柔らかい――まるで雲に包まれているような感触の中で。
 重く閉じていた瞼を、自分の意志でゆっくりと開けた。
 滲むような視野を、じっと見渡す――。
 久しく離れ……記憶も曖昧な装飾に施された、私の私室だった。
 ゆっくりと体を起こして。 
 悪夢からの解脱を実感するように自分の体を抱きしめて……確かめる。

 いいえ、違う。

 傍らの鏡を退きこんだ。
 やつれた別人のような、自分の顔。
 いつのまにか肩まで切りそろえられている髪。

 紛れもなく。
 私はあの場所にいた。
 体に為された、恐ろしい『凌辱』の現実が蘇り。
 魔法で癒されたのか、痣ひとつ無い両手――そこに写る、汚液で穢された光景が蘇る。
 何よりも。
 この手に犯した『咎』の重さ――。
 違え様も無い、罪悪の烙印が押された精神(こころ)。

 弟のハウリによって、"王家の聖櫃"で告げ語られた真実は。

 何もかもをあざ笑うように――私に諭していました。
 葛藤や、苦渋で選んだ選択の……顛末。
 命を賭して、ワイズマンが巣食った迷宮に挑んだ私を――それを信じ、着いてきてくれた精鋭の衛士たちの犠牲も。
 理想と掲げて策を労して整えたはずの状況も。
 王位継承を行わせないように手を回した、様々な愚策をも。
 そして。
 私と同じに……あの迷宮で犠牲となった冒険者たちの徒労の。

 全てを。

「姉上。よかった――やっと目を覚ましてくれたんだ」
 まるで察していたように。
 何でもなく部屋を訪れた、あの頃と変わらぬ温和な言葉遣いのハウリに。
 私は今、畏怖すら感じずにはいられない。
「もう、大丈夫だよ。あれから全てが終わって――王国は平穏そのものに戻ったし。何事も無く僕は国主になった――姉上をこの部屋から連れ出すことは出来ないけれど、何不自由なく過ごせるからね……可愛そうなセニティを、これからは僕が護ってあげるよ」


 〜 Not "Hope" but "Expectation". ("希望"ではなくて"希望"。)〜 


 体を動かせるようになって程なく。
 セニティは、城を抜け出した。
 陽が落ち――訪れる深遠の夜を、少しでも奏でようと彩の灯火が光る『クルルミクの城下街』へと。
 理解(わか)っていたはずだった。
 無断で抜け出したことを知られれば、国主となったハウリは――もう、自分を許さない。
 連れ戻されるのは、幸運で。
 人知れず忙殺されるのが――既に妥当であることを。
 それを知っていても。
 彼女は城を棄てた――囲われたままの、世界で安全な一生を過ごすことは――もう、自身が許さない。
 死に場所は、選べる自分でありたい。

 用意されるのではなくて。

 彼女が向かっていたのは、あの"迷宮"だった。
 最下層の……あの場所だけが、虚ろとなった自分を迎えてくれる、最後の『居場所』に相応しいように思え。
 しかし、ハウリ王子が戴冠した後の"龍神の迷宮"には。
 同じ轍を踏まないとばかりに、騎士たちの警備がおり。
 既に「Dコイン」を失い、魔法の実力を失ったセニティでは。
 城を抜け出す程度は出来ても、警備を出し抜き、迷宮の試練を越えるなど、出来ないことを知らされるだけだった。
 望みを失った浮浪者のように。
 セニティは行くあてが無いまま足を引きずって――王都を、彷徨い歩いていた。


******************************


「もうッ! お・じ・さ・ん!! おばさんに『お酒は二杯まで』って止められているでしょう!?」
「おいおい――そんな硬いこと言いっこなしだぜ」
「ダ・メ・で・す! あたしだって、そこは『信用問題』なんですから」

 路地の一角。
 歩いていた直ぐ近くの店の前。
 酔った男と若い店員の女性の問答が、セニティの足を喧騒の中で止まらせた。

「なぁなぁ。ウへへッ――ウチの若いヤツのどっちかを紹介してやっからさ、頼む! もう一杯だけ」
「……頼む人間、間違えてますよ――あたし、そういうの間に合ってますし」
「何だよ――客あっての商売だろ! 嬢ちゃんじゃダメだ! 店長を呼べ! 店長を!!」
「今日はあたしだけです――店番なんですから、これ以上、困らせないで下さい」
「うるへぇ〜! こうなったら……こうなったら、なんでも、誰でも連れてこいってんだぁ!!」
「……………あっ、おばさん。お迎えお疲れ様です」
「! な、なにぃッ!!」
「嘘です」
「…………」
「…………」
 沈黙後にため息ひとつ残し、男性の方は踵を返して路地の奥へと消えていき。
 片や店員は「ありがとうございました」と決まり文句の余韻を残す。
 国に平穏がもたらされた結果だっと、セニティはふと思った。
 偽りの賢者の姿で見下していた、視線で見たものではない。
 街中で営む人々の、当たり前の光景。
 ハウリの功績で――彼女自身が望んだ、届かない功績と。

