『あなたがくれた名前』



「縛られるつもりはない、貴方の事は好きだけど、自由を捨てるのはいや」

 笑ってそういいながら、俺の女は最後に軽くキスをして、俺の家から出て行った、行きずりの彼女。体の相性が良かったので、そのままずるずると共に生活していた女。知っているのは名前と、あの柔らかな肢体の感触。夕日のような紅い髪。生き生きとした燃えるような赤い瞳。
 いつの間にか、心底ほれている俺がいた。だから、柄にもなく、一緒にならないかと、言ってみた。

 30も過ぎた男が、情けなくも緊張して、声を震わせて。

 しかし、彼女の答えはNOだった。そして、今までの生活と彼女の温もりが、これからはもうないと実感したのは、彼女が出て行った次の日だった。
 彼女の名前はニスチェといった。


 そして、もう一人の”ニスチェ”に出会ったのは、それから1年後の事だった。


 盗賊である俺は、捨てられてから少しして、ある調査で忙しく動いていた。お陰で恋だの愛だの、青臭い事を言っている暇などなかったし、何より、考えなくて済むのは気が楽だった。そのうち失恋の傷も癒えていた。

 俺が所属している盗賊ギルドには、ずいぶんと長く敵対している組織があった。殺しやヤバイ薬の売買、挙句には女を攫って奴隷にして売り出す、なんてのも当然のように行っていた組織。
 長年の調査の末、やっとアジトに目星がついた、スラムにある古びた建物。その調査と、そこに巣食う組織の摘発の準備で、忙しくなっていたのだ。

 そんな時期を過ごし、満を期して、俺を含む数十人が組織のアジトに摘発に入った。組織の野郎どもは、自分たちが飼っている女達を輪姦して楽しんでいる所だった。
 自分達が逃げる為なら、女どもを平気で盾にするような奴等。そんな糞どもを捕まえ、時には始末した後に残っていたのは、死体と、血まみれの部屋と、乱戦の中運よく生きていた女達。

 怯える女達を仲間が介抱して、連れ出す最中、一人、すべての感情を置き忘れたかのように、呆然とした子供に目がいった。年のころは、13歳ぐらいか。
 子供まで攫っているとは、調査にはなかった。ここにいる子供は、奴隷が生んだ子供だろう。
 同じように奴隷に仕立てて、売り払う事もしていたと、同僚の調査書にあったのを思い出す。

 しかし、ただそれだけの事で、そこまで目に付くものではない。普段なら、気にせず踵を返す所だっただろうが、その子供の髪と目の色が、俺の目を引いた。

 ――夕日の様な紅い髪、赤い瞳に、消えたと思っていた傷跡が刺激されたというと、少しロマンチストが過ぎるかもしれないが。


 俺は、子供に近づくと名前を尋ねた。が、そう聞かれても、まだ幼き少女は呆然としていた。
 質問の仕方を変える。

「なんと呼ばれていた」
「…どれい……めすぶた……」
「それ以外だ」
「…………しぃ」

 名前というには短い単語に、眉をしかめて、俺は自分が殺した下衆どもを見た。ただ陵辱する為の存在とはいえ、呼び名がなければ呼びづらい。簡単な、呼びやすい名前を適当につけたのだろう。

「書けるか?」

 聞いた後で、愚かな質問をしたと舌打ちをした。しかし、反応は想像していたものとは違い、少女は小さく頷いた。奴隷が生んだ子供に、読み書きを教えるような事はないかと思っていたので、意外な返事だった。
 だが、俺はすぐさまその考えを改めた。彼女は、教えてもらったのではない、覚えたのだろうと。
 生まれ落ちたときから奴隷であることが決まり、女と言えない内に体開かれ、他の女達と共に蔑まれ、罵られ、犯される毎日の中、唯一自分を示す言葉にすがるように、その字を覚えたのだろうと。
 どうやって覚えたかまではわからない、組織の奴等が絶望を教えるように、教えたのかもしれない、自分より状況も年も下の少女を嘲笑う事で、自我を保とうとした女が、教えたのかもしれない。だが、彼女はその文字にすがったのだろうと。
 死んだ男たちの血で指を染め、書かれた文字を見て。そう思ったのだ。

 書かれた文字は只一つ、”C”と、只一つ。


 俺は幼い少女を引き取った。夜伽の相手かと笑うものもいたが、自分にだって理由なんかわからなかった。
 多分、汚れガラスのようになった赤い瞳が輝くのを、見たかったのかもしれない。
 あいつのような、強烈に燃える赤い瞳に、また会いたかったのかもしれない。

 自嘲した。結局自分は、何一つ忘れられてなんかいやしないと。



 少女を人間に戻すのは大変だった。服を着ることを怖がり、ベッドで寝ることを怖がり、食事は犬のようにご飯を食べようとする。叱れば、許しを請うために奉仕をしようとし。夜になれば、伽の為に奉仕をしようとする。奉仕をしなくていいというと、酷く不安がった。
 物心ついた頃から仕込まれた奴隷根性と、飽きたら殺されるかもしれない恐怖。
 一生懸命媚を売り、自分が如何にいやらしい雌奴隷かを、たどたどしく言葉にする。四つんばいになり、わん、と吠えて、人間ではないことも必死に示してきた。

