレンはかばうのだ。
限界だった。
「あたしは戻らない。少なくとも……なにか成果を残してから、戻りたいの」
義母の重荷にはなりたくなかった。
出来の悪い子であるだけでも苦痛だったのに、さらに拾われた子供だから、ただそれだけで義母の名誉まで食い荒らすなど、耐えられる話ではなかった。
だから、あのギルドから消えたのだ。
そして、だからこそ、あがこうと決めたのだ。
いつか、義母の誇りとなる何かを成しえて、報告するために。
エレンの失敗作のスーではなく。エレンの教えの集大成のスーになるために。
「……そっかあ。スーちゃんもちょっと大人になっちゃったかぁ」
義母は、その言葉を受けてどこか寂しそうに笑っていた。
今まで彼女の目に写っていたのは、きっと。
「この間まで泣いてる赤子だと思ってたのに……やっぱり人間って成長早いなぁ」
「……お義母さん」
言葉が浮かばない。
遠くを見てわずかに目を細める母の姿はずっと昔から変わっていなくて。
自分はこれだけ育ってしまっているだけに。
戸惑うスーの前で、しかし彼女は笑顔を作って、言い放った。
「じゃ、しょーがない。半端せずに納得いくまでやんなさい。お義母さん、老衰で死ぬまで待ってるから」
いいこと言ったと自信みなぎるご様子で。
だからこそツッコミ入れざるを得なかった。
「……いや、あたしの方がそれ、先に死ぬから」
言ったとたんである。ぷくーと麗しいはずの義母の顔がフグよろしくふくれあがった。容貌を最大限まで破壊する行為の後に、ぷいと顔を背け。
「親より先に死ぬなんて親不幸は許しません。根性で長生きしなさい」
「ムチャクチャ言わないでよ!?」
「スーちゃんはやればできる子だもの」
「信頼しきった目で言わないで!」
ダメだ。
この義母は変わってない。
子供っぽいところも。そして、変なところで懐が深いところも。
「じゃ、今日はスーちゃんちょっと大人になった記念なので、お酒を頼んじゃおうかな〜」
「やめてって。葡萄酒一口で潰れるんだから」
「頼りになる愛娘にすべてを託すわ。支払いコミで」
「最悪だよ、それ!」
本当にこの義母は……。
スーは、こんな困った義母に育てられたことを感謝した。
そして月が空に上るころ。
食事を終え店を出たスーと義母は、大通りで足を止める。
「お義母さん。また、いつかね」
「うん。またいつか」
「手紙、書こうか?」
「黒ヤギさんたら読まずに食べたー」
何を言い出すかと思ったが、反らした顔が告げていた。あくまで自分の足で報告に来いということを。
こういうところは変に厳しい。
「わかった。じゃあ、何かすごいことできたら、一番に報告に行くから」
「ええ。待ってるわ。耳を長くして」
「それ以上伸びたら大変だって。あと、お義母さん、あんまり衝動買いしないでね」
「わかってまーす」
普通娘にたしなめられる母というのも珍しい。でも、この義母だからこそ実に自然と言えた。
だいたいいつもこんな感じだった。これがいつもの親娘の関係だった。
このまま、ずっとこうしていられたら。
そんな甘い誘惑が、じわりと足元に沸いてきた。ここでもしも、心変わりをしたと言えばどうなるだろうか?
