クルルミク王国、某所宿。  迷宮から戻り、深夜の時をやや過ぎたあたりから、彼女は日課を始める。  ──才なく在る者  眠りについた同室の皆の吐息を聞きながら、彼女は自前の薄い財布の中から「道具」  を取り出した。 「んしょ……っと」  手にした道具は小さな縫い針と、同じ程度の細さの木綿糸。  カーテンで遮られた部屋は月光も入らず、ただ、寝息と己の呼気、そして時折聞こえ る街独特の喧噪の音。  その中で彼女は針と糸をそれぞれの手に握り、黙々と手を動かし始める。  手元さえ見えない真っ暗な空間の中、細い針穴に糸を通す作業。彼女の所属していた ギルドのシーフに示されていた練習法の一つ。夜目の鍛錬と手先の訓練となる基本的な 作業の一貫であった。 (……たぶん、あたしだけだろうなあ。未だにこんなことしてんの。)  吐息を一つ漏らす。  彼女の手にした木綿の糸は。  針穴を通ることなく、嘲笑うように捻曲がっていた。  自分には才能がない。それを知らされたのもこの練習だった。  親もなく兄弟もなく、そして自分の生まれた場所さえ知らない。年も正確に把握して おらず、だいたい何年生きたか程度の知識しか持っていない。  物覚えもさほど良くはなく、見てくれも見目麗しいとは決して言えない。  我を通すだけの腕力も持ち得ず、人の間を渡り惑わす性根も持ち合わせておらず。  神への信心を捧げることもなく、また、外法に染まる度胸さえもなく。  他人より優れているのは、少々手先が器用なこと程度であった。  そんな彼女が冒険者のギルドに拾われたのは、其処にしか居場所を与えられないと 天が判断したのかもしれない。  彼女を拾ったギルドの監督員は「四(スー)」と呼ぶことにした。  そして、彼女が教えられたのはその手先の器用さを生かした「盗賊」としての技術で あったのだが。  まず、その鍛錬を続けてから1年で、同じ時期にその鍛錬を始めた同輩が、その練習 を必要としなくなった。  2年で、さらに自分より年若い盗賊が糸を2本通す技術を編み出した。  5年で、最初から鍛錬の不要な者が現れた。  そして彼女はというと──結局未だこの針穴へスマートに糸一本通すことができない ままで居る。  おかげで冒険者ギルドから盗賊ギルドへ売り渡されることもなく、そして見捨てられ ることもなくお情けという形で「遺跡専用」のギルドシーフとして存在できたのは、幸  運であったのかもしれないが。  ──ほんと、才能ないなあ。  自分と同じ出発点を辿り、しかし遙か先まで走り去っていった同輩の言葉が浮かぶ。  ──要領が悪いんですよ。センパイは。  2本の糸を通し、さらに結んで見せた後輩の言葉が浮かぶ。  ──そんな練習、やる必要あるの?  投げた針に糸を通した誰かの言葉が浮かぶ。  浮かぶ。浮かぶ。浮かぶ。  ありとあらゆる否定の言葉が浮かび、己の中に沈み込む。  チクリ── 「いたっ……」  指先に痛みが走る。針をいつの間にか強く握っていたのか、赤い滴りが筋を作ってい た。 「……考え事しながらじゃ、駄目だよねー。あー…まったく」  ぼやきながら指先をペロリと舐める。  鉄錆の味とその痛みが、冷静さと目的を思い出させた。 (集中、集中……っと)  暗闇の中で糸を見定め、針穴を探る。  落ち着け、呼吸。  震えるな、指先。  他者が見たなら焦れったさを覚えるほどにゆっくりとした動きで── (──通った!)  ふううううう、と大きく吐息が漏れる。身を包むのは達成感と心地よい疲労。  手の上に乗っかる針はしっかりと糸をくわえ込み、彼女の行為の成功を示していた。  それからきっちり2時間後。   「これで、21回……っと……。新記録更新っ!」  大きくVサインと同時に、飛ぶ針と糸。  次いで聞こえたのは床を針が叩く澄んだ金属音と、もぞりと隣のベッドで誰かが動く 気配。 「………うう………なに?」 (やばー!? ……あ、ごめんなさいごめんなさいすいません! すっごくうれしかっ たからつい調子のりましたー!!!!)  あわてて口を押さえ、とっさの判断で布団に潜り込んで息を殺す。   隣人は気のせいと思ったらしい。再び静かな寝息が聞こえ始めたところで、スーは  はた、と気づいてしまった。 (ていうか針! 針!! どこ投げたっけ!?)  ベッドから飛び起き、寝起きの薄着のままで床を這い回り、針を探し始める。  こんな時小さな針というのは非常にたちが悪い。しかもよりにもよって彼女はシーフ だ。そんな職業の人間が落とした針なんぞ踏んづけたりしたら……間違いなく面白いよ うに誤解と誤報が連鎖反応し刃傷沙汰が完成すること間違いなし。  嬉しくて針を床に落としました。  そんな理由で死ぬなんて、セメントすぎる。  それに万一無事に済んだとしても、話を聞きつけた現在のパーティリーダー、メリッ サから愛と哀しみと誠意の溢れんばかりにこもった説教と題した行為は、避けられまい。  