1.

 いつもの事だ。
 奴等はいつも、この龍神の迷宮に潜み、待ち構えている。
 深海に潜むある種の硬骨魚が、発光液を噴出し獲物をおびき寄せて捕食するように。
 餌≠ノつられて迷宮を訪れる冒険者達を狙い続けている。
 ハイウェイマンズギルド。
 悪逆無道の犯罪者やゴロツキどもが集って成す無法者集団。
 純度100%の屑集団と言っても良いだろう。
 ・・・そしてまた、いつもの様に奴等はこちらが魔物との戦闘で疲弊したタイミングを計り、群れを成して襲い掛かって来た。
 この蟻の巣のような迷宮には大小様々な通路が入り組んでいて、例えば今彼女達≠ェいる通路は高さ幅と共に3〜4メートル程度。
 そこに雪崩れ込むようにならず者が60人から70人、いやそれ以上か。
 女冒険者4人程度の一行を襲うには少々大袈裟な数だとは思うが・・・何度も言うように、全ていつもの事≠セ。
 そして全てがいつもと同じだとすれば、彼等はこのたった4人の女冒険者達を捕らえきれずに、あげく圧倒されて、あえなく遁走するハメになる。
 大半は、そう。エルザ=クラウン。それにチャイカ=ゴンチャロフ。
 この混血のエルフと巨体を誇る女傭兵によって。
 一同の盾となるべく前に進み出た2人は、明確な悪意を孕んだ人間濁流に真っ向から衝突し、飲み込まれ・・・
「ぉおっしゃぁぁぁッッッ!!!」
 蹴散らした。
 『この人数ならば』とでも踏んでいたのか、どこか余裕さえ見せて押し寄せるハイウェイマンズギルド連中の鼻をへし折るようにしてチャイカが振るった重槌鉾が、いとも簡単に数人のならず者をまとめて薙ぎ払う。
 鼻どころか全身の骨をグシャグシャに粉砕された肉体が木っ端の如く宙を舞う様子は、さぞやショッキングだった事だろう。
 少なくとも、それ等に続いて襲い掛かろうとしていた敵が一斉に動きをぴたりと止める程には。
 彼等は何を思ったろう。
 恐怖か、後悔か、それともそれ以外の何かか。
 恐らくは、何も考える暇は無かった。
 何故なら発生した僅かな間をついて彼女が動き出していたから。
 彼女の名はエルザ。
 それは、闇を裂く銀色の風。戦いに咲く拳の華。
 彼女は低い姿勢で駆け、最短距離で真正面の痩せた男の膝を割って、前のめりに倒れるそいつの首の付け根を踏んで跳躍。
 後ろで間抜け面を晒して立ち止まっていた巨漢と、さらに隣の奴をまとめて蹴り飛ばす。
 ここから着地して次の相手へと跳びかかるまでが約二秒だから、その速度たるや獣の領域に達していると言っていいだろう。
 その牙にかかった者は悲鳴一つあげる事も出来ず、意識ごと激痛の海に落ちて沈む事になる。
 ・・・まあ、理解する間もなく昏倒出来ると言うのなら、そいつはまだ幸せだったのかも知れないが。
 何故ならチャイカが第二撃を振り上げて―・・・叩きつけた。
 エルザもまた駆ける。
 鋼の槌鉾と、鋼に等しき拳が、次々と振るわれる。
 ハイウェイマンズギルドの奴等にとっては、自分達が残滅の憂き目に遭う事を理解してしまうよりは、きっと何も知らずに倒れることが出来た方がよほど幸運に違いないのだ。
 この二人には、それを実際にやってのける程の実力を持っている。
 とは言え。
 この2人がいかに異常な戦闘力を持っているとは言えだ。
 この人数の全てを捌ききれるかと言えば実は違う。
 確かに己の身を守るだけであれば難しい事ではないのかも知れないが、これ程の乱戦となるとそれ以外≠ワで守ってられる程の余裕はない。
 パーティーは4人いるのだ。
「ちぃっ、行ったよ!2人とも!」
 文字通りに叩き潰してやった敵のすぐ横を、何人かのならず者が次々とすり抜けて行く様子を視界の端に捕らえたチャイカが忌々しげに叫んだ。
 その声がいつもより切羽詰って聴こえるのは、もしかしたら魔物との戦いで予想以上に手こずってしまった彼女達に対する気遣いなのかも知れない。
 ――馬鹿にするな。
 と、呼びかけられた2人とも≠フ内の一人、シャーデー=ニコラウスは思う。
 私が、ならず者共が突進して来ている事に気付いていないとでも思っているのか。
 それとも疲れきって肩で息をしているようにでも見えるのか。