きっとこの優しくも甘い義母は拒否しない。それどころか微笑んで受け入れるだろう。
(……あたしは、馬鹿だ。)
言った傍からこれか。自分の弱さに少し呆れる。ぬるま湯につかりきって、人に迷惑だけかけて。
それを避けたかったから、何も告げずギルドから脱けたのに。
だけど、それはもう終わりだ。
たったいま、決別を決めた。
この義母の誇れる者になれるまでは、あの甘く優しかった日々を忘れよう、と。
「じゃ、あたし行くね」
だから。
手を挙げて、返事も聞かずに背中を向けて駆け出した。
脇目も振らず、人込みを駆け抜けるように。
その背に当たった声は、きっと気のせい。
じわりと、目端から涙がこぼれるのもきっと気のせい。
気のせいなんだから、これは。
「がんばってらっしゃい」
頑張ってきます、お義母さん。
──END
薄暗い月明かりが、彼女と彼女の向き合うものの姿を照らす。
昼間は咲き乱れる花のような衣服も、そして、見栄えのする艶やかな髪も、この光の前では正体を現す。
染め上げた血の赤と、塗りつぶしたような真性の黒を。
エレン・ケルセミィという名前のエルフは、そこにいなかった。
「久々に会った娘の姿はどうだった、冶葛」
冶葛(。それがエレンのもう一つの名前。かつてその名で呼ぶ者は数多くいたが、年月がそれら全てを鬼籍へと連れ去っていった。
たった一つの例外。
目の前にいる、小柄な少女の形をした何かを除いて。
それは旧知の友のように、猛毒の華に語りかけた。
故に冶葛の口からも、その言葉はすらりと流れ出た。
「相変わらず無能で、相変わらず鈍い。吐き気を催すほど愛らしいよ、四(は。未だにアレを過失と思いこみ続け、私を優しい義母だと信じて髪の毛一筋ほども疑ってない」
童女の笑みはすでに無い。
あるのは三日月のような、口元を吊り上げた笑み。
愛し子と呼び、励ましたその口で、無能と吐き捨て、汚す。
そこには欠片の罪悪感も存在していなかった。
「しかし奇縁だな。あのような場所で遭遇するとは思わなかった」
「お前のことを覚えていたかね、黒猫」
「いや。だからこそ瞳に走る怯えの色は悪く無かった」
心の中を抉られ今にも崩れ落ちそうな怯えの色に、有り得るはずのない現象に戸惑う猜疑の色。様々な感情がない交ぜになった、瑞々しい負の感情。
「その手」の趣味があるのなら、あれは極上の『食い物』と言えるだろう。
「無理もない。乳飲み子の頃だったからな」
「お前に拾われるとは運のない赤子だと思ったよ」
「違いない」
それでも何も知らないスーは笑うのだろう。赤子の頃、拾い上げた彼女の腕の中で初めて見せた顔そのままに。
ボロ布にくるまれ、うち捨てられていた赤子が浮かべ得る笑顔はあまりにも無防備で、警戒の一つすら抱いていなかった。
冶葛はその笑顔に二つの思いを抱いた。そのままの笑顔を維持して育ててみたいという願望と、手を離して跡形もなく砕いてみたいという願望を。
たまたまそのときは前者が勝った。
きっと一生知ることもない事実であるが、スーがその命を救われたのは、ただそれだけの事だったのだ。
「あまりの無能に手放したと思ったが。冶葛の眼鏡に叶ったのかね?」
「ああ。本人は極めて無能だがね。あいつのうろつく場所には、稀有な人材が必ず居る。まるで磁石だな」
「あれだけ駒を育てて、まだ足りないか」
「人を育てるのは面白い。水の与え方一つで、ときに本質を歪ませるほどに育つ」
長い年月を人の世界で生きた冶葛にとって、肉体的に得られる快楽は塵ほどの価値すら持たない。そんなものはとうの昔に貪り尽くし、貪り尽くされた。
そんな彼女の唯一楽しめる「趣味」が人を育てることであった。
望み通り育てばさらに育つように愛で、気が向けば収穫し、失敗作と感じれば捨てるか刈り取る。珍しい種を見つければ、とりあえず育ててみる。時々は代を重ねさせて品種改良まで施す。欲しがる者がいて、愛着がなければ譲り渡し、愛着があれば大事に枯れるまで育て上げる。
そこだけは彼女が遙か昔、森のエルフだったころとまるで変わっていない。だから未だに感動を覚えるのだろうか。
違うのは育つモノが植物か、それとも人間かの違いだけである。
故に黒猫(と呼ばれた彼女とは利害が一致していた。
需要と供給。
互いに利用しあうだけの関係であるが、それがゆえに長続きするケースがそこにあった。
「さて、そろそろ私は失礼しようか。お前と違い暇というわけでもない」
黒猫は伸びを一つし、夜闇に消えていこうとする。
血の赤は、そこへ問いを投げかけた。
「目的(は果たせそうかね、黒猫」
闇にまぎれる最中、声が一つ返された。
「此処で果てるもまた一興」
ふふ、と小さな忍び笑いが夜に溶ける。
「幸運を、黒猫」
「よい買い物を、冶葛」
薄い月明かりが、雲に隠れる合間。
すべては夜の闇に消えていった。
FADE IN NIGHT…