 そんな羨望の眼差しで眺めていたセニティの視線と。
 店員の娘の視線が。
 不意に交じった。

「………あの、何か、ごよう…ですか……?」

 先ほどの威勢を恥じたように。
 照れたような彼女の言葉の余韻から、セニティは慌てて視線を逸らして俯いて。
 変装用とかけていた眼鏡のズレを慌てて直す。
 覆うように羽織るマントの裾を持ち直して、止めていた歩みを再び動かそうとした。
 そんな、行き足を阻むように。
 不意に周囲の石畳を、大粒の雨が叩き始める。
 少しずつその音が、強くなる気配を感じさせて。

「あの」

 すぐ目と鼻の先に。
 眼鏡の硝子越しに覗きこむように、店員の彼女が回り込む仕草で、声を掛けてきた。
 隠すように顔を逸らすセニティの心臓が、大きく跳ねた――自分の正体を、悟られはしないかと。
 かしげる小首の仕草に、耳脇に束ねる髪の房が僅かに揺れる。
「もし、よかったら―――少し、雨宿りしていきませんか?」
 彼女が指差した店の窓から漏れるランプの光。
 ただの商売上手な勧誘にも聞こえる。
 しかし。
 その銀にも伺えた灰(アッシュ)の髪が、微かに灯りに反射させ。
 円らな瞳の奥にある、琥珀のような輝きが。
 どこかで会ったような感覚を、不意にセニティに思い出させていた。
 懐かしい気配。
 記憶の紐を手繰るのが惜しいほど。
 繊細な記憶。
 そんな魔法にかかった操り人のように。
 セニティは何故か微かに頷いていた。
 自分でもわからないままの――微かな同意だった。


******************************


「驚きました。裸足で出歩いていたなんて……」
「……」
 宿泊客に出す沸かし湯で――年下のような――店員の彼女に、セニティは擦り切れたような足を優しく洗ってもらっていた。
 最初は断ったのだが、仕事柄人なれしているのか、強い圧しなのに嫌味でない彼女に、今は素直に従っている。
 不意に「内緒ですよ」と言葉を区切って手を翳された。
 やわらかな輝きと、心地よい感覚。
(――魔法? この娘(こ)……)
 そうやって生傷が全て癒されると。
 娘は一度店の奥に戻って、サンダルを手にして戻ってくる。
「これ履いてください」
「……」
「安物で申し訳ないんですけど……帰りの足の代わりぐらいには、なると思いますよ」
「……………どうして?」
「……?」
「見ず知らずの私に――」
「あ………う〜んと、ですね」
 娘は不意に頬に指を当てて、言葉を迷う仕草を見せた。
(やっぱり、この娘(こ)……私の正体に気がついたのかも――良くして恩をきせるつもりなら……)
 眼鏡の奥からの、セニティの疑いの視線の先で。
 困ったように娘は言葉を切り出した。
「すっごい、失礼なことだと思うんですけど……」
 セニティは席を立つ仕草に入る。
 知られたら立ち去らねばいけない……ここには居れない自分なのだ。
「その――似てたんです……昔の、あたしと……」
「………?」
 予想外の言葉に。
 セニティは、動きを忘れて彼女の言葉に聞き入った。
「す、すみません―――その、自分の『不幸話』って、訳じゃないんですけど。お見かけした時、姿が落ち込んだ時のあたしに似てたんで――その、お節介だとは思ったんですけど、知らん振りして見過ごすの――出来なくて……」
「……」 
「……それに『裸足』のところまで、そっくりだったから――今は、やっぱり声掛けて『良かった』って思ってますよ」
 上目遣いの瞳の奥が、優しい色で震えていた。
 自分の疑った卑しい心とは。
 まるで、対照的に。
「今、お茶入れますから……あ、サービスですから気にしないでください。そのまま、ちょっと待っていてくださいね――」
 慣れた手つきでテーブルに上に、いくつかの茶道具と。
 大き目のカップ二つが並び、手際よく中身を注ぐ――そのひとつをセニティに手渡した。
 彼女と同じ琥珀色の水面が、カップの縁越しに見える。
 ハーブとは違う、独特の爽やかな香り。
 湧き溢れるように周囲の空気を染めていった。
 雰囲気に後押しされるように、セニティは誘われるまま香ごとその雫を一口含んだ。
 クルルミクでは珍しい茶だった。
 王宮の茶会で、セニティ自身は何度か口にしているが、グラッセン領の一地方で作られている銘柄だったはず。
「……甘くて、美味しいわ――」
「! 気に入って…もらえますか? 実はこのお茶、まだ国内でもあんまり出回ってないんですよ」
 カップの底に残る僅かな茶葉が、彼女の興奮で微かに揺れる。
「先月、グラッセンとの戦争が終わって、ちょっとした貿易路のつてなんですけど……今度、うちの店で定期的に仕入れようかって、店長に推してる種類なんです」
「……まぁ」
「――お酒を飲み来る、夜の常連さんだけじゃなくて……貴女みたいな若い女性客目当てに、絶対に贔屓の品になるって見込んでいるんですけど……」
「……じゃあ――試されたのかしら、私」
「そ、そんなつもりじゃないんです!! ただ……その、あたしも、自分の舌に……自信、ないし……」
「……フフッ――そうなの」
 知っていた知識ではあったが。
 力説する娘に彼女の言葉に、微かにセニティの表情と心がほころんでいた。
 もし、自分に妹がいたら。
 こんな感じなのかと内心で思う。
 くだらないコトも――真剣な話も。
 こんな風に受け止めてくれる。
 身近な存在。
「でも、よかった……やっと笑ってくれましたね」
「……」
「女のあたしが言うのも、何ですけど。その、綺麗な顔されてますし――笑顔の方が、きっと得だと思いますよ」
 世辞も入っていたかもしれないが。
 素直にその言葉は。
 女としてのセニティ自身に嬉しかった。

