「……違うな。」
 呟きながら、俺はまたビリビリと日記帳の1ページを破り捨てた。床には書き損じた残骸が他にもいくつか転がっている。
 情報メモを兼ねて日記でも書いてみようと思ったのが一週間前。とはいえ、普段からあまり活字に縁のない俺に、安定した文章が書けるはずもなかった。
 もちろん、誰に見せるものでもないのだから好きに書けばいいのだろうが、どうも上手い文章を書こうとしてしまう。
「ん〜……、書き出しがなぁ、筆が乗れば結構……。」
 とは言え、昨日のような筆の乗り方をしてもしょうがないのだが。
「今日は軽く、と思ったんだがなかなか……。」
 机に向かったまま、窓から見える日の暮れかけた空を見つめて呟く俺の背後で、立て付けの悪い扉を開く嫌な音が響いた。
「アベルー、いる?」
「姐さん……、普通は開ける前に確認しません?」
 俺は振り向くより早く言葉を返した。
 無遠慮に入ってきた姐さんはコツコツと床を鳴らし、座ったままの俺に迫ってくる。そして……。
 ペシ。と。俺の頭をはたいた。
「アンタいい加減にしなさいよね……。」
「いや、ですから、もう直らないんですって……。」
 嘘である。
 いかに5年間そう呼んでいたと言えど、呼び方ひとつぐらい直そうとすれば直せる。
 もちろん、不意に出てしまうこともあるだろうが、それでも全く直る気配がない、などと言うことはない。
 となればなぜ直らないのか。簡単だ、俺に直す気などないからだ。むしろこう言われる度に意識して「姐さん」と呼ぶようにさえしている。
 別に嫌がらせと言うわけではない。ただ、俺にはこの人を名前で呼ぶ資格などないというだけのことだ。
「少しは直そうと努力しなさいよね……、まったく。」
 だが、最近の俺は少しおかしい。
 対等な立場になどなれない、望むことさえ許されない。ましてや想う事などもってのほかだ。
 それは理解していたはずなのに、俺にも人並みに欲が出てきたのだろうか。姐さんに「直せ」と言われると、名前で呼んでしまっていいのではないかという錯覚を覚える。
 先日、姐さんと再会した日の事も思い出したくもない。俺はこの人の道具であり続けなければならないのに……、なぜあんな事を言ってしまったのだろう。
「ところで、何か面白い話はあった?」
 そんな中、姐さんに情報収集をしろと言われたのは幸いだった。
 ここに来るまでの独り旅は焦りしかなかった。今も、姐さんは迷宮で危険な目に遭っているのではないかという焦燥はあるが、あの時程ではない。
 その上でゆっくりと1人になれたことで少し冷静さを取り戻せた。
「……アベル、聞いてる?」
「え、あ、すいません、聞いてませんでした。なんでしょう?」
 思案が過ぎた。姐さんの言葉を聞き逃すとはなんという失態か。
「だからさ、あたしが迷宮に潜ってる間に、何か面白い情報でもあった?」
「そうですね……、グラッセンとの戦の戦況に、迷宮で行方不明になった女性冒険者の末路の一部、こんな話ばかりですね。」
 とにかく、気を引き締めよう、変な希望など持ってはいけない。
「ん〜……、何かこうヒントにでもなるようなネタでもないかと思ったけど、そりゃ無理な話よね。元々儀式用の迷宮だから内部構造もあんまり知られてないだろうし。」
「そうですね。今回の騒動で多少は外部に情報が漏れたようですが、浅い階層の話ばかりですし……。」
 女性冒険者の末路などは裏に回ればいくらでも聞ける。細かく調べればそれこそ誰がいくらでどこに売られたのか調べることも不可能ではないかもしれない。
 だが、迷宮の構造となれば話は変わってくる。
 そもそもこのテの話を回しているのはハイウェイマンズギルドの連中だ。となれば自分たちのアドバンテージである迷宮の情報など回すはずがない。
 実際、迷宮の構造などに関するの話を聞けたのはワイズマン討伐に参加している冒険者の一部からだった。
「でもちょっと意外ね〜。」
「何がです?」
「アベルが情報収集なんて地道な仕事出来るなんて……。」
「そりゃちょっと馬鹿にしすぎじゃないすか……?まぁ、でも住民の皆さんが親切でしたから、そのおかげですけどね。」
 これまた嘘である。
 長く続いた騒動の為か、この街では冒険者そのものが嫌われる傾向にある。
 ましてや女性に限定された依頼である龍神の迷宮の情報を男が嗅ぎ回っているのだ。ただ聞いて回るだけではロクに話を聞くことさえままならない。
 その為、この程度の情報を得るためにも色々「手を回した」のだが、そんな事は姐さんの耳に入れる必要はない。
 姐さんは「社会の裏」の使い方など知らなくていい。こういうテを使うのは俺の役目だ。
 姐さんは綺麗なままでいればいい。汚れるのは俺だけでいい。姐さんの為と思えば望むところだ。
「まぁ、話は下で聞くとして、さっきから気になってたんだけど、これなに?」
 またも思案が過ぎた。いや、油断したと言うべきか。
 姐さんの手は机の上に置いたままだった俺の日記もどきを素早く掻っ攫って行った。
「あ、それは……。」
 正直、アレを見られるのは非常にまずい。最初の数ページで呆れてくれることを祈る。
「……日記?」
 表紙を見て気付いたのか、姐さんが小さく、確認するように呟いた。
「アンタこんなの書いてたんだ。気付かなかったわ〜……。」
「いや、ここに来てからですよ。メモついでにちょこっと。」
「ふぅん……、ちょっと見ていい?」
 ニコリ、いや、ニヤリと言うほうが正しいか。そんな笑みを浮かべて問いかけてくる。
 見られるのは甚だまずい。しかしメモついでと言ってしまった以上見られてまずいとも言いづらい……。
「チラっとだけですよ?あと最初のページは勘弁して下さい。」
 妥協した。後半もまずいが最初もまずい。途中の適当に書いた部分で止めてくれれば……。
「じゃ、ちょこっと拝見……。」
 ……目の前で日記を読まれる羽目になるとは思わなかった。
「……なにこれ。」
 3ページほどめくった所で姐さんが日記から目を離した。今は半眼で俺を見ている。
「日記兼メモ、です。」
「まぁ、日記なんて他人に読ませるものじゃないしね……。」
 言いながら片手で日記を閉じ、俺に押し付けてきた。呆れる気持ちはよくわかる。
 ……とにかく作戦は成功。これでもう俺の日記に興味を示すこともないだろう。
「さて、じゃあ下行って話そ。喉渇いちゃったし。」
 この宿の1階は酒場になっている。まだ完全に日が落ちたわけではないが、気の早い客の喧騒が小さく聞こえてくる。
「はい、先に行っててください。これ片付けますから。」
「そ、じゃあ早く来なさいよね。」
 立て付けの悪いドアの嫌な開閉音を響かせ、姐さんは部屋を出て行った。
「さて。」
 日記を手に取り横目で見つめる。どうしたものか。
 実は裏からの情報は報告書としてまとめられている為、情報メモとしてもこれは役に立っていない。
 日記として書き続ける自信はないし、その必要もない。いっそ処分してしまうのもいいかもしれない。
「でも勿体無いよな……、最初の方のページだけ切り取って残りはメモ帳にでもするかな?」
 ま、後で決めればいいことだ。
 俺は日記を適当に放り、下で待っている姐さんの元へ向かった。


