外には薄闇がたちこめている。
 微かな光に照らされた中で、その母親は、そっと我が子の顔を撫でる。
 小さく身じろぎする赤子の寝顔は安らかで、それを見つめる母親の顔はなお安らかだった。
 母は、これから行かねばならない。我が子を置いて。
 願うことは、ただ一つ。
 どうかこの小さなこの子の未来に、幸多きことを―――。


 それは十数年ほど前のこと。
 クルルミク王国の東地方。豊かな山と森に囲まれた土地に、マドレの要塞都市はあった。
 本来その都市は対グラッセンのための要となるはずの要塞都市だったが、長らく交戦がない間にすっかり花と緑が自慢の街へと姿を変えていた。
 そんな平和な街に、ある日大きな異変が起きる。

 竜が、飛来したのである。

 それ自体は別に珍しいことではない。
 竜騎士が飛竜に乗ってマドレを訪れることは時折あったし、上空を悠々と飛んでいく飛竜を子供達が大喜びで見送る光景も、この国ではよくあることだった。
 クルルミク王国は龍神の加護を受ける国である。竜騎士の竜でなくとも、彼ら竜族は王国の人々に対して友好的であり、特に街の近くに住むような竜たちは人々に危害を加えることはない。
 だが、例外は存在する。
 そしてまさにその例外が、このときマドレの街に飛来した一匹の飛竜であった。

 突如、轟音と共にマドレの街の象徴であった教会の鐘楼が破壊された。
 上空から急降下した飛竜が下敷きにしたのである。
 いつもなら穏やかな昼の訪れを知らせるはずであった教会の鐘が、無惨に吹き飛んで地面に跳ね返り、歪んだ音を鳴り響かせる。

 何事だろうかと様子を見にきた人々が見たのは、教会の屋根の上に降り立った巨大な姿。
 それは、カッと見開いた双眸を真赤に血走らせた緑の飛竜だった。
 大の大人をゆうに越す身の丈。獰猛な肉食獣のような張り詰めた筋肉。ぎらついた鋭い歯の並んだ顎門(あぎと)からは白い蒸気が漏れ、いつ炎を吐き出してもおかしくはない。鋼すらも易々と切り裂くであろうその爪は、獲物を探してかゆらゆらと矛先を彷徨わせている。

 最初、人々は目の前の状況を理解できなかった。竜がこんな街中にやってきて暴れるなど聞いたこともなかった。
 だが目の前の飛竜が、力強い羽ばたきと共に教会の屋根から大地へ降り立ち、足元に転がる鐘を軋んだ金属音と共に踏み潰すと、ようやく皆の中で遅れていた恐怖がやってきた。
 悲鳴を上げながら我先へと逃げ出し始めるマドレの民。つい今しがたまで穏やかな時間が流れていた都市は、一瞬にしてけたたましい喧騒に包まれた。

 緑の飛竜はそんな人々の様子をしばし黙って眺めると、おもむろに口を大きく開き、まるで宣戦布告のように高らかに咆哮をあげてみせた。
 その凄まじい咆哮は山を越え、国境すら越えて隣国のグラッセンまで届いたという。
 後にマドレの悲劇と呼ばれる事件の、これが始まりである。


「なんてこと……。ここは綺麗な花の咲く、良い街でしたのに」

 一人の見目麗しきエルフの女性がマドレの街を訪れたのは、飛竜が暴れ初めて数時間が経った頃である。
 微かに茶がかった透き通る金髪を新緑色のリボンでくくり、同じ色の衣服を若木のような華奢な身体に纏っている。その肌は新雪を思わせるほど白い。鮮やかな緑の瞳の映える顔立ちには微かに幼さが残り、少々胸が大きいことを除けば、まさしく妖精の一族にふさわしいといった容姿である。
 女性の名はスピリア=クロスフォード。たおやかな花のような外見にも関わらず、れっきとした冒険者である。

