早朝、ドワーフの酒蔵亭。
本来なら冒険者でごった返すこの酒場もこのところ新規冒険者の来訪も無く、今はその静けさを保っている。
店内に響く音は時折鳴る食器の音と昨晩遅くまで作業し疲れて机でそのまま寝てしまっているパーラの寝息だけである。

カウンターにはマスターと女盗賊のルビエラ。両者の間に会話は無く、マスターは半ば眠ったような顔で黙々とグラスを磨いている。
ルビエラの方はと言うと無事ギルドの魔の手から逃げおおせたもののパーティーを組むメンバーもおらず、
ひとりで半ば現状に腐りながらカウンターに肘をついて朝食のサラダを無言でむさぼっていた。

そこへドタドタと音を立てて冒険者が酒場に入ってくる。人数は足音からしてノノ1人、2人。
ルビエラはようやく出番がきたとばかりにニンマリと笑みを浮かべ、カウンター席から勢い良く立ち上がり2人を迎える。
が、2人はルヴィエラには一瞥もくれることなく素通り。
逼迫した様子でマスターの前に立つと荒れた呼吸を必死で整えようとする。
マスターも見覚えのない薄汚れた2人に一瞬怪訝な顔を浮かべたが、
ボサついた髪に隠れていた顔が覗くと全て分かった様子でグラスを磨いていた手を止める。
「……なにかあったのか?」

マスターの言葉に反射するように呼吸を整え終えた1人が矢継早に答える。
「うちのパーティーから捕縛者が出ました。早急に傭兵を」
その様子に鬼気迫るものを感じたマスターは奥を指差し、
「…分かった。奥に二匹寝てるからそいつらを叩き起こして連れて行くといい」と告げると
2人はマスターに頭を下げ、すぐさま傭兵を連れて火の様に酒場から飛び出していった。

1人ポツンと酒場に残されたルビエラはばつが悪そうに大きく広げた両手を降ろし、再びカウンター席に腰掛ける。
しばし気まずい沈黙のあと、マスターは笑いを堪えきれずにプッと吹き出し、大笑い。それから半刻ほど笑いは止まらず、
顔をしかめてますます顔が赤くなっていくルビエラを笑い尽くしたあとに、ようやく一息ついた。

「……あ〜〜もぅ。そこまで笑う事ないじゃん。こっちだって何日も放置されてストレス溜まってんだから」
「気持ちは分かるがありゃ救出組だ。あの様子じゃ分かりにくかっただろうがリムネシアとラピスだったようだな」

そう、一瞬彼女達が何者なのか分かりづらかった。
いつもは長く美しい髪を風に揺らし、悠然と町を闊歩している連中である。
さきほどはその髪も千々に乱れ、いつもの余裕は毛ほどにも感じられない。
いくらダンジョンに潜った後とはいえ、最初は新規の冒険者が入ってきたのかと勘違いしたくらいだ。

「…んーちょっと待った。あれがリムネシア達だったんならギルドに捕まってるのは……」
「白竜将・ディアーナのパーティーだ。あの2人だけという事はハルヒも捕縛されているようだ」

『白竜将』 数多く猛者の集うこのクルルミクでもその名は特別である。
龍神に守護される竜騎士の国。その竜騎士の頂点に君臨しているのがディアーナその人である。

「あの白竜将も下手打っちゃったか。あちこちでギルドの連中斬りまくってるから恨みもすごいんだろうねー」
「連れのハルヒもかなり連中を斬りまくってるそうだ……あまり言いたくはないが、決して楽観出来る状態ではないようだな」
「にゃはは、いい気味。実はアタシあの人嫌いだったんだよねー。いっつも上から見下したような物言いでさ。
 高慢ちきでお高く止まってる感じ? そりゃあんなんじゃあの年まで男も寄り付かないよねー。いい歳こいてババ…」

ルビエラが気持ちよく喋っているとヒュンッっと短く風を切る音が耳をよぎる。
「ヒュン?」  

音の先に振り向くとそこには飛来する槍。
ルビエラが短い悲鳴をあげてのけぞると槍は鼻先にかすった後、壁に刺さり幾度もしなって揺れる。
完全にルビエラを殺す為の投槍がそこに刺さっていた。

