『黒い請負人と魔女狩りの森』 byウェイン姐さん


「お前は今日からオレのモノだ」

 リジェシ・モルビスフィーンの師についての記憶はそこから始まった。
 物心がつくかつかないかだった頃に魔女に才能を見出だされ、両親から魔女に引き渡された。
 強制ではなかったし、師曰く、かなりの大金も支払われたらしい。
 跡継ぎはもう一人の子供がいるので問題ないのだそうだ。
 要は親に売り飛ばされたという事だ。
 …だが、その事を恨むつもりは毛頭ない。
 一般に金持ち、と呼ばれる家庭だったが、事業に失敗して金銭的にも厳しい状態だった。
 それに魔女の不興を買うのが恐ろしいというのもあっただろう。
 別に非道な実験をしていた訳でもなかったが、一般人に理解しろ、というのは酷だろう。
 隠遁している魔道士が何をしているかなど商人たる父母が分かるはずがない。
 それはともかく、そのまま商家の娘として育つより、この魔女の下で魔術を学ぶ方が自分にははるかに有意義だ。
 師曰く、自分は類稀な才能の持ち主らしい。
 比較対象が師しかいない現状では、どの程度のものかわからないが。
 なんでも現在、九歳の時点で攻性魔術については到達者級の実力という事らしい。
 よく分からない、分からないが、自分が新たな術を覚えた時の師の喜ぶ顔は好きだった。
 だから自分はこの生活が、ただひたすらに魔術を学ぶだけのこの生活が楽しかった。

「来たか…」
 ある日、リズは師に呼び出され、書斎を訪れた。
 自室の中でもいつも通りの黒のスーツ姿、シャツからタイ、手袋にいたるまで全て黒で統一してある。
 左手の甲には特徴的な黒い蛇のような痣があり、師の雪の様な白い肌によく映える。
 大きく胸を張り、自信に満ち溢れた表情。
 腰まで届く黒い髪、切れ長の鋭い眼差し、こちらの心の奥底まで見通す様なアイスブルーの瞳、凛とした雰囲気。
 弟子の贔屓目抜きで見ても規格外の美人だと思う。
 …だが、これも常に思うのだが、何かを企むかの様にいつもニヤニヤと唇を歪めて、くっくっと笑うのはどうかと思うのだが。
「リズ…オマエここを出ろ」
 本に目を落としたまま、こちらを見もせずに言う師。
「出る?それは買い出し…という事ですの?」
「ん?いやいや…荷物まとめてこの屋敷を出ていけ、そう言ってんだ」
 異論を挟む余地もない一方的な宣言。
 師の中ではすでに決定事項なのだろう。
 だが、自分にとっては寝耳に水だ。
「な、何でですの!?わたくし何やらか重大なミスでもしましたの?」
 慌ててまくし立てる。
 そこで師は顔を上げ、こちらを見る。
「そうじゃねぇ、もうすぐオレが死ぬからな」
 先程までと何ら変わらぬ表情。
 自分の死を告げている事に何の感慨も持っていない。
「死?…病気ですの?」
 とりあえず恐慌から立ち直り、かわりに怪訝な顔のリズ。
 たとえ末期の病とて師ならば治癒出来るのではなかろうか。
 攻性魔術以外は一切使えない自分とは違い、師は治癒系の魔術についても一流の使い手のはずだ。
「戦死……いや、惨死かぁ?」
 くっくっと唇を歪め、楽しげに嗤う。
 自らの死に様について語っているにも関わらず心底面白がっている。
「惨死……誰かに殺されるという事ですの?」
 それも超一流の術者である師をして観念せざるを得ない強者が。
「おう、悪名高い『神殺し』と異端狩りの神官戦士団…総勢80名の大所帯だぜ」
 その言葉にリズは絶句する。
 神官戦士といえば高位の僧侶に匹敵する神術と重騎士数人分の打撃力を兼ね備えた上級職…神殿勢力のエリート集団。
 その役は、神殿所属の騎士や魔術師を率いての異端狩りである。
 神官戦士団というのであれば、構成は精鋭たる神官戦士のみ、その数80人…しかもそれを率いるのは『神殺し』と呼ばれ、恐れられる神官戦士。
 異端であれば老若男女容赦はせず、異教の集落一つを丸ごと焼き払った事も一度や二度ではきかない。
 更には、「神」と崇められるモノ――神を自称する詐欺師から霊格を備えた神霊まで――すらも鏖殺するという真正の殺戮者だ。
 だが、そこまでの人数を動員する大規模な異端狩りなど滅多にあるものではない。
 余程の広域手配の犯罪者の断罪か、あるいは多数の信者を抱える異教徒の討滅か、精々そのくらいのはずだ。
 神殿勢力に敵対しているわけでも犯罪者でも何でもない師が標的になるはずがない。
 しかし、それを告げると師は浅く笑う。
「ま、大方点数稼ぎだろうな…適当な罪状でっち上げて断罪、あんなスゴいの倒しましたよ、すげぇイカす神サマバンザイ!……てな」
 点数稼ぎ…師はそんな理由で死を迎えると言うのか。
「そんな…そんな無法通りませんの」
「リズ、覚えときな…世の中にゃな『無理を通せば道理は引っ込む』っつー諺があってな、我を通すためなら理なんざ笑いながら蹴飛ばす輩だっているんだぜ」
 蹴飛ばされる方は災難だけどな、と嗤う。
 だが、それは…それでは…あまりにも……。
「非道…ですの」
「『道に非ず』か?連中にしてみりゃ褒め言葉か負け犬の遠吠えだろうな」
 くっくっと笑いながら諭すように言う。
 我知らず拳を握り、震わせるリズ。
 それを見て師は浅く嘆息。
「つーわけだ、連中も弟子まで滅殺てな面倒な指令は受けてねーだろうし…お前だけでもさっさと逃げな」
 言うべき事は言い終わったと言わんがごとく、再び本の上に目を落とした。
「師は…お逃げになりませんの?」
 そうだ、どうせ勝てないなら自分と共にここから去ればいいではないか。
「無理だな、これだけデカい規模だ…連中にもメンツってモンがあるだろ、しつこく追い回されながら逃亡生活なんざ面倒だしゴメンだ」
 返す言葉もない。
 確かに…追っ手に怯え、みすぼらしく逃げ回る師など似合わないし想像できない。
 …だが、それでも師には生きて欲しい。
 だが、悔しいが自分には師を説得出来るだけの言葉がない。
「……泣くなよ」
 いつの間にか師が近寄り、頭を撫でていた。
 そこでリズは自分が泣いている事に気付いた。
「んなモン、お前のキャラじゃねーだろが」
 理解している、ここまで感情的になるなど自分には似合わない。
 だが、涙は止まらない…否、それどころか立っている事すらままならず。
 ぺたりとその場に座り込み、そのまま泣きじゃくる。
 そんな自分を、師は困った顔で見下ろしている。
 ダメだ、これではタダの駄々っ子ではないか…。
 こんな事で…こんな土壇場で師を困らせてどうする。
 師はそのまま優しく自分を抱き締めた。
「――――」
 そして、何かを小さく唱える。
「……っ!」
 気付いた時には既に遅く、足下が軽く光ったかと思うと。
 瞬時にリズの姿はかき消えた。
「まったく…最後まで世話ぁ焼かせやがって」
 満更でもなさそうな顔で魔女は呟く。
 咄嗟の無音術式では森の外までは無理だったが、充分な距離は稼いだはずだ。
 後は自力でなんとかするだろう。
「さて、客を出迎えるとするか」
 誰にともなく言い捨てる。
 常と変わらぬ飄々としたその様子は、とても死地に赴く者には見えなかった。

 ほぼ同時刻。
 神官戦士団は一糸乱れぬ動きで、森への侵攻を始めていた。
 その中にあって一際目を引く者がいた。
 二人、そのどちらも女性である。
「今更に何を言っているのだ?」
 不思議そうに問うのは、白き鎧に身を包んだ小柄な女騎士。
 軽くウェーブのかかった金髪で、右耳の上の毛を一房だけ編んだミディアムヘアー。
 重武装な他の神官戦士に比べてかなりの軽装。
「神殺し」 クロジンデ・オ・ゲイムニス その人だ。
 この80人の神官戦士団を率いる、当代最高クラスの殺戮者<キリングホルダー>である。
「いいから答えろ!貴公は知っていたのか!?」
 激昂してクロジンデに食ってかかるのは鈍色の武骨な鎧に身を包んだ女騎士。
 頭部までも重厚な兜で覆っており、表情はわからないが、T字形に開いた隙間から覗く眼光は激しい怒りに燃えている。
「鋼の聖女」の名で知られる神官戦士、メリッサである。
 部下からの信頼もあつく、誰にも負けない信仰心を持つ彼女だが。
 それ故に上司と衝突する事も多く、未だに指揮官資格を持たず、立場は一般の神官戦士と変わらない。
 そして、今回はクロジンデの配下として悪辣な魔女の討伐に赴いたのだが…。
「今回の討伐…ドゥーチェッタ卿の独断で、無実の魔術師を誅戮しようとしている事…知った上で参加しているのか!!?」
 そう、付近に恐怖と害悪を撒き散らす外法の魔女がいる、故にソレを討伐するために遠征部隊を編成した。
 そう聞いたので参加したのだ。
 しかし、実際は神殿勢力の主流派たるモルディーン派のドゥーチェッタ卿が、実績欲しさに在野の力ある魔術師に罪状をでっち上げて神威を示すつもりだという。
 この森に住む魔術師は弟子と二人で隠遁しているだけの害なき者というではないか。
「ふむ、貴様はどこでそんな話を聞いた?」
 メリッサの醸し出す剣呑な空気に対して、臆するでも反発するでもなく問いを返すクロジンデ。
「古くからの知人だ」
「名は?」
「……言う必要があるのか?」
 迂遠な物言いに少々ならず苛立ちをみせるメリッサ。
 そんなメリッサを見る事なく、背後を向くクロジンデ。
「レム…情報の規制が甘い」
 そこには、いつの間にかクロジンデの秘書役をつとめる補佐官が控えていた。
 眼鏡をかけた長身の騎士、名をレメディウスという。
 いかにも切れ者な空気をまとわせている。
「…失礼しました」
 一礼。
「ならば予定変更だ六番から八番を破棄、十一番を開始だ」
「了解です」
「私の問いに答えろ!クロジンデ・オ・ゲイムニス!!」
 掴み掛からん勢いのメリッサ。
 この場においてクロジンデは上官だが、そんな事は微塵も関係ない。
 不義を正すのに身分も立場もありはしない。
 だが、そんなメリッサをクロジンデは鼻で笑う。
「ならば聞くが、今回の討伐…聖務局に違法な手続きはあったか?」
「……何?」
「貴様が聖務局より命を受諾する際に何か法に背く様な行為はあったかと聞いている」
 あくまで冷徹な態度を崩さない。
「ない…だが、そこに正義は存在しない!」
「それがどうした、法に背かぬのであれば正か邪かなど関係ない」
 断言するクロジンデ。
 その瞳はどこまでも本気であり、有無を言わさぬ迫力があった。
 その本気には、さしものメリッサもたじろぐ。
「では逆に聞こう、貴様は『正義』を貫くためならば法など守るに値しないとでも言うのか?」
「そうは言わない!だが、これは明らかに」
「明らかに個人の名誉のための愚行だな」
 あっさりと肯定する。
「だが、法的には何の問題もない」
「無実の魔術師を死に追いやろうとしていようともか!」
「無論だ、確かに聖務局の調査不足は責められるべきだな…だがそれだけだ」
 絶対の法の守護者。
 そんな単語がメリッサの脳裏に浮かぶ。
 どうあっても崩す事叶わぬ巨大な信念の壁。
「そもそも、そこまで不義を正すのが望みならば本人に直訴すればよかろうに」
 挑発するように問う。
 所詮口だけか?とでも言うかの様な目付き。
「…私は不義は容赦なく斬り捨てるぞ、法も立場も関係ない」
「そうか、やればいい…私は止めんぞ?」
 しかし、その声は届かない。
 メリッサは、もはやクロジンデには目もくれずに歩き去っていた。
 後に残るはクロジンデとレムのみだ。
「…よいのですか?」
 あの剣幕では冗談抜きにドゥーチェッタ卿を斬り捨てるだろう。
「構わん、それに…どうせ間に合わん」

 同時刻。
 豪奢な仮設本陣。
 そこにドゥーチェッタ卿はいた。
 線が細く、華美な白銀の装飾を施した儀礼用の鎧がよく似合う青年だ。
 騎士というより王族の雰囲気を持っていた。
 緩くウェーブのかかった銀髪と白皙の美貌は舞踏会でも注目の的だろう。
 だが、その実彼はモルディーン派でも名の知れた策謀家でもあった。
 今もこの森の魔女に神威を示すだめに布陣を思案中だ。
「うむ、いかな『漆黒の蛇』とはいえ…この陣は抜ける事は出来ぬはず…」
 既にクロジンデに命じて、部下の半数を館の包囲に回し、残りを森全体の監視にあてている。
 各々が探知魔術を扱い、前衛としても後衛としても動く事が可能な神官戦士のみの編成だからこそ出来る布陣。
 そして、対魔女用の決戦戦力としての『神殺し』と『鋼の聖女』。
 これだけ駒があれば逃す獲物などありはしない、それがあの『漆黒の蛇』であってもだ。
 我知らず笑みが零れる。
「あの…」
 この場に似合わないおとなしそうな声。
 振り向くと遠慮気味に入口に侍女が立っていた。
 手には飲み物を載せた盆を持っている。
 そこで思い出した、確か喉が渇いたので飲む物を頼んだのだ。
「ああ、すみません…そこに置いてもらえば構わないですよ」
 やわらかい笑顔で労う。
 配下に対しても敬語で話すのは昔からの癖だ。
 押さえ付けるだけでは反発もあるだろうし、この方が印象もやわらかい。
「えぇと…」
 紅茶を置いて、侍女は何かを言いたそうにその場に立ち尽くしている。
「…ナリシア、何か聞きたい事があるのですか?」
 話しやすいように、こちらからふってみる。
 侍女…ナリシアは恥ずかしそうに顔を赤らめて、おずおずと口を開く。
「あ、その…今回の異端の人って…どんな方かと思ったんです」
 ああ、そうか、末端には詳しい情報はいっていないのか。
 無論、末端以外に回るのも操作された情報ではあるのだが。
「今回は『漆黒の蛇』と呼ばれる魔女が相手です」
 少し考え、首を傾げるナリシア。
 若干申し訳なさそうな表情。
「……すみません、有名な方なのでしょうか?」
「そうですね、あまり一般には知られていませんが、とてつもなく強力な魔女です…到達者クラスの攻性魔術と練成術、更に呪術…そして大賢者クラスの神術の使い手です」
「そんな…」
「しかも策略にも長け残忍にして狡猾、かなり重度の性格破綻者という事です」
 あまりの内容にナリシアはふらつく。
 慌てて駆け寄り、その身を支えるドゥーチェッタ。
「ですが、心配は無用です…我等には魔女の暴にも劣らぬ強き信仰心があります。
 神に祝福されし我等が敗れる事など絶対にありはしません」
 力強く断言する。
 そう、あまりの危険度故に神殿勢力と敵対などしていないにもかかわらず特級の神敵認定をされた曰く付きの魔女だ。
 ………そう、『そういう事』になっている。
 確かに、実力に関してはその通りだ。
 だが、実際にはその危険度は限り無く低く、隠遁して俗世間から離れた状態なのだ。
 報告によると、現在は弟子と二人きりで静かに過ごしているという。
 しかし、そんな事は関係ない、要は強大な力を持つ魔術師が神殿勢力に属さずにいるという事実。
 そんな魔女を討滅したという事実。
 そしてそれを指揮したのが自分だという事実。
 その自分がモルディーン師の派閥に属しているという事実。
 それこそが重要なのだ。
 大恩あるモルディーン師に報いるために。
 そのためならば神意に従わぬ魔女など知った事ではない。
 そんな内心も知らずにナリシアは瞳を輝かせる。
「ドゥーチェッタ卿…立派ですね…」
 きゅ、とドゥーチェッタの服を掴む。
 微かに震えていた。
「ナリシア…?」
 俯いて表情が見えない。
「…僕には関係ないけどね」
 と、その声が眼前のナリシアから聞こえた。
 先程までのおとなしそうな声ではない。
 少年のようでも少女のようでもあり、どこか蠱惑的な声。
 ナリシアが顔を上げ、嗤っていた。
 ナリシアの顔で、別人の貌で。
 ナリシアではない?お前は誰なんだ。
「――……、――――…」
 推呵の問いは形にならず、ただ吐息が漏れるのみ。
 いつの間にか喉が真一文字に切り裂かれていた。
 (この………侵入者…否、暗殺者か…)。
 (だが……この…暗殺者…なん…と………美しい…目……を………)。
 そのまま仰向けに倒れるドゥーチェッタ。
 ナリシア、否、その暗殺者は足下に横たわるドゥーチェッタの死体を無感情に見下ろすのみだった。