 俺は何をしているのか?壁をよじ登っている。
 登るのは、そこに壁があるからか?そんなはずがない。
 ではなぜ登っているのか?目標が宿屋の客室なので正面からは入れないからだ。
 相手はあの男だ、部下に任せるとどんなミスをしでかすかわからない。
 だからこそ、このオニヘイ様が自分で出向いているのだが……。
 正直、壁をよじ登って窓から侵入するなんて手を実行したのは失敗だった。
 ああ辛い、落ちても、まぁ死にはしないだろうがかなり痛いだろう。痛いのは嫌だ。
 などと考えているうちに、手が窓枠にたどり着いた。腕の力が無くなってきたので、とっとと入りたいのだがそうも行かない。
 こっそりと目だけを出し、部屋の中の様子を探る。
 ……どうやら誰も居ないようだ。居ないことにしておこう、ああ落ちそうだ。
「ぬ……、ぐ。」
 小さくうめき、部屋の中に侵入した。
 ああしんどい。よく考えたら屋根の上からロープでも垂らして降りた方が楽だったじゃないか。
 まぁ、済んだことは仕方がない、それより今やるべきことをやらなければ。
 あの男……、アベルとか言ったか。色々調べたところ、裏の世界でも多少顔は利くらしい。
 とりあえずかなり腕が立ち、セルビナの為なら大抵のことは考えうる全ての手段を使ってこなすらしい。
 となればコトネちゃんとセルビナが行動を共にしている以上、今後邪魔になる可能性が高い。
 今のうちに何か弱みでも見つけなければ、と行動に移したのだが……。
「流石に私物は少ないな……。剣持ってっても仕方ないし、つかでかすぎて無理だし。」
 などと余裕で独り言など呟きつつ部屋を探っていると、ベッドの上に本を見つけた。
「ダイアリー……、日記帳か。」
 これは使えるかもしれない。ちょっと悪い気もするが、他には何もなさそうなので中を見てみる。
 とりあえず適当に開いてみる。が、何も書かれていない。
 後ろからペラペラと手前にページをめくり、ようやく何か書いてあるページを見つけたが、随分最初の方だった。