 馬鹿に、するな・・・!
 私を誰だと思っているのだ!
 そうやって君達に子供扱いされてやる言われは無い!
 ギリリと歯を噛み締めながら、シャーデーは片手剣を握る手に力を込め、迫る敵手を迎え撃とうとする。・・・ところで先を越された。
「おっし!行きゃーしょう!」
「!?」
 陽気な声を上げるや、気合も満面に少女が飛び出したのだ。
 シャーデーから言わせれば、彼女もエルザやチャイカとは違う意味で異常だ。
 アルメリア。
 こちらの記憶が確かならば、あの少女は自己紹介の時に『僧侶だ』と名乗っていた筈だが・・その僧侶が数人のならず者共に自ら勇んで挑みかかっているのはどういう事だろう。
 それも素手で。
 もしや僧侶職が回復担当の後方支援者という認識は既に過去のもので、現在は格闘戦もこなしてのける僧侶も珍しくはないのか。
 仮にそうだとして、その表情がイヤに活力に溢れているように見えるのは気のせいだろうか。
 エルザ程の速度や洗練された技をを持っているわけでも、チャイカ程の膂力があるわけでもないが、十分な勢いをもって敵手を次々と殴りつけ、蹴り倒している。
 シャーデーは・・・
 ようやく一人。
 チャイカの振り回す槌鉾の射程圏から何とか逃れて、しかし次の攻撃をなかなか仕掛けられずにいる者・・・要は腰の引けきっている者を見つけ出して、隙を突く形で斬りつけた。
 無論、そいつは反応出来ずまんまと刃をその身に受けて――・・・しかし、倒れない。
 血を撒いて二歩、三歩と後退しながらも崩れ落ちる気配はなく、激痛に歪みきった目で己の腹部に刻まれた傷とシャーデーとを交互に見比べる。
 まずい、浅かった。
 こちらがそう気付いた時には、男の方もまた自分が目の前の女に斬られたのだと認識したようだ。
 「ぢ・・・畜゛生゛!ごォのアマァッ!?」と、憤怒と血反吐とが混じった言葉を吐きながら腕を振り回して迫る。
 正確には腕に握り締めた鈍器を、だ。
 ブラックジャックと言うのか。
 皮袋に砂だとか鉛片だとかを詰める事で作る携帯棍棒は、本来あまり殺傷能力の高い武器ではないが、それでも当たり方次第では人の頭蓋骨くらい簡単に破砕してしまうだろう。
 ・・・などと冷静な分析をしたわけではない。
 そんな余裕などあるわけがなく、シャーデーがその打撃を避ける事が出来たのは、単に相手に気圧されて身を引いたからだ。
「――ぅあぁっ!!」
 引きながら剣を振った。相手を近寄らせまいと我武者羅に出鱈目に振り回した。
 偶然、その中の一太刀がブラックジャックを握る右腕に命中し、次か、あるいはその次の一太刀が相手の右脇腹から左肩にかけて斬り上げただけに過ぎないが。
 過程はどうあれ結果として敵は短く呻いて、今度こそ倒れた。
 ――・・・倒した?
 倒したのか。倒れてる。動かない。一人倒した。ようやく一人。
 たった一人を倒す間で、既に息が切れている自分がいる。
「・・・・・・糞っ!」
 私は、なんて格好悪いのだろう。
 左手で汗を拭って見渡すと、戦いはほとんど決着を見ていた。
 エルザとチャイカがまだ何人かずつを相手どっているだけで、ほとんどの敵は戦意を喪失して逃げ出し始めている。
 アルメリアとシャーデーを素通りして逃げる者もいる。
 ああ、やっぱりいつもと同じ≠セ。
 私の働きがどうであろうと、結果はいつもと変わらない。
 才ある勇士達によって、ハイウェイマンズギルドの外道共の目論見はその持ち主ごと砕かれ、奴等は散り散りに・・・
「・・・・・・?」
 潰走するならず者達の背中をぼんやりと見送っていたシャーデーの眉が、ふと顰められた。
 いつもと違う展開を見たからだ。
 闇深き通路の向こう側、現れた者がいる。
 周囲の騒ぎなど目に入っていないのか、流れに逆らってゆったりと歩み寄る者が。
 逃げるのに必死のギルド構成員の何人かが、その存在に気付くなり
「ア、アンタ!?」
 と震える声を発して立ち止まり、道を譲って、そいつが通り過ぎたところでまた全速力で走り出した。
 どうもギルドの一員である事は間違いが無さそうだが。
(それにしても・・・)
 そいつはあまりにも異様だった。
 脂ぎった黒髪と、泥沼色の顔と肌。