「ドゥーチェッタ卿!おられるか!」
 力強く叫びながら仮説本陣に踏み込む。
 だが、そこでメリッサが見たのは、血溜まりの中で倒れ伏すドゥーチェッタ卿と、返り血で真っ赤に染まったまま呆然と佇む侍女の姿だった。
「な…これは……!」
 予想外の凄絶な光景に息を飲むメリッサ。
「……メリッサ…様…」
 弱々しく侍女が声を紡ぐ。
「ああ!メリッサ様!」
 ようやく現れた神官戦士に安心したのかメリッサに抱き付く侍女。
「落ち着け!……大事ないか?セイリーン」
 そう聞くと、侍女は困惑した顔をする。
「あの…私の名前はナリシアですけど…」
「む、それはすまなかったな」
 兜で隠れているせいで表情は見えないが、あまり気にしているようには聞こえない。
「それでナリシア…賊の姿は確認出来たか?」
 震えるナリシアには構わず問うてみる。
「あ…よくはわからなかったんですけど…神官戦士の格好をしてました」
「偽装…か?……顔…はわからんか、なら鎧の紋の種類はわかるか?」
 神官戦士は己が属する派により鎧に紋章が刻まれている。
 その種類は多岐にわたるが、それ故にそこから犯人を割り出せるかもしれない。
 ナリシアは、少し考えて遠慮気味に答える。
「え…と、たぶんですけど…ヘロデル派の紋章だったと思います」
 答えるものの自信がないのか、少し小声だ。
「そうか、ヘロデル派か…」
 と言いつつメリッサはナリシアに剣を突き付ける。
 その目は本気であり、まぎれもない殺気があった。
「メ…メリッサ様?」
 唐突に剣を喉元に添えられ、ヒドく怯えている。
「動くな」
 ナリシアが口を開こうとする。
「演技はいらん、暗殺者…時間の無駄だ」
 その言葉に、ナリシアの雰囲気が一変する。
 緩かった目付きが鋭く、対称的に口元は緩む。
「…どうして、わかったのかな?」
 ナリシアの口からナリシアとは似ても似つかない声が紡がれる、男とも女ともしれない中性的な声。
 その声はこの場にそぐわぬ軽さだった。
 純粋に疑問を口に出しただけ、という感じである。
「…さっき名前間違えたのもワザとだよね?あの時点で疑ってたのかな?」
 微塵の恐怖も感じていない口調。
 ただの諦めか、それともここから脱出する算段があるのか。
「ナリシアは血を見ると卒倒する」
 短く告げるメリッサ。
「それにナリシアは帰依して日が浅い…傍流で知名度も低いヘロデル派の紋章など知るはずもない」
 突き付けた剣を微動すらさせず冷たく言い放つ。
「…なるほど、これは迂闊だったねぇ」
 くっくっと嗤う暗殺者。
 癇に触る笑い方だが無視。
「こちらの質問にも答えてもらおう…ナリシアは無事か?」
 暗殺者はおや?と怪訝な表情。
「…君は神官戦士だろう?普通ココは仲間より依頼主じゃないのかな?」
「貴様には関係ない、余計な事は喋るな…答えろ」
「…クク、まぁいいけどね…君達が森に入る前に立ち寄った村があったよね?あそこの宿屋で寝てるよあと一日二日くらいで目を覚ますんじゃないかな?」
 釈然としない表情のメリッサ。
「…なぜ殺さなかったのか…そんな顔だね?」
 確かにその通りだ、拘束するより殺害して入れ替わった方が手間もかからないはずだ。
 すると、暗殺者は意外そうな顔をする。
「…だってあんな可愛い娘を殺すわけないじゃないか」
 その場違いな答えに唖然とするメリッサ。
「…ま、細かい事はいいんじゃないかな?」
 メリッサにウインクする暗殺者。
「…もう一つの問いは…依頼主かい?」
 メリッサは無言で頷く。
「…守秘義務って知ってるかな?」
「答えないならば、ここで死ぬだけだが?」
 メリッサからの殺気が僅かに増す。
「…それは大変だね」
 声はメリッサの背後から聞こえた。
 突き付けた剣はそのままに、メリッサは振り返る。
 そこには女が立っていた。
 漂白したかのように白い肌と髪、羽織る黒いロングコートは肩の所で無造作に袖を切り詰め、獅子の如く逆立てた真紅の襟。
 小さな丸眼鏡の奥の瞳は人を小馬鹿にするかのようにニヤニヤと細められていた。
「…驚いてるトコ悪いけど…ま、物陰に隠れて気配遮断してただけなんだけどね」
 肩を竦めて苦笑するナリシア。
「二人…か!」
「…いや、一人だよ?」
 言うと同時にナリシアの姿がかき消える。
「……なっ!?」
 動揺しつつも残った暗殺者に剣を振るう。
 その一撃はまさに疾風、暗殺者はかわす暇も与えられずに斬り伏せられる。
「…フフ、キミは意外と短気なんだねぇ、メリッサ」
 そう言いながら、仮説本陣に入ってきたのは、たった今打ち倒したはずの暗殺者。
「……面妖な術を使う!」
 足下に倒れた暗殺者を見据えつつメリッサは吐き捨てる。
 斬った感覚は間違いなく本物、幻影などではない。
「…いやいや、僕は魔術師じゃないからねぇ…タネを明かすとこういう事」
 そう言って、手鏡を取り出す暗殺者。
 先程とは違い、今度は斬り込む隙が見当たらない。
 暗殺者は、手鏡をこちらに向けてくる。
 すると、鏡の中には暗殺者が映し出されたままだった。
 鏡の中の暗殺者がこちらに微笑みかける。
 そして、鏡の中で、手をこちらに伸ばしてくる。
 すると、その手は鏡の境界を抜け出てきた。
 そのまま腕、肩、そして上半身が現われ、ほどなく全身を「こちら側」へと現出させる。
「…これはね、『来たれ偽りの鏡像<アザーシルエット>』って言うんだよ」
 生み出された新たな暗殺者が笑いながら説明する。
「…一度映し出されたモノを『登録』し、好きな時に好きなだけ複製出来るのさ」
 そう言う間にももう三つ複製を生み出す。
「…ま、欠点はあるけどね…当人の了承がないと複製は創れないし、複製は長くても十分程度しか維持できないしね」
 でも、と続け。
 唐突にメリッサに向かいダッシュで斬り込む四体の複製。
「クッ…!?」
 咄嗟に剣を振るい、その全てを斬り捨てる。
 血煙に沈む複製。
「…どうだい?斬っても本物と区別がつかないだろう」
 自分と同じ姿をしたモノが斬殺されたにもかかわらず楽しそうに語る暗殺者。
 だが…。
「何のつもりだ」
 これでは時間稼ぎではないか。
 端的に発した言葉でメリッサの言いたい事を理解したのか、暗殺者は軽く頷く。
「…や、依頼主からのもう一つの依頼でね?ここに神官戦士が来たら時間稼ぎをよろしく…てね?」
「なん…だと…!?」
 メリッサの脳裏に白い鎧に身を包んだ女騎士が浮かぶ。
 だが、何のために…。
「…あ、目的は君が邪魔しないようにじゃないかな?」
 暗殺者が口を開く。
「何?」
「…だって君はこの討伐に反対なんだろう?部隊を展開するのに邪魔じゃないか」
 あっさりと答える暗殺者。
「ならばやはり依頼主はクロジンデか」
「…さぁ、どうだかねぇ」
 肯定するでも否定するでも無く嗤う暗殺者。
 しかし、そうと分かればここでもたもたしている時間はない。
 舌打ちしつつ剣を納めるメリッサ。
「……命拾いしたな、暗殺者」
「…シャーロウだよ」
 そのまま戻ろうとするメリッサに後ろから声を紡ぐ暗殺者。
「…シャーロウ・エクスタ…請負人さ」
「覚えておこう」
 答えながら駆け出すメリッサ。
 その瞬間森の奥から爆音が轟く。
「…始まったみたいだねぇ」
 誰にともなくひとりごちるシャーロウだった。