あのこめかみの痛みは、次食らったら死を迎えることになる。  よって探す。未だ暗い部屋の中、床板の目一つ、埃一つ逃さぬように視線を巡らせ、 まだ見ぬ宝を探す精緻さを持って探索を続ける。  そして、這い回ること20分、ようやっと落ちた針を発見することに成功した。 (よしっ! 偉いぞあたし! これで災害は未然に防がれた!)  拾い上げた針を高々と掲げガッツポーズ。 「………あの……何してるの?」 「え?」  かかる声に思わず振り返ると。  隣で寝ていたはずの誰かはベッドから半身を起こしており。 「えーっと……これは……」  起こしてしまったことに対する詫びの一つでも、と言葉を紡ごうし。  その表情に気づいてしまった。  ──ナニカ エタイノシレナイ イキモノ ガ イル  ふと自分の行動を回想する。  夜中に半裸で床を這い回り続ける>いきなり起きあがりガッツポーズ。 (………うわ……ヤバっ……そんな生き物はあたしでも関わりたくないっ!?)  さあ、寝起きの彼女の脳裏に「変態」の二文字が刻まれる前にうまいこといいわけを 考えねば、と あまり上等な作りではない脳味噌をフルドライブさせるスー。 「…え、ええと……違うんだよ、その……これは……」  そして、彼女の若干春色な脳は一つの答えをはじき出した。 「こ、これは……ね、寝る前のお祈り!」 「……え゛」  大失敗だった。  同時に、相手の思考を根こそぎ奪い去るレベルの、凶悪な破壊力を秘めた呪言が完成 した瞬間とも言えた。  素直に、最初から説明すれば笑ってすまされたかもしれない。  この後説得には実に2時間という時を費やしたのだが、それはさておくこととする。    そして、朝。  目覚めてから、着替えをすませ食事を軽く済ませる。  あまり食べ過ぎると、身のこなしが重くなる、ということも含み、彼女の食事は小食 と言える部類に入っていた。 「コラ、また野菜残してー」 「あああ、入れないで、お願い入れないで! そんなにたくさん入らないから!」 「好き嫌い禁止さね」 「違うんだって、おばちゃーん!」  大部分は偏食にもあったのだが。  最近は軽くで澄まなくなりそうな気配もあるようだ。  その後、もう一つの日課と言える宿の前の掃除などを済ませつつ。  時折通りかかる冒険者やら、ワイズナー討伐隊の面々やらに早朝の挨拶なども交わす。  大抵はほっとかれることが多いようだが。 「いってらっしゃーい」 「いってらっしゃーい……はいいけどさ、スー」 「何? どしたのおばちゃん」 「あんた、集合間に合うの? 今日は朝からじゃなかったっけ」 「………しまったー!? ごめん、帰ってきたら続きやるからー!」  どたばたどたばた、だだだだだっ  宿の主人に箒を渡し、次いで自室まで駆け込み、必要な荷物を一式抱えて宿から飛び 出す。あわただしいことこの上ない様相は、よほどヤバい時間に達していると全身でア ピールしていた。 (……続きもなにもあったもんじゃないだろうにねえ。)  すっ転びそうな危なっかしい走り方で賭けだしていくスーを見ながら、一つ溜息を吐 き。 「ほんと、鈍くさい子だね」  その言葉は、間違いなく彼女の中身を言い当てていた。  走りながら、スーは考える。  仲間のこと、自分のこと、これからのこと。  今度のパーティは、皆付き合いやすい人ばかりであり、居心地も良い。  だが──。  それ故に自分の素質のなさは、ネックでもある。  スーは知っている。  才能の差は必ずあり、自分はきっと、その中でも劣の部類に入ることを。  スーは知っている。  世の中は最終的に弱肉強食で、弱いものは振り落とされていくことを。  スーは知っている。  その弱肉強食の秤にかけられ、実際に振り落とされた空虚感を覚えている。  実際──今のパーティメンバー……否、この国の冒険者全員を探しても、自分より素 質のない人間など、いないだろう。  その事実が、体にまとわりつき、心に風穴を穿とうとする。    しかし。  だから、何だというのか。  歩みが遅いなら、数を増やせばよい。  才能がないなら、その分努力して埋め合わせればいい。  1の努力で100を得る天才がいるなら。  自分は100の努力で1を得る凡人である。  追い抜かれるのは慣れている。  最終的に立つ位置が同じなら、歩みを止めなければいいだけなのだから。 「大丈夫。あたしは努力できる数なら誰よりも上なんだ」  走る足に力を入れる。体はさらに速度を得て、風切りの心地よさを覚える。  スーは最高速度でまとわりつく「それ」を振り切った。 「ごめーん、遅刻したー!! 全力寝坊でーす!!」  朝の空気に、けたたましい足音と、それを打ち消す大声が響く。  そうして彼女の一日は、また始まる。