 この日、マドレの街の付近には運悪く即座に動ける竜騎士が一人もいなかった。
 険しい山と深い森に囲まれた上に頑丈な壁で守られた要塞都市マドレは、空から奇襲を仕掛けでもしない限り容易に落とせる場所ではない。そして勿論、空から十分な兵力での奇襲などという作戦を実行できるのは、飛竜騎士団のあるクルルミク王国だけである。
 ゆえに例え竜騎士がおらずとも、常駐のわずかな民兵だけで十分に事足りていた。はずだった。

 まさか飛竜が単身突撃してきて暴れだすなど、想定外もいいところである。

 結果として、肝心の事態に竜族に対し圧倒的なアドバンテージを誇る竜騎士がいないという状況が発生してしまった。

 この事に慌てた王国は、付近の冒険者宛てに片端からふれを出した。内容は以下の通りである。

“竜騎士団が辿りつくまで、マドレの街を飛竜から防衛せよ。
 対象の飛竜が極めて凶暴である場合、殺傷もやむなし”

 たまたまマドレの近くの町で宿をとっていたスピリアは、そのふれを聞いたとき疑問に思った。

(竜は竜騎士に育てられなくとも、とても優れた知能を持つ生き物よ。なのに、人の街を無闇に襲うなんて)

 スピリアはエルフである。妖精の種族である彼女は人以外の生き物の心にも敏感であり、精神感応の魔法で様々な生き物と会話もできる。長年の冒険者生活の中で竜とも話したことのある彼女は、今回の飛竜の行動には疑問があった。

(……。……本当なら、今はあまり危険なことはしたくないのだけど)

 スピリアの相方である冒険者の夫は、現在別行動を取っていて傍にいない。加えてスピリア自身も、ある事情があってあまり無茶のできない身体だった。腹の中に赤子がいるのである。
 夫との間に子ができたと知ったのはつい先日のことだ。それを知ったとき、スピリアは冒険者をやめる決意を固めた。今は冒険者時代の最後の思い出にとクルルミク王国内の街を見てまわっている旅の途中だった。
 まだつわりも来てはいない身だが、激しく動くのは身体にも胎内の赤子にもよくない。

 しかし、スピリアはこの飛竜のことがどうしても気になってしまった。
 つい先ほど空に響き渡った竜の咆哮。あの物悲しい声が、この飛竜のものだったとしたら――。

(……やはり、どうしても気になります)

 スピリアはついに居ても立ってもいられず、愛用の杖を掴むと宿から飛び出した。


 そうして数時間かけて到着したスピリアが見たものは、無惨にあちこちの建物が破壊されたマドレの街と、その中心で暴れる飛竜。そして、飛竜にたかる十数人の屈強な冒険者たちの姿だった。

「よーし、だいぶ弱らせたぞ!」
「油断するな。ブレスをまともに食らえば命はないぞ」
「くそっ、凶暴だな。こりゃ、なかなか……うおっ!?」

 突如として吹き荒れる突風。嵐の中でも平気で飛行するという飛竜の逞しい翼が巻き起こす風。
 周囲にたかっていた冒険者たちが吹き飛び、スピリアの目に飛竜の全身が映しだされた。

「………っ!」

 飛竜はぼろぼろだった。全身のあちこちに創傷や魔法による傷が刻まれ、翼は所々破れかかっている。尾は半ばから先を焼き焦がされ、片目を潰された顔は苦痛と怒りに溢れていた。
 あまりの様子に、スピリアが思わず青ざめ、手を口に当てる。

「どうして……そこまでして…!」

 そのスピリアの心に、ふと飛竜の思念が響いた。

 …エセ……ワタ……ドモ…

「え……?」

 傷のせいだろう。飛竜の意思がいまいち聞き取れない。
 スピリアは愛用の杖を取り出した。

「……スピリアの名において、目覚めよ、“振動”!」

 “振動”の名を冠したその杖は、持ち主の魔力を増幅させると同時に精神に反動を与える曰く付きの魔杖である。

(う……っ。しばらく使ってなかったから、反動がきついですね…)