「…………ありがとう」

 何気なく口にして。
 言葉が胸にセニティの心に染み入っていた。
 「ありがとう」
 たったいくつかの文字の羅列。
 それでも口にしたのは、何年ぶりになるのか――もう分からない。
 当たり前だった。
 誰か傍にいなければ、使わない――決して使えない言葉。
 心許せる者。
 親しき者。
 理想の為に、セニティにとって唯一友人として心を許したラシャを棄てた時から……。
 違う。
 為すと決めた――あの時から。
 払った代償の代わりとなる――取り戻せないからこそ求めたものは、今。
 全て、砂上の楼閣のように――消えてしまった。
 何もかも。

 あの時。

 遂げるための「誓い」では無く。
 国主となる訳でもない、セニティの我侭な決意を信頼し――命を賭して挑んでくれた彼らへの『感謝』であれば。
 「今」は違っていたのだろうか。


「――あの、どうぞ」
 彼女が差し出したのは、折りたたまれたハンカチだった。
 気付かないまま、セニティの瞳から涙が溢れ。
 頬を伝って、艶のあるテーブルを濡らしていた。
「………」
 どうしていいか分からない無言のセニティの手をとって。
 ハンカチを握らせてくれた彼女は、少なくなったカップの茶を慣れた手つきで入れ替える。
「しばらく、奥にいますね――」
 気を利かせるようにして、彼女はセニティを独り残し。
 何も問わず席を立って――その気配を奥の厨房へと消した。
 独りにしてくれた娘への感謝と共に。
 セニティの心の耳には。
 窓を討つ雨の音と。
 嗚咽をかみ殺す、鼻を啜る自分の呼吸だけが。
 やけに遠のいて聞こえていた――――。


******************************


 あたしが気がついたときには、その席に、あの女性(ひと)の姿はもう無かった。
 慌てて店の扉を開けて周囲を見渡した。
 でも、そこには。
 人の気配の無い通りと。
 上がった雨の足跡のような水溜りに――浮かぶ月だけが、見つめるだけ。
「――アリエ、どこだい?」
「あ、はい――」
 あたしは扉を閉めて、帰宅したおばさんの声に従って店内に戻った。
 その途中でテーブルで、歩みを止める。
 折り畳まれたハンカチと。
 冷めて残った茶のカップを重石代わりに挟まれた、伝票が一枚。
 手で捲った裏に。