ルビエラの全身からぶわっと冷や汗が吹き出、奥歯が短くカチカチと震えて鳴る。
マスターも一瞬呆気にとられたが我に帰って槍が投げられた先を見るとそこには1人女性が立っていた。
酒場の入り口から差す日差しと長い黒髪でその表情を窺い知る事は出来ない。
だが、その日差しに白く輝く鎧には誰しも見覚えはあった。
「……ディアーナか?」

女はその言葉に答えるように穏やかに微笑んだ。
鎧が一部欠けていたがその気品に陰りはない。笑顔のままゆっくりとカウンターへ向かう。
その様子に安堵を覚え、マスターも「無事、のようだな」と笑みを覗かせる。
ディアーナも娘の無事を喜ぶ父のようなマスターの笑顔に「どうやらご心配おかけしたようですね」とはにかんで答えた。
その後、彼女が席に座るのを見届けたあとにマスターはゆっくりした口調で「ギルドに捕まっていたそうだが」と問た。
さらに少しの間の後、ディアーナは問いに返事する。

「はい。最初にメンバーが捕まってその後、恥ずかしながら不覚を取りました。
 ですが幸運にも幾人かの冒険者が監禁玄室に乗り込んでくださってギルドを数十人斬り倒してくれ、
 人数が減ったおかげで脱出も容易になり、抜け出したところをさらにフィアリスという方達に保護してもらって…」
「本当に幸運だったな」
「…はい。本当に色んな方に世話になってしまって。冒険者というのも。勉強になりました」

自らの失態に加えて幾人もの人間に迷惑をかけた自責か、ディアーナの声が次第に重くなっていく。
そのまま気まずい雰囲気にならぬよう気を使ってマスターは
「それほど冒険者も捨てたもんじゃないだろ」となだめるように返すと、
ディアーナは「いえ、それでもあくまでワイズナー討伐は竜騎士団のみで行うべきです」といつもの「白竜将」の声で即答した。
その変化に思わず笑いをこらえずクッと吹き出すマスター。
「それだけ減らず口が叩けるようならもう大丈夫だな」

「ところで」とマスターは続け、視線を壁に刺さったままのディアーナの槍へと向ける。
「うちの店もそれほど頑丈じゃない。あまりバカスカ穴を開けるのは勘弁してもらいたいんだがな」
「ああ、それは」

刺さった槍とルビエラが再びディアーナの視界に入ると、
同じ笑顔のはずが先ほどまでの穏やかな笑みから明らかに鋭さが増している。
ディアーナはルビエラの頭をポンポンと撫でて、
「ルビエラさんの頭に蚊が止まってるのが見えて」と言い放った。

笑顔でとんでもないことをのたまうディアーナの言葉が固まっていたルビエラの耳にも入ってくる。
と、同時に血の気が引いて青ざめていたルビエラの頭にどんどん血が上っていく。
頭についた蚊を潰す為に槍を? しかもこの三月の寒空に蚊なんてどこにも飛んではいない。
じわじわ火が灯るように首筋が熱くなっていく。全身が泡立ち、怒りに震えていくのを感じる。
ルビエラは頭に乗ったふざけた手を払いのけてディアーナの耳をつまみ上げて、

「こんのクソババアっ!! 人が黙って聞いてりゃふざけやがって!
 どこの世界に頭に止まった蚊を殺すのに槍投げる馬鹿がいるんだよっ!
 貫通だよ! か・ん・つ・う! 血を吸われるどころか脳汁が吹き出て死ぬに決まってんだろ!!
 万年男日照りでストレスが溜まってんのか知らないけどそんなに×××がほしけりゃ一生×××ってろ!!」

と、
言おうと思ったがルビエラはやめた。
装備は全て宿に置いてきて丸腰、盗賊が1対1で竜騎士に勝てるはずがない。ましてや「白竜将」である。
ルビエラの盗賊としての本能が、生き残ろうとする意思が暴言をなんとかノドに押しとどめた。
あとはただひたすらじっとして嵐が過ぎ去るのを待つばかりである。