 その度に、シィの赤い瞳が濁っていく様に見えて、たまらなかった。

 まず、お風呂には定期的に入れてやり、食事はナイフとフォークを使うように、根気よく何度も教えた。お前は人間なんだからと、四つんばいもやめさせた。服も無理やり着せた。読み書きも教えた。
 怒られたときは素直に謝ることを教え、褒めるときは頭を撫でてやる。こんな当たり前を、シィは13歳になってやっと知ったのだ。自分がそれを教えているのが、むず痒かったが、嫌ではなかった。

 名前は、引き取ると決めたときからずっと考えていたが、なかなか決められなかった。普段はシィ、と呼んでいたが、これはアルファベットだ。けして名前ではない。人としてこれからの生活をさせるなら、ちゃんとした名前をつけてやろうと思うままに、悪戯に日ばかり過ぎる。その中でも、シィは少しずつ人らしくなっていった。
 
 「かけた!」

 一月を過ぎたぐらいのある日、報告書の書きミスをした羊皮紙の裏に、教えたアルファベットの書き取りをして、シィが見せてきた。

 「ほら、教えられたとおりにかけたよ」
 「あぁ、偉いぞ。今度は単語を教えないとな」
 「単語?」
 「物の名前を示す文字の事、といえば良いかな、みんな名前がある。名前には、綴りがある。単語とはそういうものの事だ」
 「なまえ……」

 しまったと思ったときには、遅かった。つけてやるといって、いまだに俺はシィに、れっきとした名前をつけていなかったからだ。
 でも、シィは顔を上げて、にこりと笑った。

 「だいじょうぶ、まってる。楽しみに待ってる!」

 きらきらと、輝く瞳に、こんな事が昔あったと思い起こされた。ベッドの中で誕生日が近いとつぶやく彼女に、何かプレゼントをしないと、と言った時だ。
 楽しみに待っていると、子供みたいに笑った、もう俺の傍にはいない彼女。
 
 「ニスチェ……」

 思わず、その名を呟いた。生き生きと輝く瞳が、彼女を髣髴させた。
 見たかった、あの目だと。

「にすちぇ?」

 シィが首をかしげる。当然だ、俺は今の今まで、ニスチェの話など一度もしたことがないのだから。

「なまえ?」
「え?」
「それ、なまえ?つれてくれるっていっていた、なまえ? 考えてくれてたんだ……」

 どうやら、自分のために用意されたものだと、勘違いしてしまったらしい。訂正をしようと思ったが、やめた。
 にすちぇ、にすちぇと何度も繰り返して、はしゃぐシィを見ていると、それでもいいと思ったからだ。
 その日から、シィの名前はニスチェになった。もう一人のニスチェと。



 ニスチェは俺の仕事に興味を覚え、盗賊の技術を学んだ。罠の見つけ方、外し方、鍵明けの方法。変装の仕方や、相手を騙して情報を得る為の演技の仕方など。
 そうして、二人暮らしを初めて、2年が経った。元奴隷という事で、ニスチェとの関係を周りが揶揄してきたが、肌を合わせることはなくても、親子のように過ごす年月は、意外に楽しいものだった。
 ニスチェも大体年は15頃、技術も十分になってきた。今扱っている仕事が終わったら、ギルドに連れて行ってやろうと、そう思っていた。
 
 だけど、そう簡単に物事は上手く運ばなかった。ささやかな幸せは、あっさりと壊れた。いや、俺が壊してしまった。
 仕事でドジを踏んだのだ。やばい薬を裏で流していると噂の豪商の家に忍び込んだ時、屋敷の傭兵に見つかり、深手を負った。逃げ出せたのは、ほとんど奇跡に近かった。

 霞む目で必死に道を辿り、家に向かう。夕日のような紅い髪と、燃えるような赤い瞳。取り戻した、焦がれていたその二つを最後に見て逝けるなら、それで良いと思った。でも……

 ニスチェは、泣くだろうか?

 あの赤い瞳から、涙を流して泣くのだろうか……?

 願わくば、もうあの瞳が、濁ったガラス球のようにはならないように。もう俺は守れないから………。
 どんな事をしても、生きて、落とされても、のし上がって、その瞳を、燃える赤のままに。

 道の途中で倒れた俺の傍に、誰かがいたような気がした。俺の言葉を、ニスチェに届けてくれと、上手く出ない声を出した。後はもう……眠たかった。

 ほとんど見えない視界に、夕日のような紅が見えた気がした。それだけで満足だった。









 「そう言う訳で、縛られるつもりはないのよね〜、貴方の事は好きだけど、自由を捨てるのはいや」

  笑ってそういいながら、あたいは最後に男に軽くキスをした。行きずりの男。体の相性が良かったのと、寝床が欲しかったから、そのままずるずると共に生活していた。
 一緒になりたいなんて思われてるとは、びっくり。

 まだ若い男、緊張して、声を震わせて。必死に告白してくれたけど、あたいの答えはNO。
 ここまで思われちゃったら、ここにはいられないや。追いかけられてもうざいから、ちょっと変装して街出ようかな。

 男の家を出ると、小走りで離れる。今日はどっかの安宿に泊まって、明日出発にしよう。行き先はどこにしようか。
 そういえば、クルルミクのほうで、女冒険者を募ってたっけ。国家レベルなんて、報酬も期待できるってモノよね。

 あなたの最後の言葉通り、どんな事してもあたいは生き続けてきたよ。これからも生き続けるから。


 あなたがくれた、”ニスチェ”って名前と一緒に、ね。


 Fin