 微かな眩暈をこらえて、精神感応の魔法の力を増幅させる。

《さあ、聞かせてください。あなたの声を》

 その問いかけに、今度こそはっきりと飛竜の意思が伝わる。

   ウバ…ワレタ……

   ……トリモドサネバ…ナラナイ…

   マモラネバ……

《何を…探しているの……?》

   ……ワタシノ……

   ワタシ…ノ…コドモ……

「!!!!」

 刹那、全ての合点がいった。

 そういえば、この飛竜はロクに冒険者たちに攻撃を与えていない。真っ当に戦っていたなら、こんな急場凌ぎで集めた冒険者たちなど、本来は相手にならない。それほど竜という種は強いはずなのだ。
 なのにこの緑の飛竜は建物を壊してまわるだけで、人間に危害は与えていないようだった。
 何故か。
 ひたすらに探していたのだ。自分の子供を。

「それで、ずっと……反撃もせずに……」

 スピリアは思い出す。あの物悲しい咆哮を。
 あれはやはりこの飛竜の声だった。そしてきっとそれは威嚇でもなんでもない。自分の子供への呼びかけだったのではないか。

 スピリアの手が無意識に自分の下腹部を押さえていた。

「誰が……誰が、あなたの子を……」

 驚きと悲しみ、そして微かな怒りが沸いて来る。
 子を奪われた母の嘆きは、悲しみは、一体どれほどのものなのだろう。
 目の前に答えがある。
 こんなボロボロの姿になってまで、この飛竜は自分の子を探し続けている。

  ……オオオ……

  ……カエセ……カエセェェ…

 飛竜はただひたすらに建物を破壊する。既に街の人々は避難しており、石の崩れる音だけが響く。
 だが、どこにも“彼女”の子は見当たらない。
 そんな飛竜に、起き上がった冒険者達が群がっていく。

「あとちょっとだ! やるぞぉぉぉ!!」
「やめて! “彼女”は、“彼女”は自分の子を!!」

 スピリアの叫びはしかし、興奮した冒険者たちに届かない。

(こ、このままじゃいけない……)

 杖を取り出し、精神を集中した。
 一刻も早く子を見つけださなければ、あの飛竜は取り返しのつかないことになる。
 一見、この街のどこにも竜の子なんていないように見える。だが、こんな無謀を試みた以上、母竜は確かにこの辺りに我が子の気配を感じているのだろう。

(なら私が、魔法の力で探し出せば……!)

 呪文を呟く。呟くたびに、スピリアの視界が歪んだ。“振動”の魔杖の代償が、スピリアの精神を揺さぶっているのだ。しかし、今は耐えなければならない。
 杖からの反動をぐっとこらえて、呪文を完成させる。

「『探知(サーチ)』!!」

 付近からあの飛竜と同じ波動の命を探し出す。
 果たして、反応はあった。魔杖の力を借りなければわからなかったであろうほど、微かな反応が。

《………真下よ! あなたの子は、地下にいます!!》

  ………オオオオオオオ!!

 スピリアの呼びかけに、飛竜は一度大きく吼えると先ほどの突風を真下に向かって繰り出した。
 一瞬で石畳が軋み、剥がれ、大きな音を立てて崩れ落ちる。

「うおおおおおおおっ!?」

 周囲を囲んでいた冒険者たちが再び驚きの声と共に吹き飛ばされていった。
 スピリアは素早く駆け寄って、ぽっかりと空いた穴から中を覗き込む。

 そこに、いた。

 飛竜の暴れていた場所の下に、洞窟が通っていた。見るからに、人口の洞窟である。長い時間をかけて掘ったのであろう。
 そこに人影が一人。黒尽くめの装束を纏った男が、縄でがんじがらめに縛った飛竜の子どもをぶら下げていた。竜の子はか細い声で、きぃ、と一声だけ鳴く。
 一目瞭然。この男が飛竜の子を使って、ここから親の竜を呼び寄せていたのだ。
 穴を覗き込んだ飛竜の目がその様子を確認し、ぎらりと赤く輝いた。

「ぬうっ! 何故、この場所を……! 死ねィ!!!」
「きゃ……っ!」

 見つかったと知るや否や、男の手から炎の球が放たれ、スピリアと飛竜目掛けて火の粉を撒き散らせながら飛んだ。

(無詠唱で炎の球の呪文を……! よ、よけられない…っ)

 咄嗟のことに硬直したスピリアを、飛竜の頭がぐいっと押して退かせる。

  ムダ、ダ……!