――ごめんなさい
 黙って帰る無礼を許してください。
 代わりに、今度訪れる時は。
 今日の謝礼と、名を名乗らせください……

 楽しい時間をありがとう。

 そっけなかったけど。
 でも、しっかりした綺麗な筆跡で記されていたから心配するのを止めました。
 肩の力を抜いて、安堵のため息を吐き出した。
「……? アリエ、誰かいるのかい?」
「! え〜と、『いた』の、かな……」
「? 誰が」
「――う〜ん、『妖精』さん……眼鏡をかけた、すごく綺麗な瞳の…」
「? あんた……もしかして、酔ってるのかい?」
「えへへ――でも、ちょっとした『夢』のような……そんな気分ですよ」


******************************


 少し離れた路地の角から。
 セニティが隠れるように眺めていると。
 店から慌てて顔を出して彼女は、周囲を見渡して…ほどなく店内に戻った。
 名残惜しい気分のように、その姿を見届けると。
 セニティはそのまま裏通りを通って――城へと帰る道を辿り始める。
 逃げてきた『城』へ、また帰ろうとしている自分を滑稽な話だと思っていた。
 ただ。
 今、心にあるのは、謝罪の言葉。
 父や、弟のハウリに――そして友だったラシャに。
 無論、許されはしないことも分かっていた。
 侵した罪の大きさは、『死』などで償えるものではない。
 穢した咎の重さを生涯背負って――後悔と苦悩で『生かされる』のですら、軽いとも。
 それでも。
 今、心の中にある言葉を誰かに伝えたかった。
 それで何が変わるわけでも。
 変えたいわけでもない。
 でも、口にすることが出来れば――今は孤独の世界の中心でも。
 何かが、変わってくれるような気がして。

 それは、名前を知らない彼女が教えてくれたこと――。
 大きい世界や『龍』に傅くこの国を変えることよりも、大切で。
 自分の信念を貫くよりも、遥かに難しい。
 未熟で――当たり前の自分を、自分らしく生きていこうとする。
 無駄に死なせてしまった『彼ら』への――償いと感謝に代えたい、と。
 それしか無いのではなくて――それだけは。
 まだ自分の残っている『生』に。
 許されているものだと、信じたいように。


 ―――トンッ


 不意に、後から軽く背を押された感覚に。
 セニティは足を躓かせたように、二、三歩よろけていた。
 何事も無く起こそうとした彼女の体が、何の前触れも脱力して、膝を付く。
 強く打ち付けたはずなのに。
 彼女には、何故か痛みは感じなかった。
 その代わりに。
 咽るように、軽く咳き込んだ口に手を添えた。
 その手に、熱く……濡れた感触が残る。
 無意識に月明かりにかざすた手に……まるで、青い光に栄える様な。

 鮮やかな「赤」の色。

 続けて咳き込んだ口から、溢れた血液が――冷たく濡れる黒い石畳を、赤く塗るように広がった。
 そのまま傾く体を支えようと、伸ばそうとした手は動いてくれず。
 セニティはその勢いのままうつ伏せで倒れ。
 僅かに砂の残る石畳に、頬を擦り付けていた。
 口元から溢れるもの止まらず。
 背中から胸に掛けて、まるで火傷のような熱さだけが、感覚としてあるだけで。
 何が起こったのかさえ、まだ理解(わか)っていなかった。

「……一応、確認する」

 ぼやける感覚に、磨がれた刃のような男の言葉が意識に刺さった。 
 唐突に羽織っていたマントが毟られ。
 人形のように動かない体を転がされて、仰向けにさせられていた。
 誰かの手が伸び、ずれた眼鏡を取り除き、張り付いた髪の毛をはらう。
 セニティの蒼白な顔が、月の光に晒された。
 見上げる月明かりの逆光に。
 夜の影よりも深い漆黒のマントの人影のいくつかが。
 彼女の瞳に影を落としていた。
「……間違いありません、ご本人です」
 女性の声だった。どこかで――聞いた、ような…声。
「身元が分かる品は全て回収しろ――髪留め一本すら見落とすな」
 脱力したままの体のあらゆる場所を、いくつかの手が素早く探る。
 あの凌辱者に晒されたよりも――遥かに嫌悪するほどの。
「指と首に貴金属の何点か――他には、何も無いようです」
「衣服はごく普通のものですから問題ありません」
「へっ、いっそのこと――物騒な物取りの仕業に見せかけて、全部持ち去った方がいいんじゃねえのか?」
「……物取り、だと?」
「どうせ、数百にもおよぶ、ならず者に数日も輪姦(まわ)された、立派なお身体(からだ)なんだろ。気を使う必要なんて……おいおい」
「――貴様……何も知らぬお前が、殿下を愚弄するな!」
 険悪な意識を割るように、また声がした。
「双方やめよ……主の『命』を忘れたか――」
「……」「―――-」
「そのままにしておけ。後は、息のかかった衛士が迅速に処理する――我らは命ぜられたことを成せばいい」