 その中にあって唯一、湖に映った月の如くゆらゆらと瞬いている双眸。
 黒衣に包まれた細い体躯は、だらりと脱力しきっており、どこか幽鬼じみて見える。
 極めつけは、やはり左右の長い腕の中でそれぞれ耳障りな音をたてている二本の武器だろう。
 柄から刀身に至るまで骨の色と質感で統一されているので、一目見た限りでは腕から生えているようにも見えるが、アレはナイフだ。
 刃渡り40cmはあるか。重量感こそはないものの、触れただけで肉など裂けてしまいそうだ。
 アレは、あの男は果たして本当に人間なのか――・・・・・・
 ・・・いや、待て。
 知っている。
 私は奴を知っている。
 と、言っても聴いて知っているだけで、間違っても知り合いなどではないが。
 それでも、聴いただけに過ぎないその情報が直ぐに実物と一致する程に、そいつは不気味なのだ。
「なんだってあんな奴が・・・!」
 後ろから息を呑む声が聴こえた。
 チャイカだ。
 その声の響きから察するに、どうやら彼女も奴を知っているとみえる。
 まあ、当然か。そういう相手だ。
 ――『腑分け屋ヴィロール』――
 何年か前にクルルミク城下街を騒がせた『最悪の犯罪者』。
 シャーデー的にはその評価に加えて、最低で変質的で外道で下賤な・・・と加えたいところだが、とにかく、奴は殺した。
 それも女性ばかり38人。
 夜道を一人で歩く女性を見つけては、恋人を抱き寄せるように優しく、しかし処刑執行人のように抗いがたい力で夜闇の中へと引きずり込み―・・・犯す。
 その手に持ったナイフで、皮膚と骨と臓器とを丁寧に切りわけながら。
 生きながらに解体され、激痛に苦しみもがき、やがて力を失う相手の姿を見て達すると言う、聴いただけで怖気を誘うような悪党だ。
 当時はこの異常性犯罪者を討つ為に、多くの自警組織や賞金稼ぎがやっきになって動いたものだが、「我こそは」と意気込む名うての戦士達の大半は無駄足を踏み続け、正体に近づいた少数の者も返り討ちに遭って逆に相手の脅威を深めてしまうのだから笑えない。
 結局、腑分け屋の事件は事態を重く見た王家直属の騎士団が動き出し、その正体と塒とを見つけ出し追い詰めた事で(それでも、奴を捕らえたとか倒したと言う話しは聴かなかったが)一応の決着を見る事となった。
 以降今日にいたるまでその足取りを掴ませなかったので、誰もが死んだと思っていたのだろうが・・成る程。見つからない筈だ。
 まさかハイウェイマンズギルドを隠れ蓑にしていようとは。
 女冒険者を捕らえ、性奴へと調教して売りさばくのが主な生業となるハイウェイマンズギルドで、奴のような異常者がやっていけるのかどうかは甚だ疑問ではあるものの・・・まあ、そんな事はどうでもいい。
 少なくとも、今のシャーデー=ニコラウスにとっては、外道性犯罪者の処世方法など興味もない。
 ただ―・・・
 奴は、ココで討たねばならない。
 そう思った。
「シャーデー、アルメリア!エルザの所まで!退くよ!後ろはあたしが受け持―・・・シャーデー!?」
 だから、チャイカが切羽詰った様子で提案して来た時には、シャーデーは何かに突き動かされるようにして駆け出していた。
 チャイカとアルメリアの2人より、まだシャーデーの方が脚が速い。
 エルザとは大きく距離が離れている。自分を止める事は出来ない。
「シャーデーッ!!待ちな!そいつはヤバイんだ!!」
「シャーデーさんっ!!危ないっす!!」
 必死に制止する呼びかけも無視した。
 君達の言う事は分かる。
 今の我々には、得体の知れない殺人鬼を相手取る程の余裕はないと言う判断なのだろう。
 でも、コレはチャンスじゃないか。
 ヴィロールと他のギルド連中の間に、仲間意識とか連帯感があるようにはとても見えない。と言うか、多くは既に遁走を始めている。
 そうだ。コレはチャンスだ。
 あんな外道、生かしておいて何になるというのだ。
 例えば、私達がココで奴を見逃したとしよう。
 そうすれば奴はどうする?
 きっと何も変わらない。
 かつて城下町でそうしたように、今そうしているように、また迷宮を歩く無防備な者を見つけてはそうするのだ。