 ばぐんっ、と音がした。
 向かってきた炎の球を飛竜が飲み込んで無効化してしまったのだと、スピリアは一瞬遅れて気がついた。
 
「ひ、ヒィ……っ」

 男が慌てて赤子を連れて逃げ出そうとする。
 だが、遅い。

 男は一つ決定的な過ちを犯した。本気で殺意を持った竜の力を、見くびりすぎていたことである。

  ―――オオオオオオオオオオオオオオ……ッッ!!!!!

 男が一歩を踏み出すよりも早く、巨体を穴の中へ躍らせた飛竜の爪が男の体を一瞬で八つ裂きにしていた。


 飛竜が爪の先で器用に縄だけを切り裂くと、縛られていた竜の子はキィキィと鳴いて母親にすがりついた。
 その様子を穴の上から見下ろすスピリアは、ほっとしていた。
 これで、この事件は終わりのはずだった。幸いに犯人の男以外に死人は見当たらない。街が壊れただけならこの飛竜の親子もこのまま見逃してもらえるかもしれない。

「よかった。これで―――」
「どけっ!!!」

 ドンッ、と乱暴に横に突き飛ばされたのはそのときだった。

「な……っ」

 スピリアを突き飛ばしたのは、先ほどから飛竜と戦っていた冒険者たちである。
 思わず尻餅をつき、顔を上げたスピリアは彼らがぎらついた視線を穴の底に向けていることに気がついた。

「横取りしようったって、そうはいかねぇ! この竜は俺の獲物だ!」
「お前に取らせるかよ。こんなチャンスは滅多にねぇんだ」
「穴の底にいるなら、あの吹き飛ばしも怖くねぇなぁ」

 酷く濁った嫌な目が、傷だらけの母竜を見つめている。
 冒険者であるスピリアにも聞いたことがある。冒険者達の間では、竜を殺すほどの腕を持つ者はドラゴンスレイヤーとして名声を獲得する。勿論、竜に友好的なこの国では竜を殺すのは通常なら重罪である。

 だが。

 “対象の飛竜が極めて凶暴である場合――”

「そ、そんな………!」

 “――――殺傷もやむなし”

「だ、駄目! 逃げてええええええっ!!」

 スピリアが叫び、手を伸ばした先で。
 剣が、槍が、矢が、魔法が無情にも降り注いだ。
 飛竜の翼が、腕が、背中が、穴の上から襲い掛かる凶刃に蹂躙され、破壊されていく。
 にも関わらず、母竜はそこから動かなかった。
 身体を丸めて、攻撃を受けるままにしている。

 理由は、スピリアにははっきりとわかった。

(自分の子を…守るために……っ!)

 きぃきぃ、と声が聞こえる。その声の主を、母竜はしっかり抱きこんで離さない。
 スピリアの目に涙が滲んだ。そして、怯んでいた手足に力が漲るのを感じた。

「……スピリアの名において! “振動”の、魔杖! 目覚めよ!!」

 立ち上がり、全ての魔力をこめて術式を唱える。
 こめた魔力の量だけ、すさまじい反動がスピリアの精神を襲う。
 頭をハンマーで何度も殴られているような衝撃。

(くっ……こんなの、彼女の痛みに比べれば……っ!)