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  3月21日
   今日はついに姐さんと再会できた。
   拒絶されるかとも思ったが、どうやらまた一緒に居ることが出来そうだ。
   調子に乗って「好きだ」とまで言ってしまったのは余計だったのだが、
    これについての反応もそう悪くなかったように思う。
   とにかく、これからも俺はあの人の為に在ろうと、改めて決意した。

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 これは、俺が蹴り飛ばされたあの日か。思い出したらちょっと痛みがぶり返したような……。
 しかしまぁ、これを読んだのがバレたら殺されるな、俺。
 とりあえずこれを見るに、まだお付き合い一歩手前と言う所か。早く処女頂いてやれよ。
 うは、余計なお世話か。さて、次のページ。


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  3月22日
   特にいい話は聞けなかった。
   夕飯は久しぶりに屋根の下で食えた。

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  3月23日
   今日も特にいい話は聞けなかった。
   朝、馬糞を踏みそうになった。

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  3月24日
   今日も特にいい話は聞けなかった。
   昼、鳥の糞が直撃しそうになった、ついてない。
   (「ツキがない」と「糞が付いてない」を掛けてみた。)
   ああ虚しい。

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「…………。」
 虚しいのはこっちだ……。
 子供かこいつは。まともに書いたの最初だけじゃねーか。
「財布を取りに戻ってきてみれば……。」
 何か聞こえたが外からの声だろう、気にせずページをめくろうとする。
「……何をしてる。」
「見りゃわかるだろ。日記を読ん……、で……?」
 そこでようやく気が付き、顔を上げた俺の前にいたのは、この日記の持ち主だった。
 どうやら集中しすぎたようだ。どうしよう。
 相手は無言でこちらを見据えている。迂闊には喋れない。声を出せばそれが合図になってしまう。
 とにかく、逃げよう……。一応戦利品として日記帳は持って行きたいが、そしたら追いかけてくるだろう、どこまでも。
 相手に踏み込まれる前に、俺は窓から飛び降りた。幸か不幸かここは2階だ、着地に失敗しなければ大怪我はしないはず。
 そう決意すると、下に人がいないことを祈り、俺は日の落ちた暗がりへと身を投げ出した。
「ちっ……。」
 奴の舌打ちが聞こえた、だがもう遅い。
 見事に着地した俺は、衝撃を完全に逃がす間もなくその場から素早く離れた。