「貴様が『漆黒の蛇』か!」
 館の中から出てきた人物に問う神官戦士。
 黒いスーツに身を包み、右手のみに手袋を着けた麗人は優雅に微笑む。
「おいおい、人ン家に勝手に押しかけといて主人の顔も知らねェたぁ無粋な野郎共だな…」
 人間離れした美貌で傲慢に嘲笑する魔女。
「『礼儀知らずに容赦は要らぬ』って諺知ってるか?」
 そう言って懐から何か小さな牙状のモノを取り出し地面にばら蒔く。
 牙は魔女の足下の影に触れると形を変え、瞬く間に黒い狼と化し、神官戦士達に襲いかかる。
 不意の事に一人が腕を喰い裂かれるものの、即座に剣を構えて反撃を始める。
 そのまま、ものの十秒足らずで狼を殲滅する。
「これが答えか!魔女!」
 神官戦士の一人が叫ぶ。
 それを合図に横にいた数人が同時に爆裂術式を放つ。
 だが、術式は突然地面から現れた石の巨人に遮られる。
 巨人はそのまま、意外な程の身軽さで神官戦士に襲いかかる。
「笑止!多少強化したところでストーンゴーレムごときに我等の神威の邪魔が出来ると思ったか!!」
 一撃で破砕せんと大上段に剣を振りかぶる。
「は!思うわけねー 『怨は焔となり、汝自身を灼け』」
 魔女が呪を紡いだ瞬間、石の巨人は赤く染まり、その身を煮え立つ溶岩へと変じた。
 自分に向けられた敵意を炎熱変換する呪術だ。
 眼前で生じた異変に、なす術もなく二人の神官戦士が溶岩に飲み込まれる。
「かはは、流石は悪名高い異端狩りだ…よく燃えるぜ」
 嗤いながら次の術式の触媒…鈍色の球体を放り投げる。
 腕を振るうと球体は十数本の鋼の槍に生成され、即座に射出。
 音速の数倍に達する速度で撃ち出された鋼槍は神官戦士の強固な防護結界を鎧こと容易に貫通。
 更に後ろの二人の神官戦士を屠る。
「まだまだ終わりじゃないぜ?」
 魔女が指を鳴らすと、鋼槍が爆ぜ、周囲に散弾となって降り注ぐ。
 大半は鎧に弾かれたものの幾人かは目などに傷を負う。
「『其は水、全てを還す貴き神水』」
 小さなフラスコを放りながら、更なる術式を紡ぐ魔女。
 フラスコが爆ぜ、指先大の水弾が生み出され、物凄い勢いで射出される。
 水弾は、神官戦士の胸元を直撃。
 そのまま崩れ落ち、鎧諸共水へと変化する。
 魔女は止まる事なく焔渦を放ち、氷槍を紡ぎ、雷霆を迸らせた。
 そしてその都度神官戦士達は炎に焼かれ、氷槍に貫かれ、雷光に飲み込まれ、その数を減じていく。
 クロジンデとレムが戦場に着いた時には、既に包囲部隊40人の内28人もの死者を出していた。
 だが、それだけの死者がありながら、神官戦士達の士気は微塵も下がってはいなかった。
「フン、包囲の緩い部分を狙うかと網を張っていれば…まさか篭城とはな」
 ここまでの奮戦に僅かに賞賛の意を込めつつも嗤笑するクロジンデ。
「いや、あんだけ分かりやすい穴があっちゃ、罠ってバレバレだろ」
 フン、と鼻で笑い、ハルバードを構えるクロジンデ。
 もはや問答は無用という事らしい。
 魔女も、それに応えるかのように笑みを深くする。
「待て!待つんだ!!」
 そこに一つの影が飛び込んでくる。
 メリッサであった。
「遅かったな、鋼の聖女」
「いけねぇな…遅刻かァ?神官戦士さんよ」
 クロジンデと魔女が同時に口を開く。
 ぐ、と呻くメリッサ。
 まさか討伐対象たる魔女にまで言われるとは思わなかった。
「いや、そうじゃない!この討伐は中止だ!」
 その叫びに怪訝な顔のクロジンデ。
「なんだと?」
 だが、それに構わず魔女に向き直る。
「矛を納めてくれ、『漆黒の蛇』ウェイネイ・サンブレイク!」
「あ?」
 怪訝な顔の魔女。
 そこでメリッサはクロジンデに叫ぶ。
「クロジンデ!ドゥーチェッタ卿が死んだ!…否、暗殺された!」
 その言葉を聞き、目を細めるクロジンデ。
「……暗殺?」
「そうだ!これ以上この討伐を続ける意味など無くなったんだ!」
 と、叫ぶメリッサの足下に小振りなナイフが突き立てられる。
 見るまでもなく魔女の物だ。
「ハ!バカか?お前」
 魔女が嗤う。
「なんだそりゃ?そっちの都合で誅殺だ!いややっぱり中止だ!」
 一端言葉を切る。
 そしてメリッサを睨み付ける。
「ナメてんのか?オレはテメェらの点数稼ぎの道具か?」
「だから!もう我々に貴公を討ち滅ぼす理由はない!だから落ち着いてくれ!」
 だが、そんな言葉も魔女には届かない。
「テメェには『和平の使者は槍を持たない』って諺をくれてやるぜ」
 確かに、先に手を出したのはこちらなのだ。
 今更中止と言われても納得は出来まい。
「大体…そっちの大将は殺る気満々みたいだぜ?」
 魔女の視線の先には、未だにハルバードを構えたままのクロジンデ。
「クロジンデ!」
「一度動き出した流れはそう簡単には変わらん」
 表情も変えず、構えも解かずに言い放つ。
「そもそも…貴様はここで屍を並べる同胞28人、その犠牲をどうする気だ?ただの無駄死にとする気か?」
 苦渋の表情のメリッサ。
「だが…!これはこちらの手違いだ!非はこちらにある!」
「そうか、だが退くかどうかを決めるのは貴様ではない、それを決めるのは私だ」
 退く意思など微塵も感じさせない声。
 その言葉に、改めて不退転の決意を固める神官戦士達。
「おいおい、どぉしたヨ?止めんじゃなかったのか?バケツ騎士」
 バカにするように挑発してくる魔女。
「余裕だな、貴様の生き死にを語っているのだぞ?」
 挑発を返すように咎めるクロジンデ。
「クク、いんだよ、細けぇ事は」
 自分の生死など、まるで意に介さないように嘲笑う魔女。
 それに応えるように不敵な笑みを浮かべ、一歩前に出るクロジンデ。
 しかし、メリッサはそれを遮り自らが前に歩み出る。
「何のつもりだ?もはや議論の余地などないぞ」
「私がやる」
 短く答える。
 苦悩に満ちた、だが迷いなく、強い意思を秘めた声。
「手柄は全部貴公にくれてやる…だが、これ以上同胞を死なせはしない」
 それを聞き、呵々と笑う魔女。
「で、仕方ないからオレを殺す…か?」
「投降する気は無いのだろう?」
 返事はせずに、大袈裟に肩を竦める魔女。
 それを見て、メリッサは剣を抜く。
「ならば迷いはない、私は貴公を討つ…呪わば呪え、恨むのであれば恨め、所詮私はこういう生き方しか出来ん」
 毅然とした言葉に、笑みで応える魔女。
「いい言葉…覚悟だ」
 それまでのような皮肉ではなく、純然たる賞賛。
「メリッサ・フィーネ・レンベルク…参る!」
 メリッサは弾かれたかの様な勢いで突進、その動きはまさに一陣の疾風。
 魔女は動じる事なく数本のダガーを投擲。
 ダガーはメリッサの前方に突き立ち、無数の石の柱に変じる。
 が、メリッサは勢いを減じる事なく猛進、剣の一振りで石柱を両断する。
「『怨は焔となり、汝自身を灼け』!」
 迎撃呪式を紡ぐ魔女。
 至近で発生する多量のマグマは、いかな鋼の聖女とはいえ防げるモノではない。
 だが、石柱はその姿を変化させる事なく崩れ落ちる。
「っ!」
 僅かに顔を強張らせる魔女。
 そう、「敵意」や「殺意」を炎熱変換する呪式。
 ソレ故に敵意も殺意もなく、清冽な意思で神敵を討たんとするメリッサには何の反応も示さなかったのだ。
 魔女はならばと赤い宝石を放る。
 宝石は即座に砕け散り、七条の巨大な炎の蛇となり、メリッサに襲いかかる。
「光よ!」
 対するメリッサは即座に神術を展開。
 炎の蛇は虚しく砕け散る。
 高位の防護神術「光背」である。
 舌打ちしつつ魔女は爆裂術式と鋼礫錬成を二重起動。
 多量の鉄片を含んだ爆炎がメリッサに殺到する。
 が、先程と同じく「光背」の前には無力だった。
 メリッサはそのまま爆炎をくぐり抜け、剣を振るう。
 しかし、その渾身の一撃は空を切った。
「くっ!目くらましか!」
 爆炎で視界を遮り、素早く飛び退いたのである。
 魔女は懐から赤い小枝を取り出す。
「破魔の赤枝!」
 小枝は赤光を帯び猛然と飛び、「光背」を破り、メリッサの右肩に突き立つ。
「…っつぅ!」
 肩から伝わる激痛に苦悶の声を漏らすメリッサ。
 刺された肩を中心に、尋常ではない激痛が全身に走る。
「あれは…神術破りの赤枝か!」
 クロジンデが誰にともなく呟く。
 ヤドリギの枝を聖人から流れ出た血に十月十日浸す事によって、あらゆる魔術構成を無効化し、相手に突き刺さる呪いの矢となるのだ。
 アレを出されては「光背」とて意味はない。
 しかし、メリッサは止まらない。
 鎧を貫通した赤枝を肩に突き立てたまま「魔力放出」を用いて更に加速。
 爆発的に速度を増した突進に、初めて魔女が焦りの表情をみせる。
「…っ!『刺し穿て』」
 身に付けていた青い首飾りを引きちぎり、宙に放つ。
 首飾りは瞬時に散じ、その姿を禍々しい七本の青い槍へと変じ、飛翔する。
 対するメリッサは速度を落とす事なく突き進む。
 と、魔槍と接触する直前に、よろめくように体勢を崩す。
 そのまま、倒れ込むように旋回しながら剣を薙ぎ払う。
 さながら颶風の如きその一撃に魔槍は全て粉微塵に粉砕されてしまう。
 そして、回転の勢いのままに地面を蹴り、再度突進、斬撃。
 魔女はかろうじで身を翻すが左腕が半ばから斬り飛ばされる。
「…っ!……『左の腕は死光の息吹に捧ぐ』!!」
 左腕そのものを媒介に魔術を発動。
 二人の間に純白の光の奔流が迸る。
 だが、それでもメリッサは止まらない。
 全身を包む鎧もほとんどが吹き飛び、兜すらも半ば用をなさない状態、口から流す多量の血は内臓にまで深刻なダメージが到っているという事か。
 しかし、満身創痍の身体であってなおも衰えない激しい眼光が魔女を射抜く。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
 一閃。
 その一撃は魔女の右肩から入り、左脇腹まで袈裟斬りにする。
 数瞬の沈黙の後、魔女は仰向けに倒れた。
 それに続くようにメリッサもその場に膝をつく。
 即座にレムが駆け寄り、その身を支える。
 それを合図に神官戦士達から喝采が上がる。
「見事」
 クロジンデすら短く賞賛。
 その言葉がどちらに向けられたものか…あるいは両方に贈られたのかはわからない。
 レムから神術による治療を受けながらも、メリッサは荒い息を吐きながら立ち上がり、ゆっくりと魔女に近付く。
 両断直前の体を見ても、出血量から見ても、もはや死の間際である。
 だが、その状態にあってなお、魔女の瞳は強い意思の光を宿していた。
「……かはは…お前、あんだけ魔術撃ち込んだら死んどけよ、常識的に考えて」
 メリッサは沈黙で応える。
「はっ!んな泣きそうな顔すんなよ…さっきの啖呵が…台無し……だろうが…」
 魔女の死に際の顔に浮かぶは笑み。
 出血によって顔面蒼白だが、不敵な笑みは変わらない。
「……遺言は…何かあるか?」
「……ウチの弟子に…会ったら…『死ぬな』……あー…いや、『生きろ』って…頼むわ」
 弟子…そういえば報告によれば、一人弟子がいるとあった。
「心得た」
 力強く頷く。
 それを確認し、魔女は安心したように溜め息を一つ吐き、メリッサの後ろに視線を移す。
「ありがとよ……んじゃ……もう…いいぜ…」
 その言葉と同時にクロジンデは、無言でハルバードを振るい、魔女の首を斬り飛ばす。
 そして、浄化神術「焔神」を発動。
 魔女の身体は一瞬で灰すら残さず燃え尽きてしまう。
 一瞬の出来事に唖然とするメリッサ。
 次の瞬間、反射的にクロジンデに掴み掛かる。
「何を憤ってる?高位の術者であれば、己の体内に蘇生術式を仕込む事など珍しい事ではあるまい」
 確かに、治癒系の魔術や神術を得意とする者であれば考えられる事。
 事実、神殿勢力でも枢機卿クラスならば常時治癒の術を多重展開させている者もいる。
 中には暗殺者の襲撃により、全身の七割を吹き飛ばされた状態から復活した事例すらもある。
 それを阻止しようとすれば、全身…特に頭部を完全に破壊するしかない。
 復活を防ぐためにもクロジンデの『処理』は正しい。
 理屈の上ではわかるが、感情が整理出来ない。
 そんな内心などお構いなしにクロジンデはメリッサの手を振り払う。
 そのまま、周囲に向き直る。
「魔女は討ち果たした!」
 改めて宣言。
 反応を確かめるように少し間を開ける。
 周囲からは歓声が上がる。
 それを確認し、満足したように頷く。
「だが、まだ我々の聖務は終わってはいない!」
「……何だと?」
 メリッサが怪訝な顔をする。
 まだ、何か残っているのか。
「この森には魔女の弟子が一人潜伏している!」
 高らかに言い放つ。
「ならば我々のすべき事は何だ!」
「「「「浄化を!!」」」」
 迷う事なく声を揃えて叫ぶ一同。
「その通りだ!ならば疾く征くがいい!神敵を狩りたてるのだ!」
 クロジンデは戦士達を導く戦女神のごとき威厳を以て檄を飛ばす。
 神官戦士達は各々の武器を天に掲げ、先を争うように駆け出していった。
 丁度、そこでレムの治癒神術も終了する。
 メリッサは何も言わずにクロジンデを睨み付ける。
「どうした?貴様も行け、弟子とやらの実力は未知数だ…我々でなければ手に負えん可能性もある」
 そんな視線にも堪えた様子も無く、淡々と命じる。
「一つ…聞かせてもらおう」
 静かに問い掛けるメリッサ。
「なぜドゥーチェッタ卿を殺した?」
 現状ではクロジンデがドゥーチェッタ卿を暗殺するメリットなどありはしないはずだ。
 ならば、当人に直接確かめるのみだ。
 だが、クロジンデは奇妙なモノを見るようにメリッサを見据える。
「先程も言っていたな、ドゥーチェッタ卿が暗殺されただと?事実か?」
「とぼける気か!」
 予想外の反応に若干の肩透かしと違和感を感じるメリッサ。
 まだ短い付き合いだが、クロジンデはこういう場面で。
 否、そもそもどういった局面に於いても嘘をつく女ではない。
「暗殺者を雇い、ナリシアに変装させて近付かせ、卿を殺ったのではないか!」
 自分自身を納得させるように叫ぶ。
「ナリシア………卿付きの侍女のナリシアか…そちらの無事は確認出来たのか?……否、それ以前に下手人はどうなった?手引きした者は判明したのか?」
 真剣な表情で矢継ぎ早に問い返すクロジンデ。
 どうやら本気で知らないらしい。
 メリッサは、仮設本陣に乗り込んでからの顛末をクロジンデに伝える。
「『黒い請負人』か……厄介な…」
 渋い顔で舌打ちをするクロジンデ。
「知っているのか?クロジンデ」
「名の知れた何でも屋だ…気紛れで興が乗った依頼にしか応じないが、応じた依頼は必ず成し遂げる」
 必ず…達成率百%という事か。
 俄かには信じがたい話だが、それは仕事を選り好みして楽な仕事ばかりを選んでいたのではないのか。
 そんな考えが顔に出たのか、クロジンデは鼻を鳴らす。
「フン…言っておくが、アレはむしろ難易度の高い仕事を好むぞ……ウフクス城の『断罪者』事件は聞いた事くらいはあるだろう」
 知っている、知らぬはずがない。
 それは神殿勢力の歴史に残る大事件だ。
「あの事件にシャーロウ・エクスタが関わっていたのか………いや待て、貴公は何故それを知っているのだ?」
 その問いに、いかにも不機嫌そうな顔をするクロジンデ。
「………深い理由なぞない……私はウフクス城…あの幻影城事件に探索班として参加していたからな」
 神殿勢力秘蔵の神具『断罪者』を持ち出し、神出鬼没の迷宮『幻影城』に逃亡した背信者ヨルガ。
 常に転移を繰り返すその居場所を発見した探索班はその功績を讃えられたのだったが。
「……そうか、シャーロウに幻影城の捜索を依頼したのか…」
「あの時は時間が無かったからな…背に腹は代えられん」
 多少不満げな声音。
 『断罪者』は、所持者に儀式魔術『黄泉路』の発動を可能とする神具だ。
 『黄泉路』は生物全てを数分足らずで死滅させる黒い霧を、最大で都市一つ分の範囲にわたり発生させる禁術の一種である。
 ヨルガが何の目的で『断罪者』を持ち出したのかは、最後まで不明だったが。
 『黄泉路』という禁断の手札を発動させないためにも迅速な討滅が必要だったのである。
「…しかしカン違いするなよ、ヤツの厄介なところは、その性格だ」
「性格…?」
 確かに…あの短時間の会話からも、彼女の破綻した性格はある程度読み取れたが…。
「あの女は面白ければ自分の依頼人も殺すからな」
「バ…馬鹿な!自らの依頼人をだと!正気か!?」
 何でも屋のような職種で依頼人殺しなどプロとは思えない。
 それが知れ渡れば、依頼など来なくなってしまうのではなかろうか。
「本気に決まっている、あの女はシャーロウ・エクスタだぞ」
 本気か、ではなく、正気か、と聞きたかったのだが…。
 どちらにしろ、あんまりと言えばあんまりな言葉に二の句が継げないメリッサ。

 クロジンデが言うに事情はこうだ。
 デュガソン地方において勢力を二分する裏組織、ラズエルとレコンハイム。
 その二組織間で麻薬関連でのトラブルが起き、手打ちの会合が開かれる事になった。
 そこでレコンハイム側の首魁 ソレルにラズエル側の元締のメレイオスを縄張り交渉の場での殺害を依頼される。
 いたぶり殺して欲しいという注文に従い、護衛を瞬殺し、メレイオスの四肢を切り裂いた。
 そこでメレイオスは泣きながら命乞いをするが、周りから嘲笑されるのみだった。
 ならば、と苦し紛れにシャーロウにソレルの殺害を依頼。
 一笑に付すソレルや取り巻き達を肯定するかのようにメレイオスの額に突き立てられるナイフ。
 しかし、次の瞬間には同じ様にソレルの額にもナイフが突き立っていた。
 シャーロウは二人からの依頼は果たした、と言い捨てて去っていったという。

「それは…無茶な話だな…」
「少なくとも筋は通っているがな、依頼されたから殺した…それだけだ」
 簡単に言ってのけるクロジンデ。
 確かに事実としてはそうだ。
「貴公はそれで納得出来るのか?」
「出来ぬ道理はない…だが問題はヤツがこの森にいるという事実だ、アレがどのような行動を取るかなど予測もつかん」
 しばしの沈黙。
「クロジンデ…やはり弟子も殺さねばならないか?」
 クロジンデは黙ってメリッサを見据える。
 対するメリッサも、目を背ける事なく見返す。
「例えば…」
 先に口を開いたのはクロジンデだ。
「例えば、ここで見逃した結果、逃げ延びた弟子が復讐のために力無き信徒達をその手にかけた時…貴様は責任をとる事が出来るのか?」
 正論、クロジンデらしいまさに一分の隙もない正論だ。
 師を殺された弟子が復讐を考えたとしても不思議ではない。
 だが、それを咎める事を誰が出来ようか。
 理不尽な暴力で平穏を乱されたのは向こうなのだ。
 相手にも相応の代価を求めるのは、あるいは当然かもしれない。
 そんなメリッサをしばらく見つめ、クロジンデはおもむろに切り出す。
「………メリッサ・フィーネ・レンベルク」
 いきなりフルネームで呼ばれ、面食らうメリッサ。
「?…どうした?クロジンデ」
 何かの決意を秘めた眼を見て、メリッサも気を引き締める。
「メリッサ…私と共に来る気はないか?」
「な…に……?」
 唐突な勧誘に怪訝な顔をするメリッサ。
「それはレメディウスのように貴公の配下になれ…という事か?」
「違う……否、確かにそうだと言えるかもしれん」
「貴公にしてははっきりとせんな」
「…もっともだ、ならば単刀直入に言おう…貴様は今の教会をどう思う?」
 更に話が飛ぶ。
 問いの意図を掴めずにいると、クロジンデはなおも続ける。
「ドゥーチェッタのような無法が罷り通り、民が無為に傷つき、お偉方は権力闘争に明け暮れ、その下にいる者どもは点数稼ぎしか頭に無い」
「………」
 突然の痛烈な批判。
 メリッサは黙って続きを待つ。
「それでいいのか?否、いいはずがない!ならばソレは正さねばならない、我々の手によって!」
 メリッサは、クロジンデの言わんとする事を悟り、息を飲む。
 力による是正、それはすなわち…。
「クロジンデ…貴公は軍事クーデターを起こそうと言うのか」
 呻くように呟くメリッサ。
「必要であれば、ためらうつもりは無い」
 迷う事無き即断。
「だが、力に訴える気はない…武勲を重ね、発言力を強め、私は上に行く」
「なぜ…それを私に…」
「人が一人で出来る事などたかが知れている、大事を成そうとするのであれば同志が必要となる」
 先程とは違い、淡々とした語り。
 だがメリッサは逆に、この淡々とした語りにこそ引き込まれそうになる。
「貴様の力と意思、そして信念…この私がその『業』を預かる…共に来い!」
 力強く手を差し出すクロジンデ。
 メリッサは、その手を凝視したまま動かない。
 その顔に浮かぶ表情は逡巡。
 するとクロジンデは、さして気を悪くした風もなく手を引っ込める。
「別に今ここで即答しろと言う訳ではない…」
 そのまま踵を返し、魔女の屋敷から森の方へ歩を進める。
 そして足を止め、振り返らぬままに声を掛ける。
「先に行くぞ」
 そう言い残し、森の奥に消えていった。
 一人残されたメリッサは、その場に立ち尽くしていた。
「…おや?…悩んでるみたいだね?」
 上から声をかけられ、ハッとしたメリッサが見上げると。
 そこにはシャーロウが枝の上に腰掛け、ニヤニヤとイヤらしく嗤っていた。
「…やぁ…何か、僕に手伝える事はあるかな?」