 奴はココで倒さねばならない。

 そのようなチャンスが目前にあるのに、なんだってこちらから立ち去ってやる必要があるのだ。
 彼女自身気がついていない事だが、そこには確かに焦りがあった。
 エルザに対する、チャイカに対する、アルメリアに対する、自分に対する、姉に対する焦りが。
 だから、証明しなければならなかった。

 決意に背中を押させたまま、シャーデーは片手剣を思い切り突き込んだ。
 断じて場数を踏んでいるとは言えない彼女の戦闘能力は、その時々のテンションと言うか精神状態に大きく左右される。
 良い時は獅子奮迅とは言わないまでも、それなりの動きを見せてくれるのだが、悪い時は正直足手まとい以外の何物でもない。
 そう言う事実を踏まえて言えば、この突きは最高の攻撃だった。

 甘かった。

 全力を乗せた刺突は、ふいに両膝の力を抜いて身を屈めたヴィロールの首元を僅かに掠めただけだ。
 喉頭部の辺りに吸い込まれた刃がその奥の骨を砕く感触さえ夢想していたシャーデーは勢い余って相手に激突した。
 肉がついてないくせに鋼みたいに硬い胸に顔面から。
「―・・・いったぁ・・・!?」
 ぶつけた鼻が熱い。
 血が出ただろうか。
 いや、それどころでは!!
 恐る恐る、しかし即座に顔を上げると―・・・そこには闇があった。
 ただでさえ龍神の迷宮の内部には闇が広がってはいるが、どういう事か、そこは一寸先も見えない程の闇だ。
 闇?
 よく見ろ。顔だ。
 近すぎて分からなかったが、異様なまでに血色が悪い顔が、僅か1センチメートルの至近距離でこちらを見下ろしているのだ。
 間近で見るそいつの顔は遠くで見るよりもよほど死人みたいで、まるで生気と言う物が感じられない。
 だから奴が口角を微妙に吊り上げて黄色い歯を覗かせた時も、嗤ったと言うよりも顔の筋肉が反応したというだけに見えた。
 間違いなく嗤ったのだろうが。
 何故?
 決まってる。奴は獲物を捕らえたのだ。
 切り刻み、犯し、殺す獲物を。
 その獲物とは、濁りきった瞳の中で、檻にでも入れられたみたいに動かずに、じっとこちらを、瞳に映った自分の顔をきょとんと見つめている
 ―・・・私だ!
「う、わっ・・・!」
 ようやく己が猟奇殺人鬼の手の届く距離でぼうっとしている事実に気付いて、シャーデーは跳ねるように距離をとろうとした。
 とろうとして、足がもつれた。
 自分でも無様だと思うが、シャーデーは自分の左足に同じく自分の右足を引っ掛けて、勝手に転倒し、おまけに腰を打ち付けてしまったのだ。
 かなり激しくぶつけてしまったらしい。けっこうな痛みではあるが、もはやそんな事など気にもならない。
 だって、ハッキリと見える。腑分け屋ヴィロールが悠然とナイフを回転させる姿が。