 彼らのやり取りで。
 朦朧とする息の中で合点が繋がってくる……彼らは、ハウリに――。
「セニティ様」
「……」
「さる方の命で、貴女様を討ちに参りました――ご無礼をお許し下さい」
「…わ、たし――を」
「左様です。これ以上、クルルミク王国に、混乱を望まぬ故の苦渋のご選択です」
「……そ、う」
「痛み無く――それが慈悲深い我が主の命でございました」
 耳元で囁くように告げられた言葉。

(私は――もう)

「……先ほどの店の娘はいかがなされますか?」
「何かつながりがあったのか?」
「いえ。話の内容では…特に―――」
 報告を受けている人物の視線が、セニティの瞳を捕らえた。
(! 彼女は――関係ない……私とは、何も―――)
 その心を読んだかのように。
「――しばし監視をつけ、問題があるようなら報告しろ。いたずらに犠牲者を増やすのは、あのお方の本意ではあるまい」
「分かりました」

 その言葉を最後に。
 彼らの気配は、セニティの意識の周囲から消えていた。
 遺された彼女は裏路地の真ん中で。
 天を仰ぐように体を晒していた。

 必要の無い者―――必要とされないもの。

 城を抜け出たとき。
 セニティはこんな末路も覚悟していたはずだった。
 あの迷宮で体を汚され、躍らされて心と信念を砕かれ――気を取り戻してみれば月日が経ち。
 もうどこにも自分の目指したものは無く。
 国主となったハウリが導いた平穏――彼女が拒みたかった世界が広がっていた。
 だから、居場所が無いまま、朽ち果てるのもしかたがないと……――――――いや、違う。

(――『今』は……違うの)

 仰向けの力の入らないと、分かりきっている体に。
 口から溢れる血に構わず歯を食いしばって、必死で体を返し。
 うつ伏せで手を伸ばす……石畳み擦り付けるように、指先を城の方向へと伸ばした。
 その指先が。
 石畳のかすかな突起に触れ、爪を立てる。
 奥歯が砕けると思うほど噛み締めて、這うように体を引きずろうとする。
 力に負けて爪が欠ける。
 反対の手も伸ばして、見つけた突起に爪を立てた。

 王の血筋を受けたものの一人として。
 死の間際に潔さを失っている自分は、もう既に王家の縁として失格なのかもしれない。
 
 それでも。

 どんなに無様でも。
 惨めでも。
 セニティは、縋るように力を込めた。
 あの『彼女』が教えてくれたのだ。
 さっきまで何も無かった今の自分が生きる、その場所と方法を。
 約束した。
 一方的な、押し売りの約束――それは恐らく、幽閉生活が余儀なくされるはずの、無理だとわかっていたセニティ自身が、新しい目標のように勇気を出して記した最初のひとつ。

(――今度、一緒に、お茶……騙したこと、怒るかな――彼女……)

 湿った丸太のように重い彼女の体が。
 ほんの僅か前に進んだ。
 その分だけ先に、また指を伸ばす。
 新しい吐血が、また石畳を更に朱に染め替えて。
 そして二、三度また爪を欠いた。
 次第に、セニティは首すらも支えられなくなって。
 また地面に頬を擦り付けても。
 それでも指の先は爪が剥がれ、血が滲んでも――掻くのを止めなかった。

(―――父上、ハウリ……ラシャ―――私……私は……)

 今まで流したことがない意味の。
 涙の一滴が。
 頬を伝って……広がる血溜まりに消える。

 軽やかな。
 雫の奏でる響き――ただ、一音だけ遺す。

 その悲しげな音に誘われるように。
 空にあった月が、ゆっくりと陰り――また、雨の匂いをさせた。
 くすんだ裏路地の。
 その黒い石畳の真ん中で。
 自らの血で描く、鮮やかな紅い花を引きずったような――セニティの、その身体(からだ)は。
 霧のように舞い降る雨に、ゆっくりと包まれていった。
 まだ暖かい彼女の体温が奪われていく度に。
 足掻くように動いていた指の力は緩み。
 そお瞳の輝きも。
 濁るように失なっていく……。

 そのうち。
 発していた微かな呼吸と心音すらも。
 建物を介して奏でられる雨雫の音に。
 存在すら消されていった――。


(END)