「しくじりましたわね…」
 リズは森を駆けながら憎々しげに呟いた。
 魔女ウェイネイの転移魔術で森の外縁部近くに転移したリズは、一度師の元に戻ろうとしたものの。
 結局、師の意思に従い、森を出ようとした。
 しかし、そこで森の監視にあたっていた神官戦士に発見されてしまい、またたく間に十人近くの追手に囲まれてしまう。
 集団である事への過信か、あるいはリズの外見からの油断からか。
 リズは咄嗟の不意打ちで隙を作り、包囲を脱する事ができた…出来たのだが…。
 (……完全に不意を衝いたつもりでしたのに…)。
 一人も脱落する事なく、こちらを追撃してくる神官戦士共を見据え、軽く舌打ちをする。
 全員があの一瞬で防御行動をとった、流石は百戦錬磨の異端狩り。
「なんて思ってあげるわけないですわ!」
 指先に雷をまとわせ、鋭く振るう。
 反応するヒマも与えず、雷の鞭は神官戦士の頭部に巻き付き、一瞬で炭化させる。
「ッ!!散れ!」
 リーダー格と思われる騎士風の男が、素早く命じ、散開する神官戦士達。
「させませんわ!」
 『魔力放出』を用いて加速、瞬時に騎士に肉薄する。
 まさか魔術師である自分が接近してくるとは思わなかったのだろう、驚きに眼を見開く騎士。
 が、動揺も刹那。
 即座に剣を構えようとする。
 しかし、それよりも速く、リズは騎士の眼前に手をかざし、術式を発動。
 至近距離での爆発に防御する事も出来ずに頭部を吹き飛ばされる騎士。
「魔女がっ!!」
 背後から斬り掛かってきた神官戦士の斬撃をすんでのところで躱し、腕を横に薙ぐ。
 振るう腕には黒い炎、その一撃は神官戦士の鎧を斬り裂き、両断する。
 後ろに飛び去りなからも更なる術式を発動。
 沸騰する膨大な金属流を射出、それに巻き込まれた二人の神官戦士が一瞬で絶命。
 着地と同時に大地に手をつく、チャンスと見たのか、目の前に神官戦士が斬りこんで来る。
「甘い…ですわ!」
 言葉と同時に、神官戦士の足下から巨大な顎を備えた黒い影が持ち上がり、神官戦士に喰らいつく。
「……ッ!!」
 悲鳴を上げる事すら許されず、食いちぎられる。
 (あと……四人!)。
 短く息を吐き、残りの神官戦士を見やる。
 この短時間で半数の仲間を失ったにもかかわらず、その顔には寸毫の動揺も見られなかった。
 (気に入りませんわ…)。
 恐怖に慄かないのは構わない、決死の覚悟というものもあるだろう。
 だがアレは違う。
 自分の死も仲間の死もまったく眼中にない。
 聖務とやらの為なら死をも厭わない。
 人形のごとき歪つで狂った在り様に不快感を隠せないリズ。
「いたぞ!魔女の弟子だ!」
 と、そこに増援がやってきた。
 元からいた分と合わせて二十人近くいる。
 それを見たリズは、深い絶望感を覚えた。
 これだけの人員を自分にまわす余裕がある。
 それは即ち師が討たれたという事に違いないと悟ったのだ。
 リズは黙し、俯く。
「……………いいですわ、ここにいる全てを地獄に突き落として…師への手向けとします!」
 言うが速いか、リズは大地を強く蹴りつける。
 それと同時に神官戦士達の足下から人の腕程の太さの黒い錐が無数に吹き上がる。
 固まって立っていた四人の神官戦士がそれに串刺しにされた。
 更に側にあった樹の幹を殴り付ける。
 すると、その樹と神官戦士達の後ろにあった二本の樹が淡く発光する。
 その三本が描く三角の陣の内側にいた二人の神官戦士が突然激しく痙攣しつつ倒れ伏す。
「生きたまま体液を煮沸されて悶死するといいですわ!」
 そのまま悶え苦しむ様を見下ろし、嫌悪感も露わに吐き捨てるリズ。
 両手を胸元で合わせ、軽く開く。
 両の手の間に眩く輝く白い火焔が茫と浮かび上がる。
 見ただけで分かる超絶の火力、儀式魔術の『ビルマーヤの火』だ。
 全ての魔力防御を無視し、対象範囲を灰燼に帰す、まさに必殺の禁術。
 おののく神官戦士達を見やり、嗤笑するリズ。
「そんなに怯えなくても……一瞬で影も残さず消滅させてあげますわ!!」
 火球を撃ち放つリズ。
 亜音速で襲いかかった火球は、しかし、途中で二つに断ち割られた。
「それ以上…殺らせません」
 いつの間にかリズの前には一人の神官戦士が立っていた。
 二本の長剣を構えたレメディウスだ。
 空しく僅かな火の粉を散らし、消える火球を見、愕然とするリズ。
 『ビルマーヤの火』は第七階位の禁術であり、剣などで切り払えるものでは断じてない。
 ましてや二分されたからといってあっさりと消え去るものでもない。
 だが、ここに師である魔女ウェイネイがいればソレに気付いたであろう。
 レメディウスが右手に持つ剣が、『内なる聖女』と呼ばれる神剣であり。
 あらゆる災いから主を守るとされ、その刀身に触れれば、如何なる魔術だろうとその効力を無効化してしまう。
 まさに魔術師にとって天敵とも言える剣であるという事を。
 だが、攻性魔術に関しては練達の技倆と知識を持つリズだが。
 反面、一切の補助、回復魔術を使えない事もあり、その類いの知識には疎いため、その正体には思い至る事はなかった。
「くっ…!これならどう!?」
 リズは手を強く手を振り下ろす。
 すると、レムの周囲の大地が沸き立ち、灼熱のマグマとなった。
 と、同時にマグマは激しく渦を巻き、レムを飲み込もうとする。
 しかし、それより速くレムは飛び去り、溶岩の海を脱した。
 だが、それを読んでいたかのように着地地点に鋼槍が降り注ぐ。
「くっ!」
 レムは左手の剣を大きく振るう。
 すると激しい颶風が巻き起こり、鋼槍を弾く。
 持ち主の意思に応じて風を自在に操る神剣『風伏』である。
 そこへすかさず足下から黒い錐が湧き上がる。
 これは『内なる聖女』を振るい、消去。
 間を置かず、魔力で編まれた高圧の竜巻がレムを包み込む。
 これも消去。
 しかし、それを目眩ましに巨大な火球が迫る。
 同じく消去しようと『内なる聖女』を構え、しかし直後風伏を振り払い、爆風を発生させ相殺。
 鋭く移動しつつリズと一瞬目が合う。
 何の感情も読み取れないその目を見て、レムは内心慄然とする。
 『内なる聖女』は魔力構成を分解し、あらゆる魔術を無効化せしめるが。
 あくまで魔力構成を分解するだけであり、物理現象に干渉している訳ではない。
 即ち『魔力を介していない』攻撃に関しては無力だという事だ。
 そう、先程からの少女のように魔力を物質変換する練成術のようなモノにはだ。
 だが、『ビルマーヤの火』を消去した時の少女の反応を見る限り『内なる聖女』の魔力分解を知っていたとは思えない。
 (ですが、この組み立ては…)。
 特に最後の火球…。
 あれは攻性術式『爆焔吼』ではなく。
 見た目はさして変わらないが、威力でも効果範囲でも劣り、発動の手間もかかる練成術『煉成火焦』。
 だが、だからこそ『爆焔吼』のつもりで対処していたら、今頃は燃え滓になっていただろう。
「この短時間でこちらの手札を読みましたか…」
 苦々しくも賞讃の意を込めて呟くレム。
 その分析能力や判断力は、あるいは師のウェイネイ以上。
 大成すれば歴史に名を残す魔術師になったかもしれない。
「ですが、禍根はここで摘ませてもらいます!」
 レムは風伏の力を解放し、鋭く突きを放つ。
 その一撃は旋を巻き、轟風の破槌となってリズへと突き進む。

 リズは迫り来る薄い空色の風塊を『爆焔吼』を放ち、相殺する。
 互いに絡み合い霧散していくのを待たず術式を紡ぎ、雷光を放つ。
 が、放たれた雷光は即座に四散、消去される。
「…なっ!」
 消えゆく雷光を突き破り現れたのは、神官戦士の持っていた対術式の剣。
 風の一撃の後に素早く投擲していたのだ。
 しかも、その後ろから神官戦士自身ももう一振りの剣を構え、突進してくる。
 リズは練成術で腕部に対刀剣用の甲殻を生成。
 飛来する剣を打ち払おうとする。
 …しかし、その一撃は空を切る。
 リズは愕然とする。
 神官戦士は、宙を駆け、自らの放った剣の中程に飛び乗り、飛翔する剣の動きを止めていた。
 体勢を整える暇を与えず、神官戦士は二歩目で剣の切っ先近くを踏み蹴り、リズに向けて跳ぶ。
 蹴り押された反動でゆっくりと旋回する剣を後ろに、もう一本の剣を振るう。
 リズは咄嗟に甲殻に覆われた手で剣撃を止めようとする。
 が、その瞬間神官戦士の持つ剣から爆発的な威力で風が噴出し、剣撃のスピードを段違いに加速させる。
 破壊力を増した一閃は、甲殻ごとリズの右腕を肘の下から斬り飛ばした。
 剣を振り抜いた姿勢のまま、右手を上に上げる神官戦士。
 そこに最初から計算されていたかのように、旋回した対術式の剣の柄が神官戦士の手に収まる。
 冷然とリズを見据え、その剣を振り下ろす。
 反射的に迎撃術式を編むものの、対術式の剣を前にあっさり消去される。
 発動の手間がかかる練成術は間に合わない。
 剣閃は鋭く肩を抜け股間までの直線を薙ぐ。
 その一撃に左側の肋骨全てが連続切断。
 リズは大量に血を吐きながらも後ろに大きく跳ぶ。
 着地と同時に派手にバランスを崩し、倒れ込んでしまった。
 慌てて立ち上がろうとして、左足首から下が消失しているのに気付く。
「これ…は…」
 周囲を見やり、ハッとする。
 いつの間にか自分の周りは極細のワイヤーで囲まれているではないか。
 どうやら跳躍の際にその一本にやられたらしい。
 否、これだけの数に囲まれて足一本ならばむしろ僥倖というべきか。
 そこで慌てて意識を神官戦士に戻すが、追撃はない。
 怪訝に思ったリズだが、新たな気配を感じて振り向いた。
 そこには二人の神官戦士が立っていた。
 一人は小柄で純白の鎧に身を包んだ金髪の女騎士。
 もう一人は下半分が吹き飛んだボロボロの兜をつけた同じく女の神官戦士だ。
 二人から発する雰囲気からしても並の実力ではない。
 リズは、ボロボロの神官戦士を見やり、師を倒したのはこの女だと悟る。

 ようやくたどり着いたメリッサは息を飲む。
 周囲の惨状、こちらの被害、満身創痍の少女。
 どれも凄惨なものだが、メリッサは少女の手負いの猛獣のごとき目を見てやるせない気持ちになった。
「魔女の弟子の少女よ!」
 クロジンデが一歩前に出て、少女に語りかける。
 さして声を張り上げているわけでもないが、凛としたよく通る声。
「私はクロジンデ・オ・ゲイムニス……この討伐隊の指揮を任されている者だ」
 その名に少女が僅かに反応する。
「………神殺し…」
 あらん限りの憎悪を込めたかのような呟きだったが、クロジンデは怯む素振りも見せない。
「そう呼ぶ者もいる」
 平然と返すクロジンデに少女はフン、と鼻を鳴らす。
「…それで、その神殺しが何の用?」
「貴様の師からの伝言だ」
 その言葉に目を見開く少女。
 メリッサも同様だ。
 伝えぬわけにはいかないと思いつつも、この状況で如何にして伝えるかを考えていたのだが。
「『死ぬな』…そして『生きろ』との事だ」
 その言葉を聞き、少女は口を手で押さえ、嗚咽を堪えながら小さく震える。
 だが、ものの数秒で立ち直り、鋭くクロジンデを睨む。
「………そう…」
 無機質な声で返す少女。
「聞いたな?確かに伝えたぞ」
 相も変わらぬ鉄面皮の…だが、僅かずつだが剣呑な気を立ち上ぼらせるクロジンデ。
「話は終わりだ………では死ね」
 そう宣言し、ゆっくりとハルバードを構える。
 その行動にメリッサのみならず、レムも驚きを隠せないでいる。
 当然だ、あのような遺言を伝えた直後に死刑宣告など誰が予想できるだろうか。
「先程のメリッサではないが…」
 ゆっくりと歩を進めながら語るクロジンデ。
 少女は話を聞く素振りも見せずに無言で術式を発動。
「今から貴様を殺す」
 クロジンデの周囲から無数の白刃が襲いかかる。
「私を恨みたいのであれば…恨むがいい」
 クロジンデの腕が霞み、数十本はあろうかという白刃が残らず粉砕される。
 遠目で見ているメリッサですら視認するのが精一杯な神速の一閃。
「憎みたいのであらば…いくらでも憎むがいい」
 少女は魔力による不可視の砲身を形成、20cm近くある鋼鉄の砲弾を練成し、撃ち出す。
 電磁誘導された砲弾は、音速を遥かに超えた速度で射出。
 城壁すらも容易に抜くような大威力の一撃である。
「呪うのであれば…呪詛を吐き続けるがいい」
 直後、クロジンデの一撃に弾き飛ばされ、明後日の方向に飛んでいってしまう。
「私はそれら全てを受け入れよう」
 触れたもの全てを凍結させる液化窒素の奔流を放つ少女。
「貴様の全ては我が大望の糧となる」
 だが、それすらもハルバードの一振りで吹き散らされる。
 レムのように神剣の力ではなく、純粋に圧倒的な速度と力のみでの所業。
 メリッサとてあのような人外の芸当は無理だ。
「諦めろとは言わん…最期まで足掻き、もがき、死に対し抗え」
 もはや、手が無いのか。
 あるいは抗おうにも力が残っていないのか。
 少女は膝をついたまま、術式を放つ事なくクロジンデを睨むのみ。
「…貴様の力と意思、そして信念…この私がその『業』を貰い受ける…」
 少女の眼前にまで迫ったクロジンデがハルバードをゆっくりと振り上がる。
「…――……」
 少女が何かを呟く。
「…遺言か?」
 少女は笑みを浮かべていた。
 もはや敵わぬと悟った自暴自棄か、やたらと凶悪な笑み。
 元々が人形のごとく端整な顔立ちなため、血で赤黒く染まったゴシックな赤いドレスと共にその凄惨さがイヤでも際立つ。
「ブローゾ族と言う部族を知っているかしら?」
 唐突な問い。
 クロジンデは問いの意味を測りかね、動きを止める。
「この部族は生粋の戦闘民族で、性別を問わず生涯のほとんどを戦いに費やすの」
 ハルバードを振り上げた体勢のまま、唐突な講義に聞き入るクロジンデ。
 メリッサやレム、他の神官戦士達も同じだ。
「身体強化以外の術式を用いず戦う彼等には一つの掟があるのよ」
 出血のためか、荒い息を吐きながらも続ける少女。
「『己の屍を晒さない』という掟…自分の体内に炎熱呪式を刻み、死と同時に発動するようになってる」
 蹲りながらもはっきりとした声で続ける少女。
「術者の魔力を糧に肉体全てを練成触媒とした術式…一度発動すれば術者が死のうとも解除は不可能」
 ハッとしたクロジンデが背後に飛び退く。
 顔を上げ、嗤う少女。
 その手には緻密な術式の組成式が浮かんでいる。
「わたくしの残魔力ならば威力は第六階位相当…半径300m圏内は塵すら残りませんわ」
 少女の身体が眩く輝く。
「総員耐爆防御を展開しつつ退避――ッ!!」
 自らも『光背』を展開しつつ、クロジンデが声を上げる。
 珍しく切羽詰まった声音。
「ただ……コレであなた達みたいな愚犬共が醜い肉片と臓物を撒き散らして死ぬ様を見物できないのが残念だわ!」
 その瞬間、少女は直視出来ないほどに強く光に包まれた。
 直後、少女のいた場所を中心に白い光のドームが発生。
 常識外の熱量と爆圧を伴い急速に膨張していく。
 付近一帯を巻き込んだ爆発は、少女の宣言通り半径300m近い巨大なクレーターを作り出していた。
 その巨大なクレーターの外縁部でメリッサは身を起こす。
 既に兜は吹き飛び、その金髪は泥や埃で汚れていたが。
 咄嗟に展開した『光背』でなんとか耐える事が出来た。
「各員!状況は!被害を報告!!」
 即座に声を上げ、周囲を確認。
 疎らに倒れていた神官戦士達が各々立ち上がり、無事を報告する。
 しかし、その数は少なく総勢で八人ほどであった。
「フン、まったく…大した置き土産だな」
 すぐ背後にクロジンデが立っていた。
 髪が乱れ、埃が付いているが。
 かすり傷が多少ある程度で、ほとんど無傷だ。
 あの爆発の中にあって、一番爆心地に近い位置にいたはずなのだが…。
 (…絶っ対人間じゃない)。
 心中で戦慄しつつ嘆息。
「…貴公…よくあの爆発の中でそこまで…」
「無論だ、『光背』の展開は間に合ったからな」
 クロジンデは平然と答えてくるが…。
「…いや、私も『光背』は展開していたんだが…?」
 魔力でならばメリッサとてクロジンデにそう劣るものではない。
 少なくともボロボロの自分とほぼ無傷のクロジンデを分けるほどの差はないはずだ。
「第六階位相当などと言われて単純に『光背』で防げるはずもなかろう」
 半ば呆れたような声のクロジンデ。
「通常発動後に並列発動で二重に『光背』を追加展開したのだ…もっとも、後発の二つは無音詠唱故に効果が落ちてしまったがな」
 前言撤回。
 どうやら魔力も桁違いらしい。
 (…欠点とか無いのか、この女は)。
 神殺し恐るべし。
 などと思っていると、クロジンデが生き残りの神官戦士に撤収に取り掛かるように指示している。
 ホッとした気持ちでクロジンデに近寄る。
「…ようやく終わったな」
 そんなメリッサにクロジンデは冷笑。
 そのまま爆発の中心地に歩きだす。
 爆心地にたどり着いたクロジンデは、高熱で硝子化した地面に軽くハルバードを振り下ろす。
 すると、硝子化した大地は爆ぜ割れ。
 その下には50cmほどの穴があった。
 丁度小柄な人間ならば潜り、進めそうな小さな穴。
 探査の術式をかけ、穴が途中で塞がっているのを確認。
「レム」
「ここに」
 クロジンデの呼び掛けにレムは即座に応える。
 メリッサと同じく、装備していた鎧は吹き飛んでいるものの神官服には目立った損傷はない。
「三名ほど連れて付近を探索、あの怪我では大した事は出来んだろうがな」
「了解です」
 一礼し、その場を去って行くレム。
 その後ろを付近にいた神官戦士が三人付いていく。
「残りは撤収作業を始めろ」
 残りの神官戦士達も一礼し、仮説本部へ走りだす。