 不覚。まさか躊躇なく飛び降りる度胸があるとは思わなかった。
 少々あの男を甘く見ていたようだ。だが、ただで逃がすわけには行かない。
 奴に続き、俺も窓から飛び降りようと窓枠に手をかける。
「あべりゅ〜……、何、やってんの〜……。」
 だが、突如かけられた声に、俺の動きは止められた。
 姐さんの声だ。しかしヤケに舌が回っていない。
 奴はまだ日記を読んでいた、恐らく最後までは見られていないはず。持ち去られたわけでもない。となれば天秤にかけるまでもなく俺は姐さんを選んだ。
 振り返ると、扉に寄りかかった姐さんがいた。真っ赤な顔をしている。
 俺は急いで、崩れ落ちそうな姐さんを抱きかかえ、その手に握られていた酒盃の中身を舐めてみる。
「これは……、下の酔っ払いどもの仕業か。」
 俺がいない間にかなりキツい酒を勧められたようだ。
 姐さんはこう見えて酒には弱い。にも関わらず飲み過ぎる傾向があるので俺がいつも制限していたわけだが……。
「にゅふふふ……、このおしゃけ(お酒)、美味しいにぇ〜……。」
「はいはい、でも今日はもうお終いにしましょう。」
「やらぁ〜……、まだ、飲む、の〜……。」
 しかし体は限界なのだろう、すぐに俺の腕の中で寝息を立て始めた。
 ああ、ちょっとでいい、悪戯したい。
 もちろんそんなこと出来るはずもないので、俺は姐さんを起こさないようにベッドに寝かし、夜風の入り込んでくる窓を閉めた。
 他の3人に姐さんは今日は戻らないと説明しに行こうかと思ったが、完全に酔いつぶれた姐さんを放っては行けるはずもない。
「あの男はまだページをめくろうとしていた……、最後までは読まれていなければいいが……。」
 もちろん、少しでも読まれた事も決してよくはないのだが、昨日の分を読まれずに済んだのなら不幸中の幸いと言えよう。
 小さく呟き、ページをめくる。
 

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  3月30日
   ふと、今日は独りで情報の整理ついでに宿に篭り、色々考えてみた。
   とりあえずここにまとめておく。

   まず、姐さんの為を思うのならばあの迷宮に行く事を即刻止めさせなければならない。
   俺が傍にいられないのもそうだが、現状あまりに「保険」がなさすぎるのだ。

   セレニウスとコトネと言ったか。あの2人は自己犠牲心が強いようで、
    パーティの為に自らを差し出すことも厭わないらしい。
   それが少しは壁になっているようだが、それだけでは余りに頼りない。

   しかしだ、今の姐さんはあの3人に対して情が移りすぎている。
   俺がこの仕事を放棄しろと言ったところで聞き入れてはくれまい。
   ならば、どうするのか。

   まず思いついたのは、姐さんに気付かれないように、
    かつ街に居る間にあの3人を消してしまうという策。
   今ならまだあの3人が居なくなれば姐さんも続けるとは言わないはずだ。
   街中に限る必要はないのだが、迷宮内で実行すれば姐さんが独りになってしまう。
    そうなればギルドの餌食になる可能性が増すだけだ。
   姐さんだけを見逃すようにギルドに取引を持ちかけたところで無駄だろう。
    仮に成立したとして深い関係もない俺との約束を奴らが守るとも思えない。
 
   次に思いついたのは、あのオニヘイという男を利用すること。
   個人的には気に入らないが、好き嫌いで手段を減らす余裕はない。
   コトネにご執心なのはわかっている。そこを付けば協力させる事も可能だろう。
   ただ、あの男もギルドに影響力こそ持っていても直接指示が出せる程とは思えない。
   となれば精々出来ることは売られる前に確保するのが関の山だろう。
   堕とされた後の救出経路など後回しだ。
 
   思ったよりいい考えが浮かばない。
   この際、無理やり姐さんを連れ出すべきかもしれない。
   それが一番安全で一番確実だ。ただ俺が少し嫌われるだけで済む。
   だが出来ればこの手は使いたくない。タイミングが悪すぎる。

   とにかく、もう少し考えてみよう。

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 流し読みをしてから日記を閉じた。いや、ここはもう日記と呼べる物ではないのだが。
「さて。」
 本来ならこれから日記をつけるところだが、もういいだろう。
 それよりもやることがある。頭を使わなくていいケンカなど久しぶりだ。
 寝る前に、軽く運動を。俺は下の酒場へ酔っ払い退治に向かった。