 歯を食いしばって耐え抜き、術式を完成させた。

「『不可視の縛鎖』!!」

 我先に攻撃を続ける冒険者達の手がぴたりと止まった。それどころか、全身が見えない鎖で縛られたかのように彼らの身体は少しも動けなくなっていた。

「…なっ……金縛り、の…高等魔術…っ? 一度に、こんな大勢に…っ!?」
「はぁ、はぁ……しばらく、動くことは…できませんよ」

 杖の反動で昏倒しそうになりつつも、スピリアはゆらりと立っている。

「てめぇ…手柄を、横取りする気か……汚ぇぞっ!」

 唾を撒き散らして叫ぶ男の頬を、スピリアの手のひらが高い音を立てて鳴らした。

「なっ……」
「汚いのは―――」

 スピリアは元来、人に流されやすい性質である。だから、他者に対して怒ったことも、冒険の場以外で手をあげたこともロクにない。

「汚いのは、あなたがたではないですかっ!!!」

 だが、今は怒っていた。心の底から怒っていた。

「この飛竜があなたがたを殺す気ならば、とっくにあなたたちは死んでいた! わかっていたはずでしょう!“彼女”が、ちっとも抵抗しなかったことを!!」
「そ、そりゃあ……」

 どれほど痛めつめられても、反撃しなかった母竜。
 母竜にはわかっていたのだろう。
 反撃してもしも殺してしまったなら、例え子供を見つけても、その子共々命を狙われかねないことを。

「どうして、わかってあげられないんですか…。彼女は、守ろうとしただけなのに……っ」

 微かに涙を湛えた眼差しが、冒険者たちを射抜くように見据える。

「竜にも、子を想う心があるんです……。どうして、わかってあげられないんですか!!」

 冒険者としては、甘すぎる言葉。だがその言葉に宿る真摯な心は、その場にいた冒険者たちの精神を確かに打ちのめした。

 そこでスピリアはハッと我に帰り、穴の底を見やる。
 急いで飛び降りて、母竜の様子を伺った。

「……っ。……ああ……っ……」

 母竜は既に虫の息だった。最後の冒険者たちの攻撃は、確実に致命傷をこの緑の竜に与えていた。
 スピリアは服が血で汚れるのにも構わずに駆け寄った。
 その大きな背中に寄り添い、額をこつんとつけて呼びかける。

《ごめんなさい……間に合わなかった……》

 この傷では、回復魔法をかけたとしても意味がない。母竜の命は、もうほぼ消えている。

  ……ナゼ、ダ……

 息も絶え絶えの状態で、母竜がスピリアに呼びかけてくる。

  ……えるふノ…ムスメ……ナゼ……ワタシヲ…タスケタ……

《貴女が、ただひたすらに子どものことを想っていたのがわかったから。だって私も―――》

  ………………?

《私も……母親に、なるんです。これから》

 愛しい人の間に芽生えた、新しい命。それが自分の中にあると知ったとき、スピリアは生まれて初めての大きな感動を知った。子を授かったことで、自分の生に大きな意味と、限りのない幸福を得たと感じたのだ。
 そして、立派な母になりたいと願った。

《だから、あなたの想い……叶えてあげたかった》

  ……ソウカ……

 竜の表情が微かに微笑んだ気がした。

  えるふノムスメ……オマエニ、ナラ……タクセル…

《え………?》

 飛竜はゆっくりと身体を動かし、腹に抱き込んでいた飛竜の子を抱えあげた。
 この子は状況を把握していなかったのだろう。母竜の温もりの中で、いつの間にかすやすやと寝息を立てている。
 その子竜を、母竜はそっとスピリアに差し出した。

  ……コノコ…ヲ…タノム……

《………っ!?》

  リュウキシノ…リュウニ……ソウスレバ……ウエテ、シヌコトモ…ナイ……

《あなた………》

 竜騎士の竜となれば、縛られる代わりに必ず立派な竜に育ててもらえる。
 この母竜は、もう自分がここで終わりだと悟っている。だから自分の子にできる最後のことをしようとしているのだ。
 死に瀕してなお自分の子のことを案じ続ける、それは紛れもなく母親の姿だった。