「メリッサ」
 不意にクロジンデに声を掛けられた。
「…何か」
「貴様…気付いていたな?」
 問いを遮り、クロジンデが詰問する。
「……何の事だ?」
「フン、貴様とレムは位置的には大して変わらない場所にあったはずだな」
 淡々と語るクロジンデ。
 メリッサは黙し、聞き入るのみ。
「なのに爆発の被害は貴様の方が明らかに大きい」
 メリッサは無言。
 クロジンデが続ける。
「気を取られたのだろう?魔女の弟子が目眩ましに紛れて離脱しようとしているのを見て」
 しばしの沈黙の後、メリッサが口を開く。
「なぁ…クロジンデ」
「時間稼ぎか?だがあの状態ではレムの追撃を逃れる事など…」
 ふと、クロジンデは動きを止める。
「………時間稼ぎ…?否、そうか『時間稼ぎ』か…」
 何を察したのかクロジンデは不敵な笑みを浮かべる。

「レメディウス様、あちらを」
 部下の報告した方向に目を向ける。
 そこには息も絶え絶えな状態で、這いながら進む少女の姿があった。
 失った右腕と左脚の断面はこれ以上の失血を防ぐためか焼かれ、半ば炭化していた。
「…楽にしてあげなさい」
 嘆息し、周囲の三人の神官戦士に命じる。
 頷き、早足で進み、少女に追いつく。
 少女は荒い息を吐きながら振り返り、神官戦士達を睨む。
 もはや睨む眼光にも大した力は無く、神官戦士達は各々の武器を振り上げる。
「神威を!」
 口々に叫び、勢いよく振り下ろす。
 が、次の瞬間、武器を取り落とし、そのまま崩れ落ちる。
 見れば、いつの間にか三人の喉元にはナイフが突き立っていた。
「ッ!」
 レムは咄嗟に風伏を一閃。
 甲高い音と共に黒塗りのスローイングダガーが弾かれる。
「…おや?キミ…思ったよりやるねぇ」
 前方の樹の影から滲み出るように現れたのは黒い影。
 影は少しずつ輪郭を露わにし、人の形をとる。
 黒いロングコートを身に纏う白き妖人。
 シャーロウ・エクスタであった。

 ――場面は少し遡る。
「…やぁ…何か、僕に手伝える事はあるかな?」
 シャーロウが樹上からメリッサを見下ろしている。
「フン、計ったようなタイミングだな」
「…うん、見てたからね」
 いけしゃあしゃあと答えるシャーロウ。
「………依頼をしたい」
「…おや、これはこれは唐突な」
 茶化すシャーロウを睨む。
 すると、笑みはそのままにウインクを一つ。
「…はいはい、依頼はあの娘の脱出でいいのかな?」
「その通りだ」
 その答えにシャーロウはクク、と軽く笑う。
「…その後は?僕から見てもクロジンデが言ってたのは正論だったと思うけど?」
「わかっている…だからお前に説得を頼みたい」
「…説得?」
 意外そうにシャーロウが聞き返す。
 どこか愉快そうな表情だ。
「ああ、私は弁が立たんからな…無論成否は問わん、脱出を成功させれば依頼は完遂という事でいい」
「…もし、説得に失敗して復讐に走ったら…どうするのかな?」
「その時は…出来れば身柄を確保しておいてくれ」
「…フフ、己が手で…かい?」
「自分が撒いた種ならば自ら刈らねばなるまい」
 断言するメリッサに対し、目を細めてこちらを凝視するシャーロウ。
 気付けば、あのイヤらしいニヤニヤ笑いも引っ込め。
 無表情にメリッサの瞳を覗き込んでいる。
 それはこちらの様子を伺うというより、対象物を『観察』する研究者のような視線。
「…ま、いいよ?」
 あっさりと頷く。
「…ただし、条件が三つ」
「三つ?」
 聞き返すメリッサに笑顔で応える。
「…そ、まず一つはこの窮地を脱する事」
「だから、その脱出を」
「…させたいのは山々だけどね、既に捕捉されて戦闘中なんだよねぇ」
 慌ててシャーロウが指差す方向を見るが、当然というべきか何もいない。
「…まだずっと向こうの方だよ…もうそろそろ本隊やレメディウスくんも追いつくからね」
 探査の術式を使い、現状を確認。
 確かに数人の神官戦士に追われているようだ。
「…この窮地を脱する事が出来て初めて依頼を請け負おう」
 その脱出が無理だから依頼をしようと言っているのではないか!。
 そう反論しようとするメリッサを手で制するシャーロウ。
「…もしもこの案を飲めないなら依頼は受けないよ?」
 ニヤニヤと嗤いながら顔を近付けてくる。
「…クク、困難な依頼が好きなはずなのにこんな条件を付けるのが疑問かな?」
 当たり前だ。
「…それはね…無理難題な前提条件を押し付けられて苦悩するキミの顔が見たいからさ」
「なっ!!」
 驚くメリッサを見て、なおも深く嗤笑。
「…無垢な少女が理不尽な暴力によって狩り立てられ、むなしく命を散らそうとしている…でも自分ではそれを止める事が出来ずたったさっき知り合った人間に頼るしかない現状!確かに僕ならこの状態からでもあの娘を助けてやる事が出来る…でもやってあげない!キミはただ見ている事しか出来ずに苦しむのみだ…そう、その苦悶の表情を僕は見たいのさ、あの娘の命も神殿勢力の思惑も僕にはカケラほども関係ない、キミはそんな状態で絶望感と無力感を存分に味わうといいよ?素晴らしいねぇ、どうしたんだい?笑おうよメリッサ…ハハ、僕はこんなにもいい気分なんだ…キミも笑えばいいんじゃないかな?ねぇメリッサ聞いてるのかいメリッサぁ?」
 狂気すら感じる赤い瞳を光らせ、シャーロウが語る。
 万人を圧倒する強烈な意思。
 その有無をいわさぬ迫力に気圧されるメリッサ。
 (クロジンデ…貴公の言う意味が分かった)。
 イカれてる。
 力を持っていながら…否、持っているが故に無軌道に場をかき乱す狂える鬼札。
 (………私は…コレを頼って本当によかったのか…?)。
 僅かに寒気をおぼえる。
 と、そこでシャーロウは肩をすくめる。
「…ま、実際には両者の戦力分析ってのもあるんだけどね」
 先程までの狂気はどこへいったのかいつものニヤニヤ顔に戻っている。
 むしろたった今垣間見た狂気こそが夢ではないかと錯覚するほどだ。
「……それで二つ目はなんだ?」
 おや、と少し感心したような表情のシャーロウ。
「…ん、二つ目はクロジンデの足止めだね」
「足止め…か」
「…そう、流石にアレの相手をしつつってのはキツいからね、実力行使で押さえ込んでも舌先三寸で丸め込んでも構わないからさ」
 でも力ずくは無理かな?と笑う。
 挑発するかのような物言いに若干ムッとするが積極的に無視。
「どの位…止めればいい?」
「…そうだね…五分あれば完遂してみせよう」
 五分間…。
 たった五分でやれると言うのか。
「五分あれば確実に逃がせるんだな?」
「…大した価値はないけど僕の名に誓おう」
 大した気負いもなくひらひらと手を振る。
「分かった、我が身にかえても食い止めてみせよう」
 その言葉に何を感じたのか、メリッサは力強く頷く。

「請負人を頼ったか」
 鋭くこちらを睨むクロジンデ。
 既にこちらの事情をあらかた読んでいるようである。
 ハルバードを構えるその姿に話し合いの余地はなさそうだ。
「クロジンデ…」
「時間稼ぎには乗らん、邪魔をするなら貴様を打ち倒し征くのみだ…あの請負人の相手はレム一人では難しかろう」
 そう言ってこちらを見るクロジンデの眼は、もはや同胞ではなく敵を見る目付きだ。
 同胞を相手に剣を振るう、その事には覚悟を決めたメリッサだが、一つだけ確認したい。
「クロジンデ…最後に一ついいか!」
 メリッサの声に何を感じたのか、クロジンデは無言で続きを促す。
「貴公の言う『大望』…内からの革命を成し遂げた後…貴公はどのような国を目指すつもりだ?」
 外見に変化はない…だがメリッサは、微細だがクロジンデから驚きの気配を感じていた。
「…ほう」
 クロジンデに下る気になった訳ではない。
 ただ、訊いておきたかった。
 この信念の神官戦士の望みを。
「まぁいい、私が望む国の形か…」
 ハルバードを下げ、肩に担ぐ。
「私はこの国を法を以て統治する鋼の法治国家とする」
 力強く断言。
 嘘偽り無き本心からの言葉だと嫌でも伝わってくる。
 だが鋼の法治国家だと…。
 法を以て民の上に君臨というのならばそれは…。
 (ただの圧政ではないか…!)。
 確かに国を憂う気持ちはわかる。
 しかし、法で民を縛るのでは結局変わらないではないか。
「そうか…わかった…」
 答え、剣を構える。
 もはや言葉は不要。
 クロジンデも再びハルバードを構え、一歩足を踏み出した。

 相対していたシャーロウの腕が一瞬霞む。
 光を反射しない黒い刀身は周囲の風景へと溶け込み、風切り音のみが響く。
 速度と相俟って、もはや視認出来るものではない。
「ですが!」
 レムは風伏を一閃。
 一瞬でシャーロウとレムの間に風が立ち上がる。
 風の防壁の前にむなしく弾かれる三本のスローイングダガー。
 しかし、ダガーに気をとられた数瞬の内にシャーロウは姿を消していた。
「!!」
 反射的に身を低くして前に跳ぶ。
 刹那、レムの頭部があった場所を銀光が薙ぐ。
 そこには黒くわだかまる影。
 手には光る一振りのナイフ。
「…いや、ホントに…」
 影が嘲るように震え、くぐもったシャーロウの声が聞こえてくる。
 その直後空気を抜いた風船のごとく一気に小さく萎んでいく。
「…やるねぇ」
 背後至近から響く声。
 首筋に軽く息を吹き掛けられた。
 寒気を堪えつつ、背後を双剣で大きく薙ぎ払う。
 しかし、その一撃は空を切り、レムは軽くバランスを崩す。
 いつの間にか右足の脛に先程のナイフが突き立っていた。
「…クク、足下がお留守だよ?」
 先程姿を消した場所に再びシャーロウが立っている。
 手にはナイフを持ち、ニヤニヤとイヤらしい笑みを浮かべていた。
 ロングコートの袖をめくり、竜の頭蓋を象った腕輪を見せた。
「…この『影渡りの竜骸<ファーフナー>』は影を媒介に短距離の転移が可能なんだ…」
 腕輪からはとめどなく闇が溢れ出ており、シャーロウの周囲に漂い出し。
 その姿を覆い隠そうとする。
「…さて、時間もあんまりないし…」
 言葉を遮り、『内なる聖女』を鋭く突き入れる。
 が、一瞬速く闇がシャーロウを包み込む。
 その闇を『内なる聖女』が消去するものの、既にシャーロウの姿はない。
「…さっさと終わらせるよ?」
 その声と共にレムの周囲に六つの影が立ち上がる。
 声は均等に六つから発せられ、位置の特定は不可能だった。
 数瞬、祈るように目を閉じるレム。
 覚悟を決め、『内なる聖女』を構える。
 剣は、その六つのどれでもなく、脇の下から背後に突き出された。
 そこには、今まさにナイフを構えた影が盛り上がったところだった。
 纏っていた闇は呆気なく消去され、剣はシャーロウの脇腹を貫通した。
 驚きに目を見開くシャーロウ、ポロリとナイフを落とす。
 だが、次の瞬間『内なる聖女』を掴み、口の端を吊り上げる。
「…これ…は…これは…」
 剣を腹から生やした状態のままの凄絶な笑み。
 (ッ……!)。
 シャーロウから放たれる鬼気に、必死で湧き上がる寒気を堪えるレム。
 必勝を期した一撃だった。
 短時間ながらも今迄の戦闘からの行動バターンの予測。
 実力差から来る、ほんの僅かな慢心。
 地形と位置取りによる出現位置の誘導。
 それら全てを利用した会心の不意打ちだった。
 だが呆然としたのは一瞬。
 即座に我に帰る。
 いつの間にかシャーロウの空いた手には短刀が握られており、既に振るわんとしている。
 咄嗟に『内なる聖女』から手を放し、飛び退く。
 短刀の届く間合いではないが、シャーロウは構わず一閃。
「…クク、さぁ『斬り結べ』」
 声に合わせてレムは鋭い衝撃を受けた。
 見れば右胸から左肩にかけて切り裂かれている。
 見えない斬撃による一撃は斜めに入ったらしく、右胸あたりは神官服が切れている程度だが、左肩付近では肩甲骨を割断していた。
 握りを保持出来ずに左手の『風伏』を取り落とした。
 『風伏』が地面に落ちるより速くシャーロウが腕を振るい、レムの左足…甲、脛、そして太腿にナイフが突き立つ。
 立っている事もままならず、崩れ落ちるレム。
 が、それよりも速くシャーロウが左肩を蹴りつける。
「……っぅあッ!!」
 仰向けに倒れつつ苦悶の声を漏らす。
 そこに更に追い討ちでシャーロウが剣を振り下ろす。
 自らの腹に刺さっていた『内なる聖女』だ。
 剣は、唯一無事だった右腕を地面へと縫い付けた。
「…フフ、確か『内なる聖女』は治癒の術式も消去するんだよねぇ」
 事実だ。
 今現在も傷を治さんと自動発動の治癒術式が展開しているが。
 自らの体を貫く愛剣が、ソレらを片端から消去していた。
 標本のごとく剣に貫かれたレムを面白そうに見下ろす。
「…クク、キミ…思ったより胸があるねぇ」
 切れた神官服から覗く胸元からは豊かなふくらみが顔をのぞかせていた。
 胸を晒した状態で恥ずかしがるでもなく、シャーロウを睨み付けるレム。
 だが、その間にも肩の傷口からはとめどなく吹き出していた。
 シャーロウは短刀を眼前に掲げ、嗤笑。
「…フフ、どぉだい?この『死の導き手<キムラック>』はね、振るうと不可視の仮想ブレードを展開して対象を割断するのさ」
 ニヤニヤと嗤いながら解説するシャーロウ。
「…尤も…射程は2m程度だし、振るうのは僕だから不意打ちでもないと高レベルの前衛には通用しないけどね」
「………」
「…そぉ睨まなくてもいいんじゃないかな?」
 気楽に近寄り、レムの胸元に止血の療符を貼り付ける。
 すると、大量に噴出していた血は勢いを減じていった。
「…何故助けるのかわからないみたいだねぇ」
 こちらの顔をのぞき込みながらシャーロウが微笑み問い掛ける。
 視線で肯定すると、突然肩に衝撃がはしる。
 シャーロウが笑顔はそのままに、肩を踏みつけたのだ。
「あぁっ!」
 不意の事に思わすあげた悲鳴にシャーロウは満足そうに頷く。
「…いい声だねぇ…さて、キミを殺さない理由だけどね」
 レムの傷口を抉るように踏み躙りながらも笑顔で続ける。
 苦痛に呻くレムなど一顧もしない。
「…キミを生かすのはクロジンデに対する『貸し』さ、キミを見逃してやるからあの娘を追うな…とね」
 止血はされたとはいえ、肩を貫かれた傷口を文字通り足蹴にされて激痛で顔面蒼白のレム。
 既にシャーロウの言葉の半分も耳に入っていない。
「…聞いてるのかい?」
 返事は無い。
 弱々しく息を吐くレムを見て肩をすくめるシャーロウ。
 ゆっくりとレムから足を離す。
「…そういえばキミにはこの傷の礼をしてなかったね?」
 そう言って、足下に落ちていた『風伏』を拾いあげる。
 レムは、そんなシャーロウの行動を見る余裕もなく。
 傷口を抉られる痛みから解放され、安堵から荒く息を吐く。
「…確か…この辺りだったよねぇ?」
 脇腹に手をやり、治癒の療符によって塞がった自らの傷口を擦るシャーロウ。
 それを見て何かを悟ったレムは自らの血の気が引くのを感じた。
「…さぁ、受け取るといいよ?」
 そう言って『風伏』を振り下ろす。
 剣はシャーロウに刺さっていた場所に寸分違わず位置に突き刺さった。
「……っぁ……あ……!!」
 満足に悲鳴をあげる事すら出来ずにか細い声を漏らすレム。
「…落とし物はちゃんと持ち主に返しておかないとねぇ」
 いけしゃあしゃあと言い放ち、もがくレムを見下ろす。
 が、すぐに踵を返し歩き出す。
 そのまま少し離れた所で倒れ伏していた魔女の弟子に歩み寄り、その身を抱えあげる。
「…じゃ、僕はこれで」
 その言葉を聞く事すら出来ない。
 もはやレムにはもがく余力も残ってはいない。
 シャーロウは、そんなレムを一瞥。
「…じゃあね、レメディウス」
 闇に包まれ、消えていった。

