全てを飲み込むような闇だけの世界。
そこにはただ、静寂だけがあった。
闇は方向感覚を麻痺させ、まるで深海の底へ沈んでいくかのようかと思えば、天空の彼方へ浮上しているような不安定な錯覚を与え続ける。

私の名はリリス。
この闇に捕らえられてからどれくらい時間が流れたのか、もはや私には時間という概念すら薄れてきた…

いかなる人間であろうとも、未来の予知はできない。しかし、人は知恵という果実を手に入れ、予測という曖昧な範囲でのみ未来をぼかして見る事を許された。

私の名はリリス。
今の私にはその曖昧な未来すら見ることを許されなかった…

やがて静寂の世界に一条の月光が差し込む。
赤茶色の煉瓦造りで築かれた牢は、既に何箇所か崩れ落ち、一部は植物と同化し、それが逆に自然の生み出した芸術品として視覚的な繊細さを演出していたが、同時にそれは荒廃さをも漂わせていた。

私の名はリリス
今の私はこのどこにあるのかも判らない狭い煉瓦の箱がすべての世界…地下から連れ出され、ここにいつ幽閉されたのかも、記憶の最下層まで行かなければ思い出せない…

突如リリスの聴覚に数分前まで自分を穢していた男達の悲鳴が木霊する。
視線を向けると、共に地下で戦った仲間がそこにいた。
「…助けに…来てくれたんだ……あはっ…あははっ……」
リリスの顔に笑みがこぼれる。
囚われの身となってから恐怖と絶望の出口無き戦いが始まり、一度として笑みを浮かべた事はなかった。
それもこれで終わる…解放される…陽の光の下に行ける…もう、戦いなんてしない…静かに、平穏に暮らすことができればそれでいい……
差し出された手を握ろうと、リリスも手を差し出す。
あと少しで手に触れる事ができる…自分を穢し続けた男達の肌じゃない、そこには人の温もりを宿した本当の人間がいる……

……筈であった。

だが、リリスの差し出した手は、冷たく硬い感触によって遮られる。

……これは……壁?

………そうだ……今夜は月のない、暗い夜だった筈だ……

男達の下衆な笑みが再び聞こえてくる。

その時、私は理解した…
あぁ…もう、私の中で、願望と夢と現実の境界線が崩れていたんだ……

私の名は…名は………

私はもう、自分の名前すら思い出す事はできなかった。

気がつけば回りは静寂に包まれている、視界すらその役目を終えていく。
いつしか薄闇が立ち込め、自分が最後に発した言葉すら記憶にない。
せめてそれくらいは思い出そうとした刹那、予感を感じる事もなくリリスはそのまま闇へと沈んでいった。
すべての音は遮断され、彼女は抗うことのできない冷たい睡魔と永劫の静けさに包まれていた。

醒めなき夢がはじまった。