《……わかりました。必ず、信用できる竜騎士に預けます》

  ……タノンダ、ゾ……

 差し出したスピリアの手に、竜の子がゆっくりと置かれた。母竜の手がそっと離れていく。我が子を起こさないように。

 そのとき。
 竜の子が一言だけ、きぃ、と鳴いた。

 離れかけていた母竜の手がぴくんと止まる。

  …………………

 ――寝言、だったのだろう。竜の子は再び、安らかな寝息を立てている。
 その寝顔を、母竜の震える指がそっと優しく撫でる。

  …………………

 夜が訪れようとしていた。静かな薄闇の中、母竜の疲れ果てた眼差しは、それでも優しい光を湛えてじっと我が子を見つめている。
 もう、永遠に会えなくなる我が子を。

  …………………

 そして、今度こそ手が離れた。

 いつしかスピリアの頬を涙が伝っていた。それでも顔は伏せず、滲んだ視界で母と子の別れを最後まで見守る。

  ……えるふノムスメヨ……

 母竜はゆっくりと息を吐く。穴から差し込み始めた月の光が、その身体を優しく包んでいく。

  ……ヨイ……ハハオヤ…ニ…ナレ……

 それっきり緑の飛竜は動かなくなった。

 静かになった穴の底。竜の子の寝息だけが響く。ぽつり、ぽつりとその寝顔に涙の雫が垂れ、竜の子はどこかくすぐったそうにしていた。


 マドレの悲劇として後に吟遊詩人に語られることになるこの事件は、グラッセン帝国の工作員が難攻不落の要塞都市であるマドレの機能を破壊しようとして引き起こしたのだと推測された。この事件でマドレの要塞としての機能はその大部分を破壊されたものの、人命の被害は奇跡的に皆無であったという。
 最後まで我が子を守ろうとして命を散らした飛竜の姿は人々の憐憫の的となり、様々な絵画や彫像の題材となった。

 それから十数年の時が流れた。
 致命的な損害を被ったマドレだったが、何とかその機能を要塞として使えるレベルまで回復し、現在、その都市には以前の失敗から学び、一人の竜騎士が常駐している。その竜騎士が駆る緑色の飛竜こそ、かつてのその要塞都市を襲った飛竜の子供であることを、知る者は少ない。

 そして。

「……よいのですか、スピリアさん。せめて旦那さんや息子さんが帰ってきてからでも……」
「あの迷宮の最奥には男性の方は入れないそうです。それにもう、決めたことですから」

 朝の教会。まだ薄暗い聖堂の中、心配そうな顔をする神父に、スピリアはにこやかに笑顔をみせる。

「大丈夫ですよ。私には魔杖もありますし……無事に帰らなきゃいけない理由もあります」

 笑顔で見下ろすその腕の中には、まだ生まれて間もない赤子が眠っている。

 あれから時は流れ、エルフであるスピリアは見た目こそ変わらないが、二児の母となった。
 まだまだ頼りない母親だけれど、自分なりに頑張れている、と思う。

 ワイズマン討伐に参加することにしたのは、それが子供たちのために必要なことだと思ったからだ。
 龍神の迷宮が悪の温床となってしまった今、放置しておけば確実にこの国の治安は悪くなる。それはこれからこの国で育っていく子供たちをきっと不幸にすることだった。

 だから戦いに行くと決めた。
 かつて我が子のために誇り高く戦い散っていった母竜のように、誇り高い母親でありたいから。

「それでは、この子をお願いします」

 そっと胸に抱いていた赤子を神父に差し出す。治安の悪い場所へ向かうからには、我が子を連れていくわけにはいかなかった。

「わかりました。必ず戻ってきてください。それまで、責任をもって預かりましょう」
「はい。必ず」

 赤子をそっと受け取る神父。
 朝の柔らかな光がステンドグラスを通して、二人と赤子に淡く降り注いだ。
 そのステンドグラスには、一匹の緑の飛竜が描かれている。

 スピリアは最後に、我が子の頬をそっと撫でた。あのとき母竜がそうしたように。
 微かに赤子が身じろぎする。安らかな寝顔。
 そのこの世で最も大事な光景を胸に焼きつけると、スピリアは笑顔のまま言った。

「それでは、いってまいります」


 こうして、一人の母が旅立っていった。
 強い想いを胸に秘め、向かう先は龍神の迷宮。

 彼女と彼女の子供たちがこれからどうなるのか、知る者はまだ誰もいない。