 互いに最初の一歩はゆっくりと。
 直後、爆発的に加速。
 疾風すら後塵を拝する速度で突進するメリッサ。
 対するクロジンデは僅かに遅れて加速。
 メリッサを疾風とすれば、それすら霞むクロジンデの動きはまさに迅雷。
 二人は数瞬で肉薄。
 クロジンデがハルバードを振るう。
 メリッサはすんでの所で身を低くして回避。
「貴公の動きは先程見せてもらった!」
 振り抜いたハルバードの間隙を縫うように滑り込み、剣を構える。
「フン…甘いぞ、メリッサ」
 淡々と言葉を返すクロジンデ。
 (…っ!)。
 速度はそのままに振り抜かれたはずのハルバードが戻ってきていた。
 (な…ん…だと…!)。
 冗談ではない。
 あれだけの速度で振り抜いて、そのまま切り返すなど…。
 だが、どれだけ信じ難くとも事実二撃目は眼前に迫っている。
「くっ…あぁ!」
 咄嗟に剣で防ぐ。
 しかし、一瞬の拮抗の後、衝撃に耐えきれずに剣は呆気なく弾き飛ばされる。
 (腕が…イったか…!)。
 かろうじで一撃はいなしたものの、剣を失い、構えていた右腕が動かない。
 息をつく間も無く、クロジンデの右足が跳ね上がり、前蹴りが打ち込まれる。
「……っ!!」
 身体を走る凶悪な衝撃に息を詰まらせる。
 堪える事も出来ずに軽々と10m近く吹っ飛ばされる。
 血反吐を吐きながらも体勢を立て直すメリッサ。
 顔を上げれば、既にクロジンデが至近まで迫ってきている。
 武器はない…だが、それがどうした!。
「こ…のぉ…!!」
 左の拳を握り、振るう。
 が、あっさりと空を切る。
 舞うように身体を回転させ、回避、その動きのままにハルバードを一閃。
 下からすくうようなハルバードの一撃はメリッサの脇腹に直撃。
 またも吹っ飛ばされるメリッサ。
 今度は踏ん張りきれず仰向けに倒れ伏す。
 それでも起き上がろうとすると、目の前にハルバードが突き付けられる。
「ここまでだ」
 言葉と同時にバインドを発動。
 光の鎖がメリッサを拘束する。
「クッ…!」
 解呪する余力など残ってはいない。
 無念ながらここで詰みだ。
 (すまん…シャーロウ…)。
 会話も含めて時間にして三分足らず。
「…クロ…ジンデ……」
「何だ」
「何故…手を……抜いた…?」
 そう、最後の一撃。
 アレは本来ならばメリッサの身体を両断していたはずだった。
 だが、クロジンデは当たる直前に刃を返し、背の部分で打ち据えた。
 そのおかげで助かったのだが…。
「別に大した理由ではない」
 もはや動けない事を察したのか、突き付けていたハルバードからは殺気を感じない。
「貴様程の者を私の一存で処断するのもどうかと思っただけだ」
 単に情けを掛けられただけだった。
「それから貴様の勘違いを訂正しておこう」
「勘違い…だと?」
 自分が何を勘違いしたと言うのか。
 そう思っていると、ハルバードの先端に術式の光が灯る。
 クロジンデは治癒の術式を発動させつつ、相好を崩し小馬鹿にするような笑みを浮かべていた。
「先程の反応から察するに…貴様は私の目指すのは法によって民に圧政を強いる独裁者とでも思ったのではないか?」
 まったくもってその通りだ。
「違うとでも言うのか?」
 困惑の表情で問い掛ける。
「そもそも…貴様は何故私が圧政を強いると思ったのだ?」
「……いや、鋼の統治とか法を以て支配するとか…」
 自信なさげに声を落とすメリッサ。
 実は意味を完全に理解していたわけではない。
 というかあの時は対決前提で、話半分にしか聞いていなかったのだ。
「鋼がつけば圧政か…ならば、貴様の二つ名は暴君の証か?」
 半ば呆れた表情で問う。
 正論だ、ぐうの音も出ない。
 クロジンデはこんな時でもどこまでも正論だ。
「…いいか、私の目指すのはだな、民も、上に立つ者も等しく法を遵守し、一切の不正を許さない…そんな国だぞ」
 脳内で絶対王政的なモノを想像していたメリッサは肩透かしをくった。
「いや待て、肝心の法はどうやって制定するのだ?」
「議会を設け、そこで制定すればよかろう…無論、議員となる者には確かな資質と確固たる意思が不可欠だがな」
 理路整然と答える。
 むぅ、と唸るメリッサ。
 そこでふと気付く。
「…私が言うのもなんだが、貴公はここで談話していていいのか?」
 元々はクロジンデの足止めのために挑んだ戦いだったはずだ。
「いいわけなかろう…だが、どうせもう間に合わん」
 あっさりと言い捨てるクロジンデ。
「レメディウスを見捨てるのか?」
 責めるような口調。
「あの女はレムを殺さん」
 断言するクロジンデ。
 その言葉にメリッサは怪訝な表情。
「魔女の弟子を逃し、責任者は殺され、神官戦士の大半に実働の副官まで失ったとあってはこちらも退くに退けまい」
 そうだろう?とメリッサに振る。
 たしかにその通りだ。
 こちらにも面子があるし、上層部も納得しないだろう。
「ならば、不慮の事故でドゥーチェッタ卿を失い、兵の大部分も犠牲となるが、見事魔女を討ち果たし、神威を示した…その方が通りがいい」
「弟子の存在自体をなかった事にするのか…」
 それならば逃がす事も問題にはならない。
 何せそんな者など最初からいないのだから。
「フン、その方が面倒がないからな」
「その…すまんな…」
 思わす礼を言うメリッサ。
 だが、クロジンデはそれに対し意地の悪そうな笑みで返す。
「なんの、気にする事はないぞ?」
 治癒を終え、ハルバードを引っ込める。
 気がつけばバインドも解除されていた。
「これで鋼の聖女に貸しを一つ作る事が出来たのだからな」
 何食わぬ顔で笑うクロジンデ。
「な!?」
「期待しているぞ?鋼の聖女」
 クスクスと微笑を浮かべるクロジンデ。
 子供のような無邪気な笑顔である。
 そういえばクロジンデは、子供に人気があるのを思い出した。
 そんなクロジンデを見て、メリッサは苦笑を一つ。
「フッ、非才の身だが…出来る限りの事はさせてもらおう」

「…さて、脱出したのはいいんだけど…」
 瀕死のリズを前にシャーロウがぼやく。
 目の前の少女は四肢の半分を失い、身体を縦断する裂傷、大魔術の乱発による魔力の枯渇という満身創痍の状態。
 並…どころか一流の騎士とて何度死ぬかわからない程の重傷だ。
 シャーロウは、付近の地図を脳内で探る。
「…近くには…いないねぇ」
 これほどの重体を完癒出来る術者など、都合よく付近にいるはずもない。
 影を使っての転移も短距離に限りの事であり、長距離を跳ぶのは無理がある。
 シャーロウ、一瞬の沈黙。
 そこにあったのはほんの僅かな逡巡。
 (…ま、いいか)。
 心中で呟き、懐から一体のぬいぐるみを取り出す。
 首から時計をかけた、場違いな愛らしい山羊の人形だ。
 そのデフォルメされた山羊の人形をリズの胸の上にそっと置き、手を翳す。
「…『映し、移せ』」
 呪を唱えると共に人形とリズの身体が淡い光に包まれる。
 光はすぐにおさまり、そこには手足の半分が欠け、体を縦に裁断されたボロボロの山羊の人形。
 そして、五体無事で安らかに寝息をたてるリズの姿があった。
 さした感慨もなく、ボロボロの山羊の人形をつまみあげ、放り捨てる。
「おいおい、勿体ない事すんなよ」
 背後から声。
 しかし、シャーロウは振り向かない。
「…もう使えないからね、持ってても意味がないだろ?」
 淡々と答える。
「じゃ、オレがもらっとくぜ?」
 声の主は無遠慮に近付き、人形を拾いあげる。
「……『生贄の子山羊』ったら大概レアだぜ?使用済みでも十二分に売れるぞ」

 ――生贄の子山羊 現在、世界で六つしか確認されていない魔術礼装である。
 『治癒』と『復元』の概念を持ち、被術者が十二時間以内に受けた傷や呪いなど死亡以外の全ての異常を完癒させる。
 損壊した衣服なども復元する事から、『治癒』しているのではなく被術者の状態を『十二時間前まで遡らせる』のではないかと推測されている。
 なんにせよ一度使用すれば使い物にならなくなるが故に研究もままならない代物だ。

「しかし、よくこんなレア物持ってたな」
「…フフ、あと一つあったりするよ?」
 褒められれば悪い気はしないのか、若干嬉しそうな声。
 と、そこでようやく振り返り、声の主と対峙する。
「…ところで…随分遅かったねぇ、依頼人の分際で」
 振り向いた先にいたのは、妖艶な雰囲気を醸し出す美女。
 さっぱりと短く切り揃えた赤毛と凛とした目鼻立ち。
 舞踏会用の黒いドレスを華美に、そして見事に着こなす様は貴族の風格に満ちている。
 だが、口端を大きく歪め、犬歯をむき出しにした凶悪な笑みは、貴族というより大組織をまとめあげる女頭目の貫禄があった。
「言ってくれるなよ、これでもマジダッシュで来たんだぜ?」
 肩を竦めて苦笑する美女。
 対するシャーロウは心底どうでもよさそうな表情。
「…ふぅん…で、その『身体』の具合はどうなんだい?」
「まぁ、前のよりゃマシだな」
 そう言いながらドレスの胸元を乱暴に引き裂く。
「あー…やっぱこうしとかねェと落ち着きゃしねェな」
 胸元をぱたぱたとあおぎながらぼやく。
「…キミ、確か…『前の』はきっちりスーツ着てなかったかな?」
「いやいや、コイツが…な」
 そう言って破れた胸元を大きくはだけさせる。
 すると、そこにあったのは白い肌をキャンパスにするように、黒い蛇の形をした痣。
「コイツが顔出してねェと…どうにも落ち着かねェ」
 そう言って放埒な笑みを浮かべる。
 顔形こそ似ても似つかないものの、その挙動は『漆黒の蛇』ウェイネイ・サンブレイクそのものであった。
「…ま、どうでもいいや…今更キミの性癖なんて大して興味ないし」
 ひらひらと手を振る。
 その言葉にウェイネイは苦笑。
「実の師匠をどうでもいい扱いかよ」
 ウェイネイの言葉に酷薄な笑みを浮かべるシャーロウ。
「…師弟の縁なんてモノはね、キミの心臓にナイフを突き立てた時に切れてるよ」
「おう、あの時は焦ったぜ…まさか実の愛弟子に不意打ちでサクッと殺られるとかなァ、しかも用意周到に『転移封じ』と『練成解体』に『呪式封』まで敷いて『魔術師殺し』でブスッだもんな」
 どんだけだヨ、とゲラゲラ笑いながら楽しそうに話すウェイネイ。
 当人を前に平然と師殺しを語るシャーロウとそれを当然の事のように話す、殺された当人のウェイネイ。
 どちらも並の精神構造ではない。
「…結局死んでないんじゃ意味ないけどね」
 その言葉に何を感じたのか、ウェイネイはニヤリと笑う。
「あァ?お前拗ねてんの?マジ?」
 からかうようにウェイネイがにじり寄る。
「………はっはっは、僕が拗ねる理由なんて何一つ無い気がするねぇ」
「いやいや、そうは言うがよ…一遍お前に殺されてから…あー…二日後だっけ?」
「…翌日だよ翌日」
 そっぽを向いたまま答えるシャーロウ。
 明らかにさっきまでより機嫌が悪い。
「そうそう、次の日だ……まだオレのアジトに残ってたろ?その時、お前さんがオレ見た時の顔…ありゃ傑作だったぜ?」
 呵々と笑うウェイネイ。
 対照的に、珍しく不貞腐れた顔のシャーロウ。
「…フン、そりゃ仕方ないさ、相手が死んでも死んでも余所の身体に宿って復活するような奇人大賞だなんて僕は知らなかったからねぇ」
 投げやりな声で適当に返す。
「だが…まァ惜しくはあったな、あの『身体』は魔術の適性もハンパなくあったし身体能力も高かったんだがよォ…」
 頭をガシガシ掻きながらぼやくウェイネイ。
「さっきまでの『身体』なんざオマエ見てたろ?触媒使わにゃロクに魔術も使えねェっーアレっぷりだぜ?」
「…クク、それこそ知った事じゃないね」
 ばっさりと斬って捨てる。
「…で、依頼はこれで終了でいいのかな?」
 ひょいひょいとナイフを弄びながら問うシャーロウ。
「…神官戦士団の陣容の調査に始まり、その責任者の暗殺、鋼の聖女の足止め、弟子の脱出の援護」
 一つ一つ指折りながら語る。
 ウェイネイは頷きながら聞いている。
「…そういえば…キミ、どうせ死ぬつもりなら…なんでドゥーチェッタの暗殺を依頼したんだい?」
「あァ?そりゃオマエ、アレだ…どうせ死ぬんなら相手さんの大将くらいは道連れにしときてェだろ?常識的に考えて」
 訳が分からん事を聞くなと言い放つウェイネイ。
 さよか、と軽く流すシャーロウ。
「…それじゃ僕は帰るから」
「あー待て待て、一個ばっかりいいか?」
 ん?と振り向くシャーロウ。
 ウェイネイはいつの間にか弟子の少女を抱えている。
 推何の声をあげる間も無く、意識のないままの少女を手渡す。
「…どゆ事?」
 咄嗟に少女を受け取りながらも首を傾げて問うてみる。
「やる」
「…は?」
 シンプルにも程がある返事。
 思わず聞き返すシャーロウ。
「だから、それ<リズ>をさ…持ってっていいぜ」
 報酬報酬、とぷらぷらと手を振りながらあっさりと言い放つ。
 シャーロウは、ふむ、と値踏みをするかのように腕の中のリズを見やる。
「…使えるのかい?コレ」
 弟子の実力を疑われて心外なのか。
 ウェイネイは大袈裟に肩をすくめる。
「おいおい、お前さんの事だから全部見てたんだろ?実力の程は承知じゃね?」
 シャーロウは皮肉げに口端を歪める。
「…僕は不安定な道具は嫌いだからね、動作性は保証してもらわないと」
「そらそうだ、んじゃ…どの辺りが不安要素よお客さん」
 気楽に聞いてくる。
「…第一、これ…ちゃんと動くのかい?結構なショック受けてたみたいだけど」
「ま、大丈夫なんじゃねーの?その為に遺言残しといたし」
 ん?とシャーロウが考える素振りを見せる。
「…ああ、アレかい?確かにアレが無かったらその娘…あそこで偽装抜きで自爆してただろうね」
 ウェイネイはさすが我が弟子、と無意味に胸を張る。
「…それじゃもう一つ、受け取るのはいいんだけど…使うのが僕でも大丈夫なのかい?」
「問題ねェんじゃね?多分な」
 どこか意味深な笑みを浮かべるウェイネイ。
 その真意を計りかね、眉を顰めるシャーロウ。
「いやなに、その内わからァな」
 けらけらと笑うウェイネイ。
 シャーロウはそれをジト目で見た後、一つ嘆息。
 どうも問い詰めても言う気はないらしい。
 それを了解ととったのか、ウェイネイは術式を展開。
「んじゃ、そろそろ行くわ」
「…こっちには用なんて一つもないからね、さっさと逝くといいよ」
 シャーロウの辛辣な言葉にも軽薄な笑みで応え、ズパッと手を挙げる。
 そして、姿勢はそのままに、その姿は薄く霞んでいく。
 あでゅー、などと言い残し、あっという間に消えていった。
「…さて、僕も帰ろうかな」
 そう呟いた時、腕の中で寝息をたてていたリズがゆっくりと目を開いた。
 少し戸惑った表情。
 まだ現状が把握出来ていないようだ。
 見つめ合った状態で約三十秒。
 ようやくリズの瞳に理性的な光が宿る。
 縋るような弱々しい視線。
 そして、たどたどしく口を開いた。