 調理直前の魚よろしく倒れたままのシャーデーを、足先から頭の頂辺まで、品定めするかの様に見やる視線が。
 何処にナイフを突き立てようか。"どこの肉が一番柔らかいだろうか。
 そんな事を考えているに違いない。
 冗談じゃあない!
 そんな事はせめて妄想の中だけで収めてくれ!
 シャーデーは狂気に満ちた相手の視線から、せめてあの凶器の射程距離から逃れんと地面についた手に力をこめたが、それと奴がヒュンヒュンと手の中で踊らせていた刃物が逆手持ちの形で手に収まるのは、ほぼ同時だった。
 さらに、腰を持ち上げるのとナイフを持った腕が振り上げられるのとでは、完全に相手の方が速い。
 こちらが駆け出すまでの速度と、あの光沢の無い刃が突き刺さるまでの速度となれば、もう絶望的だろう。
 絶望的。
 絶望。
 もう駄目だ。
 もはや逃れることも、防ぐことも、剣を振るって反撃する事も間に合わない。
 シャーデーに出来ることはもはや、瞼を下ろしてその瞬間≠ゥら目を逸らす事だけだった。
 情けない。
 そう言って笑われるかも知れない。
 少なくとも『死ぬ時は、最期の最期まで戦い抜いて、敵の目に己の末期の姿を刻み付けてから死ね』と繰り返し教えている父はきっと、『情けない。シャーデーよ。お前はなんと情け無い事か。』と呆れ果てたたようにそう告げるだろう。
 でも。だって仕方が無いじゃないか。
 私にはそれくらいしか出来ないのだ。
 私にはそれくらいしか出来ないが―・・・彼女には別だった。
 私が目を逸らすよりも速く、骨色の刃が落ちるよりも速く、間に割り込んで来た彼女には。
「・・・・・・ッ!」
「エルザ、くん・・・!」
 エルザ=クラウン。
 瞬拳のエルザ。
 その瞬間に最高12発放つ事が出来ると言う拳が、今にも振り下ろされんとしていたヴィロールの右手首と左の二の腕とにそれぞれ叩き込まれている。
「・・・なっていないわね、Mr。女性が目の前で転んだのなら、優しく手を差し伸べるものよ。刃物なんてもっての他だわ。」
 その声は、意外なほどに静かだ。
 普段仲間内で会話するのとなんら変わらない。
 背中を眺める形になるシャーデーの位置からは見えないが、多分表情も冷静そのものだろう。
 その一方で、空気。
 彼女が放出する空気だけが地獄に満ちる大気のように滾っていた。
 怒りとか、嫌悪とか、憎悪とか。
 そんなドロドロと熱い負の感情が、冷徹なる彼女の精神の中で研ぎ澄まされ、刃にも似て鋭い殺意となる。
 胆の据わっていない敵が相手であれば、目前に立っただけで心臓を止められるかも知れない。
 しかし、その殺意に真っ向から、それも至近距離で晒される事になったヴィロールは―・・・
「―・・・ひゃはっ」
 短く嗤った。
 同瞬。
 エルザの拳が掻き消え