 目を覚ますと、自分が誰かに抱かれているのに気がついた。
 頭がぼんやりとして思考がうまく働かない。
 頭をはっきりさせるためにも今までの経緯を思い返す。
 師が殺害された事を知り、自暴自棄になって後先考えずに暴走した事。
 その結果返り討ちにあった事。
 せめてここに来た狂信者共を巻き込んで、常世の師にも届く盛大な花火を炸裂させようとした事。
 その後やってきた『神殺し』に、師の遺言を聞いた事。
 『生きろ』というその言葉を聞き、咄嗟に光に紛れ偽装の外殻を残し離脱した事。
 すぐに追い付かれ、追討部隊にトドメを刺されそうになったところで誰かがソレを妨害した。
 …覚えているのはそこまでだ。
 その後…その後は……。
 考えつつリズは、自分が誰に抱かれているか確認しようとした。
 (………あ)。
 なんということだろう。
 今、自分は王子様の腕の中に抱かれていた。
 白馬に乗っているわけではないが、赤い瞳と楽しげに緩ませた口元が素敵な、とても凛々しい王子様。
「…フフ、目が覚めたかな?」
 赤い瞳の王子様がこちらをのぞき込んでいる。
 若干心配そうな顔。
 ああ、こちらを見る憂いを含んだ表情。
 きっとあんまり反応がないから、傷が癒えたかどうか確認しているのだ。
 大丈夫だと、貴方のおかげで全て完治していると伝えたかった。
 だが、唇は弱々しく震えるばかりで、言葉が出ない。
 (…ダメっ!)。
 この想い…ちゃんと伝えなければ!。
 そう思い、我が身の惰弱を意思の力でねじ伏せた。
「………お姉様!」
 抱えられたまま、思いっきり抱き付いたのだ。

 あんまりに突然の挙動に、流石のシャーロウも面食らった。
 確かに自分は男も女もオッケー…というか、どちらかと言えば女の方が好きだが。
 (…もうちょっと、こう…過程ってモノを楽しみたいよねぇ、落とす楽しみってものが)。
 いやいや、そうではなくて。
 ともかく、この状況。
 シャーロウの脳裏に腹を抱えて笑うウェイネイが浮かぶ。
 元々この娘自身がこういった嗜好の持ち主だったのか。
 それともウェイネイによる何らかの暗示か。
 どちらかはわからないが、どうやらウェイネイの意味深な笑みはコレを想定しての事のようだ。
 心中で黙々とウェイネイへのお返しを考えていると。
 そろそろ落ち着いてきたのか、リズが顔を上げる。
「お姉様、名前をよろしいでしょうか?」
 (…ここで適当な偽名を教えるのも面白いんだけどねぇ)。
 などと生来の悪戯心が顔を出す。
「…シャーロウだよ、シャーロウ・エクスタ」
 が、結局本名を教えた。
 特に理由はないが、元々偽名の方も単なる気紛れだ。
 そっとシャーロウからおろしてもらったリズ、若干名残惜しそうな表情。
「シャーロウ…エクスタ……」
 かみ締めるように、宝物を抱き抱えるように、ゆっくりと反芻していた。
 目を閉じ、そっと手を胸に当てる。
「お姉様、わたくし…リジェシ・モルビスフィーンはお姉様に生涯道具としてお仕えします」
 堂々とした宣言。
 生涯仕えると決めた騎士に通じる凛とした態度。
 だが、その内容たるやどうだ。
「…は?」
 いきなりの展開に芸も無く聞き返すシャーロウ。
 だって道具て…話が飛び過ぎだ。
「お姉様がお望みならば、死ねと言われれば喜んで命を絶ちますし、挑めと言われれば天の神々にも戦いを挑みましょう…そして勝ちますの」
「…あ、勝つんだ」
 頬を指で掻きながら、呆然とツッコミを入れるシャーロウ。
 どうにも調子が出ない。
 流石は『漆黒の蛇』ウェイネイの秘蔵っ子だ…いろんな意味で。
「当然ですの、わたくしのお姉様への忠誠心は遍く天地の狭間を満たし、なお足りない程に熱く溢れかえってますの」
「…そうかい、それはすごい」
 もう軽く流す。
 天才となんとかは紙一重というが…これはなんとも強烈だ。
 だが、その実力は先程見た通りの特一級。
 何はともあれ有用なコマを手に入れたのは事実。
 その点だけは、あの奇人の極みたる師に感謝してもいいかもしれない。
「…ま、いいや…それじゃ、帰ろうか」
 そう言って手を差し伸べる。
 ハッとして出された手に見入るリズ。
「はい…どこまでもお供いたしますの」
 頬を桜色に染めて両手でシャーロウの手を掴む。
 目を潤ませ、感無量とばかりに体をふるわせている。
 シャーロウはそんなリズを見つめ、くっくっと喉を鳴らして笑う。
 そしておもむろにリズの腕を引き、腰に手を回して抱き寄せた。
「お…お姉様?」
 妖艶に笑い、触れ合う直前まで顔を近付ける。
 いつの間にか腕の『影渡りの竜骸』からとめどなく闇が溢れ出していた。
「…フフ、お姫様を優雅にエスコートと洒落込もうかな?」
 言葉と共に、二人の体は黒い闇に包まれ、次の瞬間かき消えた。

「……ふぅ」
 自室に戻り、メリッサは兜を脱ぎつつ溜め息をついた。
 最近は実に多忙で、この部屋に戻ってくるのも二週間ぶりだ。
「まったく…クロジンデめ、人を雑用か何かと勘違いしてるんじゃないか?」
 誰にともなく一人ごちる。
 例の事件から三か月。
 あの後、クロジンデの手配なのか、メリッサは上級神官戦士に昇進した。
 それ以来クロジンデの配下に配置される事が多くなり、その度に嫌がらせのごとく厄介な任務を押し付けられている。
 文字通りの激務に、流石にダウンしそうになり、見かねたレムからの進言で二日ほど休暇をもらったのだ。
 それでもクロジンデに大した怒りも湧かないのは、やはりかの『神殺し』の人徳故にか。
 (満面の笑みで「さすがだなメリッサ」なんて言われれば、な)。
 我知らず笑みが零れる。
 義を重んじ、上に逆らう事も多かったメリッサは、上層部から相当に疎まれており。
 『鋼の聖女』などと持ち上げられつつも、有事の際に体よく利用するだけの道具と変わらぬ駒扱いだった。
 だがクロジンデはメリッサを手札だと明言しつつも、『メリッサ・フィーネ・レンベルク』として扱っていた。
 たったそれだけの事がメリッサには随分と新鮮だったのだ。
 激務とて裏を返せば任務の要所に配されているという事だし信頼されている証だ。
 知らず知らずの内に鼻歌など口ずさんでいたメリッサは、迂闊にも扉が開く音にもまったく気がつかなかった。
「えっ!?」
 突然部屋の入口から声がした。
 慌てて振り向いて見ると、そこには一人のシスターが立っていた。
 修道服をラフに着崩した金髪の少女。
 そばかすの目立つ猫のような雰囲気の少女である。
「………あれ?この部屋さ、上級神官戦士のメリッサ様の私室なんだけど?」
 困惑気味に聞いてくる。
「いや…知ってるが…」
 というか自室だからくつろいでいるのだ。
 他人の部屋で兜まで脱いで休む気はないし。
「ちょっとぉ〜知っててとかマジっすかぁ〜」
 露骨にイヤそうな感じを顔に出す少女。
「あのさぁ、あんたが誰で何の用か知らないけど、わたしこの部屋掃除しないと休憩出来ないの」
 なるほど、この少女はメリッサの顔を知らないらしい。
 思えばこの部屋を利用するのはほとんど無く、もっぱら任地の近くの宿屋で済ませていた。
 と、そこまで考えてメリッサは少しだけこの少女をからかってみたくなった。
「そんなもの…もう掃除したという事にすればいいだろう?」
 そう言ってみる。
 すると、少女は眉を顰める。
「は?何言ってんのさ、コイツは私の日課なんだ」
「そうは言うが、どうせメリッサ様はあんまり帰ってこないんだ…構わんだろ?」
 言いたい事を理解すると、少女はみる間に不機嫌そうになった。
「…あんたねぇ………そりゃメリッサ様は全然帰ってこないさ」
 こちらを睨みながら愚痴るようにまくし立てる少女。
 その眼光の鋭さに、思わず怯むメリッサ。
「なのに嫌がらせみたいに毎日毎日掃除させるクソ司祭には本っ気でムカっ腹も立つさ!ああ、まだわたしもメリッサ様に会った事ないよ!」
「む…」
 言ってる内にどんどん腹が立ってきたのか語気が荒くなる。
「でもね!だからって意趣返しに聖務をサボるんじゃクソ司祭の事とやかく言えなくなるじゃん!」
 威勢よく啖呵を切る少女にメリッサはむぅ…と唸る。
 まったくの正論だ。
 …否、元来信徒というものはすべからくこうあるもののはずなのだ。
 それを考えずに軽口を叩いた己の不明を恥じ、自嘲。
「…何がおかしいのさ?」
 それを自分への嘲弄と取ったのか、少女が喧嘩腰で問う。
「いや、すまない………あー…いや、名前を聞いてなかったな」
「アーゼルだよ、アーゼル…姓はない」
 孤児…という事か。
「アーゼルか…すまなかった、失言だ」
 そう言って頭を下げる。
 アーゼルも、まさか神官戦士ともあろう者がそんな対応でくるとは思わなかったのか、毒気を抜かれた顔だ。
「え…あ、ああ…わかりゃいいんだよ」
「だがやはり掃除はしなくていい」
 それを聞いて、再び眉を顰めるアーゼル。
「だから…」
「部屋の主がいいと言っているんだ、素直に聞いておけ」
「部屋の…主…?」
 予想外の言葉にきょとんとするアーゼル。
「うむ、名乗っていなかったな…私の名はメリッサ…メリッサ・フィーネ・レンベルクだ」
 それを聞き、アーゼルはゲッと呻く。
 驚いたのはわかるが、女の子がゲッはないだろうと思ったが黙っておく。
「いや、でもメリッサ様っていったらあのバケツみたいなのかぶった…」
 何かとてつもなく失礼な事を言われた気がする。
 だが、そうか…一般の信徒的には自分のイメージはあの兜か…。
「…ハハ、さすがに部屋の中でまであの兜は付けんさ」
 ひたすらに恐縮するアーゼルを慰める意味でも軽く言う。
「いやほら、えーと…あ、素顔だとホント美人だよね」
 誤魔化すためか、あせあせとフォローするアーゼル。
「む、そうか?私としてはそこまでのモノとは思わんがなぁ」
 たまに部下や同僚に言われはするが、そういうのに大して興味がないし。
 凛とした麗人なクロジンデだのやたら男前なレメディウスだのが周囲にいるせいもあって、実感がわかない。
「美人だってば、メリッサ様自信持っていいよ」
 くすくす笑いながら断言する。
 その様子を見て、お?と思った。
「…私がメリッサだとわかっても…あまり態度変わらないんだな?」
 その言葉にきょとんとするアーゼル。
 その後、んー…と少し考える素振りをみせる。
「メリッサ様は敬語とか一歩引いた態度とかさ…そっちの方がいい?」
 試すように聞いてくる。
「いや…このままでいい」
 苦笑を浮かべつつ答える。
 堅苦しいのはどうにも苦手だ。
「じゃ…さ、いーじゃん?別に」
 にかっと笑う。
 眩しい程にいい笑顔だ。
 メリッサならずとも話し方など些細な事に思えてくるだろう。
「そうか…そうだな」
 こちらも満面の笑みで応える。
 それを見たアーゼルは、うんうんと頷きパンパンと手を鳴らした。
「うん、じゃ納得したトコで、掃除のジャマだからメリッサ様外に出ようか」
「え?いや、だから…」
「ダメダメ、日課なんだから…ね?」
 先程のいい笑顔のままで、問答無用に部屋の外に押し出されてしまった。
 目の前でバタンと音を立てて閉まったドアを見て、メリッサは惚けた顔のまま立ち尽くした。

「メリッサ様〜もういいよー」
 十五分程して、部屋の中から声が響く。
 直後、ドアが開きアーゼルが顔を出す。
「メリッサ様…って………?何やってんの?」
 アーゼルの視線は下。
 はたしてそこには床に坐して黙想するメリッサの姿があった。
「メリッサ様ー?おーい…聞こえてるー?」
 再三の呼び掛けに、メリッサはゆっくりと目を開いた。
「む、掃除は終わったか?」
「いや終わったけどさ…何やってたの?」
 服に付いたホコリを払いながら立ち上がるメリッサ。
「座禅といってな、精神を集中するのにいいぞ」
「あー…うん、そうなんだ」
 少し得意げに解説する。
 イマイチ理解出来ないアーゼルは困った風に返す。
 そんなやり取りの後、そのまま二人とも部屋に戻った。
「…ん?掃除をしたわりに、あまり変わらんな」
 ぽつりと呟くメリッサ。
 部屋の中は、メリッサが追い出される前から変わったようには見えない。
 十五分もかけて掃除した後には思えなかった。
「そりゃメリッサ様この部屋全然使って無いんだもん、当たり前じゃん」
 真っ当な意見。
「でもどんな部屋でも埃くらいは付くしね」
 地味に大変なんだよーと、何かを拭くような動作。
 ほうほう、と頷き感心するメリッサ。
 そんなメリッサを見て、頬を緩ませるアーゼル。
「ほら、やっぱりメリッサ様は少し気を緩めたくらいの方が美人に見えるよ」
「むぅ…だが騎士としてそういうのは…」
 美人に見えれば剣の腕が上がるとかならばともかく。
 一々化粧だの着飾ろうとかそういうのは性に合わない。
「でもその方が女の子にもモテるよ?」
 アーゼルからの思考の死角をついた言葉に、メリッサの動きが一瞬止まる。
「………?どうしたの?」
 怪訝な顔のアーゼル。
「ちょっと待て…私は別に女の子にモテたいとか思っていないから」
 確かに神官戦士には『そういう趣味』の輩も少なからずいるらしいが…。
「あ、そうなんだ」
 意外そうな顔で大袈裟に驚くアーゼル。
 実はこの少女もそっち側の趣味なんだろうか。
「ま、メリッサ様にはクロジンデ様がいるもんね、浮気しちゃ悪いか」
 あははーと笑いながらのアーゼル第二の不意打ち。
 この少女…並の腕ではない!。
「待て待て待て待て!………なんだ…その謎の関係は」
 クロジンデの事は嫌いではないが、そういった対象として見る気はまったくない。
「えー?でも噂になってるよー?メリッサ様とクロジンデ様はこの前の『漆黒の蛇』討伐の時にデキちゃったって」
 なんという濡れ衣だ。
 というか周囲からは自分とクロジンデはそんな風に見られていたのか。
 メリッサは頭を抱えて嘆息する。
 あんまりに悲痛な落ち込みっぷりに、アーゼルも地雷を踏んだ事を悟る。
「あー…マジごめん、なんか勝手にこっちでカン違いしてたみたい」
 本当に悪い事をしたようにしょんぼりとするアーゼル。
 それを見て、少しだけ気を取り直す。
 …まぁどうせ単なる噂だ、あまり気に病んでも仕方がない。
「いや…うん、もういいが…なんでそんな噂が…」
「だってねー、今までほとんど接点無かったのに、あの一件以来ずっと一緒に聖務に行ってるじゃん?あと、その後すぐにメリッサ様昇進したでしょ?アレクロジンデ様の推薦だったらしいし」
 言われてみれば確かにその通りだ。
 なるほど、知らぬ人間から見れば、その流れからこの噂を聞けば信じもするだろう。
「じゃあさ、あの噂もガゼかな?」
 興味津津で聞いてくるアーゼル。
 まだ何かあるのか…。
「はぁ…なんだ?どんな噂だ?」
「うん、この前の『漆黒の蛇』事件でクロジンデ様とメリッサ様が共謀してドゥーチェッタ卿を陥れて暗殺したってヤツ」
 瞬間、メリッサはさっと強張るのを感じた。
 その動揺が伝わっていないのか、アーゼルは気楽に続ける。
「あの後、ドゥーチェッタ卿の配下の人達クロジンデ様のトコに転属になっちゃったし、『漆黒の蛇』討伐だってクロジンデ様の手柄になったしさ…こりゃ『神殺し』が殺っちゃったかな?みたいな」
 公式的な記録では、ドゥーチェッタ卿の死因は、『漆黒の蛇』からの禁術による超遠距離砲撃になっている。
 遺体は跡形もなく吹き飛んだとされており。
 実際、あの後クロジンデが遺体を神術『焚滅』で処分している。
 あの場にいつつ生き残ったのは全員クロジンデ子飼いの者で、シャーロウによるドゥーチェッタ卿暗殺は当事者しか知らないはず。
 だから、これは先程のと同じく、ただの無責任な噂のはず。
「アーゼル…その噂は」
 と、気がつくとアーゼルの姿が見えない。
「…なぁんてね、う・そ・さ♪」
 すぐ後ろから声。
 同時に耳を甘噛みされる。
「………ッ!!」
 突然の事に寒気を感じつつも、アーゼルとは違う、かつ聞き覚えのある声に対し身体が反応。
 勢いよく抜剣。
 そのまま横薙ぎに全力で振り抜く。
 …が、手応えは無く、見ればあるのは大きく後ろに飛び退いたアーゼル。
「…危ないなぁ、室内でそんなモノ振り回しちゃダメだよ?メリッサ様」
「うるさい黙れ!その姿と声でそういう事をするな!」
 軽口を聞くつもりはない。
 すると、『アーゼル』はニヤリと嗤い、持っていた雑巾を鋭く投げ付けてくる。
 咄嗟に剣を持っていない左手で、払い落とす。
「…や、お見事」
 なんという早業か、そこには例のごとく黒のロングコートを羽織ったシャーロウが立っていた。
「シャーロウ…」
「…フフ、久しぶりだね」
 前に会った時と変わらぬ人を食った笑み。
「何の用だ?」
「…うん、事後報告とか」
 なるほど…と、一つ気になった。
「ちょっと待て…」
「…ん、なんだい?」
「お前…いつからアーゼルと入れ替わったんだ?」
 ひょっとして自分はシャーロウの言葉に一喜一憂し、励まされ、挙句に叱責されて感銘を受けたのか。
 いや、別にシャーロウが言ったからといって言葉そのものの価値がなくなるわけではないが。
 …なくなるわけではないのだがなんとなく口惜しい。
「…心配しなくてもさっき掃除してる途中さ」
 そんな内心を察したのか、シャーロウが言う。
 相変わらずカンの鋭いヤツだ。
「………まあいい、それより弟子の件はどうなったんだ?」
 早速肝心の件を聞いてみる。
 あの件については、事件の直後にシャーロウから連絡があり、『問題なし』との事だった。
 しかし、それ以降まったく連絡がつかなくなっていたのだ。
 シャーロウの連絡先など知るはずもなく。
 あるいは、とクロジンデに聞いてみたところ、向こうも同じく。
 結果以外に興味はないと突き放されてしまった。
「…ん?リズなら大丈夫だって言わなかったっけ」
 リズ…それがあの少女の名前か。
「聞いた、だが結果だけではなく、途中も聞きたいんだ」
 あの復讐の幽鬼とでも言うべき殺気。
 今でも容易に思い出せる憎悪以外はいらぬと言わんがばかりの眼。
 あの少女をどうやって説得したというのか。
「…ま、普通にお願いしただけさ」
 それ以上は企業秘密だよ、と口に人差し指を当てて微笑む。
 そう言われてはこれ以上聞けない。
 わかった、と頷き一つ嘆息。
「…じゃ、今度はこっちの用」
 口元から指を離しつつ、笑みを深くする。
 その笑みに、なにやら嫌な予感。
 だが聞きたくはないが、聞かなければ話が進まない。
「…その用事とやらは…何だ?」
「…依頼を受けた時の三つ目の条件さ」
 ジト目で睨むメリッサを面白そうに眺めながら軽く言う。
 そういえば、あの時には三つ目は聞かぬままに別れたのであった。
 …だが、今度は何を要求する気だろうか。
「…や、別に警戒しなくていいよ?三つ目は依頼の報酬について、さ」
 なるほど、確かにそれについては言及していなかった。
 ならば今回は金を受け取りにきたのか…。
 相手はシャーロウだ、多少ふっかけられるかもしれないが、幸いここ最近の任務で手持ちにはかなりの余裕がある。
 それにあの少女、リズを助けるためにかかったものだと思えば大した事ではない。
「うむ、あまり大きな額だとすぐには用意出来んが…いくらなんだ?」
「…じゃ、ちゅー一回でいいや」
 沈黙。
 咄嗟に言葉の意味が脳内で理解出来ずに固まるメリッサ。
 徐々に顔が赤く染まっていく。
「な、な、な…」
 余程狼狽しているのか呂律がまったくまわっていない。
「…ん?聞こえなかったかな?お金とかはいらないから報酬は舌入れちゅーでいいよ?」
「なんだそれは!!!」
 現物支給というレベルじゃない。
 キスだんて…しかも同性同士で!。
 いや、別にシャーロウが男ならいいというわけではないが。
「そういうのは普通現金とかだろう!!」
「…金?金だって?」
 シャーロウは、おかしなモノを見たように失笑を漏らす。
「…メリッサァ?君は僕の仕事はたかだか金のためにやってると思ってるのかい?」
「なん…だと?」
「…冗談じゃないね、僕はね…金のために仕事を請け負った事なんて一度もないよ」
 断言。
「…僕が仕事を受けるのは、いかにその仕事が面白いか…唯一それのみだよ」
 と、そこで一端言葉を切り、肩を竦める。
「…ま、他にも報酬が目を惹いたら受ける時もあるんだけどね」
「目を…惹いたら…」
「…そ、珍しい武器だとか面白い効果の道具とか」
 そこまで言って、シャーロウはこちらに目を向ける。
 その視線は、どこかこちらを試すかのように細められていた。
「…メリッサ、君は持ってるのかな?僕が…稀少蒐集家(レアコレクター)たるこの僕が満足する程の逸品を」
 くっくっと喉を鳴らして嗤笑。
 憮然とするメリッサ。
 一介の神官戦士の自分がそんなものなど持っているはずもないではないか。
「…無いよねぇ?だから妥協案としてキス一回でいいって言ってるんじゃないか」
 あ…と、何かに気付いたように声を上げるシャーロウ。
「…ひょっとして…いや、まさかキミ…初めてだったりするのかい?」
 口に手を当てて大袈裟に驚く。
 どうせ最初から知ってるくせに白々しい。
「ああ、その通りだよ!何かソレで不都合でもあるのか!」
 顔を真っ赤にして怒鳴るメリッサ。
 なんで自分がこんな問答しているのか!。
「…いや、ね…やっぱりメリッサも初めてのキスに比べたらリズなんてどうでもいいよね…とか思ってね」
 そっぽを向きながらあくまで他人事のように呟く。
「ちょっと待て…」
 その言葉は聞き捨てならない。
 だがシャーロウは口を挟む間を与えず続ける。
「…そうだよねぇ、ファーストキスは好きな人と…ってのが基本だし…行方もわかんない異教徒の小娘なんかと交換するモノじゃないよねぇ…でもその心情はわか」
「シャーロウッッ!!!」
 怒号。
 わかってる。
 シャーロウの目論見はわかっている。
 だが自分はメリッサ・フィーネ・レンベルクだ。
 ならばここはやるべき事は決まっている。
「わかった、報酬はくれてやる…好きにしろ」
「…クク、毎度あり♪」
 ご満悦といった表情でしたり顔のシャーロウ。
 その笑顔に本気で殺意を抱き。
 思わず剣に手をやるが、すんでのところで思い止どまる。
「くそっ!やるなら早くやれ!」
 ヤケクソになって叫ぶが、シャーロウには柳になんとやらだ。
「…まぁまぁ、ほら…こういうのって雰囲気が大事じゃないかい?」
 知った事か!。
 そう叫びたかったがなんとか我慢。
「…さ、とりあえず目を閉じて…」
 もうどうにでもなれ、と半ば自暴自棄で言われるままに目を閉じる。
 すると、首筋にシャーロウの手が触れる。
「…っあ……」
 思わず声が出る。
 くすくすとシャーロウが笑う声が聞こえた。
 そのまま至近に詰め寄り、首に両手を絡める。
 シャーロウの吐息が頬にかかる。
 我知らずメリッサの鼓動が高鳴る。
 (待て…私にそんな趣味はないんだって)。
 そう思ってはいても、この感覚は…。
「…さ、力を抜いて…楽にしていいんだよ?」
 心地良いその言葉に、身を委ねたくなってしまう。
 腰の辺りに手が回る。
 なされるがままだが、不快感はない。
 むしろ更に深くまで…。
 そう思うメリッサ。
 服をはだけさせ、鎖骨をなぞられる。
 そのまま指は止まらず、メリッサの胸をまさぐる。
 と、そこで顔に何か暖かい物が当たる。
「……ひゃうっ」
 いきなりの刺激に甘い声をあげてしまう。
 どうやらペロリと瞼を舐められたらしい。
 敏感になっている己の身体に自分でも驚く。
 が、そのショックで我に返る。
 ふと目を開けると、もう我慢出来ないといった感じに笑いをこらえるシャーロウの姿があった。
 目が合った事に気付いたシャーロウは、軽くウインク。
「…クク、いや…もぉいいよ?十分堪能した」
「いや、だがまだ…」
 報酬はキスだったはず。
 まだソレはしてもらってない。
「…おやぁ?なんだい、してほしいのかな?」
 言われて一気に赤面。
 その通りだ!。
 いつの間にか、自分はキスを『されてしまう』から『してもらう』と考えていた!。
「…ま、最初からちゅーする気はなかったけどね」
「なん…だ…と…?」
 意外な言葉。
 ならば今回は報酬はいらないというのだろうか。
「…ホントはね、報酬は別なのさ」
「…一体…なんだそれは」
 その言葉に、心底楽しそうに嗤うシャーロウ。
「…今回の報酬はね、『鋼の聖女』の苦悩する顔、躊躇、逡巡…そんな表情こそが僕の報酬さ」
 でもキミも楽しめたろ?と微笑むシャーロウ。
 悪びれる様子もないその姿に、メリッサは怒りすら通り越し。
 むしろクールダウンしてしまった。
「…まったく…貴様というヤツは…本当にまったく…」
 溜め息。
 対するシャーロウは愉快そうにメリッサの肩を叩く。
「…いいじゃないか、大事なファーストキスをムダに散らさずに済んだんだから」
「当たり前だ、私の唇はそんなに安くはないぞ」
 断言。
 その言葉はシャーロウにとって予想外だったのか、僅かに眉を顰める。
「…キミは数多の千金万品より自分の唇の方が価値がある…と?」
「無論だ、乙女の…そう、『鋼の聖女』の唇はそこいらの財宝とは格が違うんだからな」
 胸を張って答える。
 シャーロウはといえば、私がこんな事を言うと思わなかったのか。
 目を丸くして驚いている。
 ざまぁみろ、さっきまでの意趣返しだ。
「…クク、言うねぇ」
「フン、お前やクロジンデみたいな連中と付き合っていれば、このくらいは言うようになる」
「…違いない」
 余程傑作だったのか、含み笑いを漏らしている。
「…これでお前の用事も終わりか?」
「…ん?ああ、そうだね」
 そうか、と頷くメリッサ。
「…用が済んだら早く帰れって?」
「失礼な、誰がそんな恩知らずな事言うか…他に用がなければこれからどこかで食事でもどうだ?」
 改めて依頼の礼をしたい。
「…おや、鋼の聖女にナンパをされてしまった」
「誰がするか!」
 まぜっかえすシャーロウに、思わず怒鳴る。
「…や、ご相伴に預かりたいけど…残念だね」
「何か…あるのか?」
「…うん、別件がね」
 ならば無理には言えない。
 名残惜しい気もするが仕方がない。
 最後に、きちんと礼をしようと思った矢先。
「…隙あり♪」
 シャーロウ不意打ちのキス。
 その一撃は、狙い違わずメリッサの頬に直撃。
「っ!!」
 顔全体を朱に染めつつ、手は迷わず剣の柄に走った。
 一閃!。
 だが、即座に後方に下がったシャーロウには掠りもしなかった。
 かわりにすぐ後ろにあったテーブルを豪快に両断する。
「…いけないねぇ、神官戦士ともあろう者が油断してちゃ」
「ぅうすらやかましい!」
 怒りに任せて怒鳴り散らす。
 人がしんみりしていたらこの女は!。
 ここで一発くらいは殴っておかないと気が済まない。
 だが、その気配を察したのか。
 シャーロウは更に大きくバックステップ。
 窓の縁に器用に飛び乗る。
「…あ、言い忘れてたけど、アーゼルはクローゼットの中で寝てるから風邪ひかない内に起こしたほうがいいよ?」
 機先を制する絶妙の間の一言。
 今まさに追撃の一歩を踏み出そうとしていたメリッサは、思わずたたらを踏む。
 そして一瞬だけクローゼットへと意識を向けてしまう。
 すぐにシャーロウに向き直るのだが、メリッサが見たのは窓から飛び下りるシャーロウの姿だった。
「シャーロウッ!!」
 慌てて後を追い、窓辺に駆け寄り下をみるが、シャーロウの姿はなかった。
 舌打ち一つして窓枠に腰掛ける。
 大きく深呼吸。
「………ふぅ」
 体内から怒気を吐き出す。
「まだ、謝礼の言葉も言ってなかったんだぞ」
 誰にともなく呟く。

 と、ドアが激しく打ち鳴らされる。
「…ん?開いているが」
 なんとなしに答えると同時に、ドアがブチ破らんがばかりの勢いで開かれた。
「メリッサ様!!」
 そこには珍しく声を荒げるレムと、泰然と佇むクロジンデの姿があった。
「…レメディウス?」
 温厚で人当たりのいいレメディウスとは思えぬ剣幕に、思わず引くメリッサ。
 それを察したレムは、こほん…と咳払いをして、居住まいを正す。
「いえ、この近辺でですね………不審者…そう、不審者を発見したという報を受けまして」
 眼鏡をクイッと押し上げながら努めてクールに振る舞う。
 そんなレムを尻目にクロジンデが前に出る。
「別に取り繕う必要もない、ここにシャーロウが来ていたな?」
 う、と身動ぎしてしまう。
 しまった、これでは肯定したも同然ではないか。
「いや、そう身構えるな」
 クロジンデが右手を上げ、こちらの動きを制する。
 その口許には苦笑。
「捕縛だの誅殺だのと言う気はないよ、ただ話くらいはしようと思ってな」
 それを聞き、メリッサは安堵。
「…びっくりさせるな…レメディウスが物凄い剣幕だったから何事かと思ったじゃないか」
 その指摘に、バツの悪い顔のレム。
「気にするな、例の落書きのせいでシャーロウには過剰に反応するようになってな」
 クロジンデの言葉に、ああ…と納得するメリッサ。
「べ…別に過剰反応などは!」
 レムが弁明するが、二人とも軽く流す。
 あの事件の際に、レムの救助に来たメリッサとクロジンデ。
 そこで二人が見たのは、適切な応急の治療をされ『おっぱい魔人』という札を付け、木に吊されたレムの姿だった。
 レムにしてみれば、凄腕とはいえ正面からぶつかって騎士が暗殺者に惨敗…あまつさえ情けをかけられるとは。
 落書きは…気にしない事にする、そう…決して気にしてなどいない。
 自分がこんな過敏に反応するのは決して私怨ではないのだ。
「そうか…だが、そうなると無駄足だったな…シャーロウは今し方出ていったところだ」
「フン、見たままだな…構わんが」
 クロジンデは落胆する様子もない。
 本当にただ来てみただけのようだ。
「そういうわけだ…残念だったな、レム」
「いえ、ですからクロジンデ様!私は特段残念というわけでは…」
 肩を叩かれ、慰められる。
 反論したかったが、さっきの自分を顧みてみると、それも出来ず。
 そんな感じでなんとも言えない顔で沈黙している。
 そんな二人のやりとりを見て、クスリと笑うメリッサ。
「メリッサ様…別に私は笑いを取るためにやっているわけではないのですが…」苦虫をまとめて半ダースは噛み潰したような渋い顔で呻く。
「ま、今回はメリッサのレアなモノを見れたからな、それでよしとしようじゃないか」
 言われてメリッサが不思議そうな顔をする。
 クロジンデ達が来てからは大して変な顔をした覚えはないが…。
 そう思っていると、クロジンデが部屋の鏡を指差す。
「んなっ!」
 鏡を覗き込み、絶句。
 頬にこれでもかとばかりにくっきりとキスマークがあるではないか。
 しかも擦ってみても取れるどころか滲みすらしない。
 先程のシャーロウの仕業か…なんという早業!。
「シャーロウぅ〜ッ!」
 唸るメリッサを見て、耐えかねたクロジンデが思わず吹き出す。
 そりゃそうだろう、キスマーク付けたまま凄んでもネタにこそなれ、怖くなどない。
 遠慮なく腹を押さえてバカ笑いするクロジンデ。
 それを見てメリッサは頭をかきながら嘆息。
「まったく…馬鹿げた話だ…」
「…同感です」
 目端に涙まで流して豪快に笑うクロジンデ。
 そんなクロジンデを見てメリッサとレムの二人は苦笑を浮かべるしかなかった。


 …そんな三人(というかメリッサ)がアーゼルの事を思い出すのは一時間後。
 アーゼルがクローゼットの中から戸をマジ蹴りする音を聞くまでであった。


黒い請負人と魔女狩りの森〜了〜