 渇いた音が響いて

 ヴィロールが後ろに大きく跳躍した。

 え?なに?
 シャーデーはきょとんと目をしばたいた。
 ヴィロールが間合いをとったのは分かる。
 あの距離に潜りこまれては、エルザに対して不利だからだろう。
 だが、その鼻が曲がって、溢れた血が顔に広がっているのは何故だ。
 エルザの拳に血が付着しているのは―・・・
「シャーデー!」
「!」
 突然、近くで声が聴こえたと思えば、その場にへたり込んでいたシャーデーの身体が宙に浮いた。
 持ち上げられたのか。
 あまりに軽々としたものだったので、ならず者に隙を突かれたと勘違いするところだったが、この力強さには覚えがある。
 チャイカだ。
「なに考えてんだい!?アンタ、死ぬトコだったんだよ!?」
「ケガしてますか!?回復必要すか!?」
「う、五月蝿い!後にしてくれ!」
 チャイカが耳元で怒鳴り、アルメリアが(何故か)活き活きと問いかけて来たが、今はそれに一々返事を返してはいられない。
 そんな事よりも今は―・・・
 シャーデーがマリンブルーの視線を戻すその一瞬にも、事態は急変していた。
 最前まで、確かにそこにあった筈のエルフの背中が。同じく目前に存在した殺人鬼の姿が。
 もう10メートルも遠くにある。
 きっかり3股分の距離を置いて対峙する2人は何事も無かったかのように落ち着き払っているものの、そうでない事は、切り裂かれたエルザの袖口や、数本の赤いラインが刻まれている褐色の肌からも明らかだ。
 相手はと言えばもっと酷い。
 一体何発決まったのか、顔の左半分がグズグズに変色している。
 左脚を引きずっているのはそこにも一撃喰らっているからだろう。
 負傷の具合からすればエルザに利があるようだが―・・・状況はそこまでシンプルでもないようだ。
 その証拠にエルザの長い脚が、次の一歩を踏み出しきれずに、じり、じりとにじらせるに留まっている。
 対するヴィロールの方は、順手に持ち直した両手のナイフを広げ、どっしりと腰を落とした蜘蛛を思わせる構えをとって、完全に待ちの姿勢。
 お互いがお互い必殺の間合いとタイミングを探りあう。
 二人の間のに立ち込める殺意が静かに膨張して行く―・・・
 ・・・と、ヴィロールが奇妙な動きを見せた。
 なんと突然に両のナイフを放り捨てたのだ。
 38人の罪もない女性達を無残な方法で殺害し、それ以降も間違いなく多くの犠牲者を生んできたであろう唯一無二(二本だが)の武器をだ。
「な・・・なんだ!?」
 当然のように、こちらの動揺などヴィロールには関係なしだ。
 そのまま空いた手で顔面を覆い、身体を反り返らせて小刻みに震わせ始める。
 何かの祈祷か、あるいは演舞か?
 異常性犯罪者はやはり異常という事で、殺す前に特別な儀式でも行わねば気が済まないのだろうか?
 奴の考えなど理解したいと思わないが、ココまで理解の及ばぬ行動をとられると流石に背筋に冷たいものが走る。
 我知らずシャーデーは、自分を抱えあげるチャイカの腕を握り返していた。
 ―・・・エルザはどうだ?
 瞬拳エルザ=クラウンは、この異様な動きにどう対応する?
 緊張に満ちた面持ちでエルザを見ると・・・
「・・・へ?」
 エルザ=クラウンは敵手の奇行など見てもいなかった。
 まるで、そんな者などないもののように振り返ると、あろうことかこちらに向けて歩み寄って来ているではないか。
 ついでにチャイカまで「見事なものだね。」などと意味不明な事を口走る。
「何を」
 言ってるんだ?
 そう言いかけた時、それは起こった。
 唐突に顔面からおびただしい血液を噴出させたヴィロールの長身が、一際大きく震え、崩れ折れたのだ。
「な・・・っ!?」
 まさか。
 決まったのか。
 奇妙な演舞にも、儀式にも見えたあの動きは、単に苦痛に打ち震えていただけだと言うのか。
 でも一体いつ。
 全く見えなかった。
 しっかりと見ていたのに。
 呆然としていると、近くまで歩み寄って来たエルザと目が合った。
「大丈夫だった?シャーデー。」
「・・・・・・・・・。」
 返事が出来なかった。
 勝ったのに。
 救われたのに。
 無意識にシャーデーは顔を隠していた。
 それから、ようやくその理由に気付いたのだ。

 ああ、私は嫉妬しているのだ。彼女に。彼女達の才能に。

 と。