固まったまま動かないルビエラに冷たい視線を送るディアーナ。
どれだけ挑発しても無反応なルビエラに飽きたのか、ディアーナはつかつかと歩き出し、深々と刺さった槍を事も無げに抜きさる。
始終に両者の決着を見たマスターはため息をつき「お前さんも隠れて人の陰口に聞き耳立てるなんて行儀はいいとは言えないぞ」と釘を刺したが、
それを聞いたディアーナは「いえ」とマスターの言葉を遮り、ふと自分が何か忘れていた事に気付く。
「すいません、忘れていました。連れが今、半裸同然なのであまり物音を立てて入りにくくて」と店の隅を見る。

そこには布にくるまった少女、ハルヒがいつの間にかもぞもぞと床に座り込んでいた。
長めの布で全身を包むように体を隠しているがそれでもあちこちからは柔肌が覗いている。
お嬢様育ちで他人に裸を見せた事もないハルヒにとってはそれすらも十分羞恥の部類。
突然ブチ切れたディアーナの行動に思わずしゃべる機を逸していたがようやく自分に注目が注がれて声をあげる。
「ディアーナさん、ひどいよ〜。早く、服、服!」

ハルヒは急かすように両腕を振り上げたが体に巻き付けた布がずり落ちそうになるとあわててそれを抱きかかえる。
恥ずかしさでただでさえ潤んでいる眼にさらに雫が浮かび、顔から火が出そうなほど赤く染まってなにがなんだか。
いまにもあらん限りの声で泣き出しそうな様子にマスターは急いで寝ているパーラを大声で呼ぶ。

大声で叩き起こされたパーラは寝ぼけた眼をこすりながら、マスターの指示通りよろよろとハルヒの元へ。
遠巻きで何を話しているか聞き取れないが気でも合うのだろうか。グズっていたハルヒの目からはすっかり涙が引いている。
そのままパーラに手をひかれて店の奥へ。横を通る時にハルヒは物言いたげにちらりをこちらを見たが何もしゃべらず奥へと消える。

ディアーナもその視線の意味に少し首を傾げたがすぐに理解した。「頭に血が昇ると忘れやすくなっていけませんね」と一人笑う。
横でルビエラが「年のせいじゃね」と口をモゴモゴさせたが幸いディアーナの認識には至らなかったらしい。
ディアーナはカウンターに身を乗り出してマスターにそっと耳打ちをする。
ルビエラの位置からはいくら耳を澄ましても聞く事が出来ない。盗賊の性か。本能的に固まったフリをして徐々に体をずらし聞き耳を立てる。

しかしようやく声が耳に届きだした頃には密談は終わっていたらしい。
ディアーナはストンと席に座り直すと行儀よくすっと背筋を伸ばしてマスターの目を見る。
真っ直ぐと見つめる瞳は窓から差す朝日を吸い込み輝きを増してじっと相手の目を見つめている。
横でルビエラはやや傾いた体を元に戻すのも忘れてその目に魅入った。
と、同時にほのかに目に懇願の匂いを感じ取る。何か頼んだか、などと考えているとマスターが咳払い一つ。
慌てて傾きを直して定位置で固まり直す。これもまた幸いディアーナの認識には至らない。

「それにしても」と言ったまま、マスターは細い目をいつもより丸くして不思議そうにディアーナを見つめる。
その言葉の後に何が続くのか、気になりマスターを見つめ返すディアーナだったが、
間に耐えきれず「どうでしょうか。無理と言うなら諦めますが…」と切り出すと「いや」とマスターが言葉を遮る。

「アンタの頼みなら喜んで探してくれるだろうよ。たしか鉄製の物だったよな?」
「はい。元は違うそうですが…同形の物なら納得してくれると思います」
「それなら大丈夫だ。おそらく今日の昼頃には簡単に手に入るだろう」

マスターの返事にほっと胸を撫で下ろすディアーナ。
その様子にマスターも思わず本音が漏れる。

「それにしても、あんたがわしらに頼み事なんて珍しいな」
「……そうでしょうか?」
「少なくともな。あんたが私事で人に頼み込みをしたというのは聞いた事もない」

この言葉は唐突に「自分らしくない」と言われたようでディアーナもさすがに面白くない。
しかし、しばらく自分の今までを思い出してしかめ面から一転してクッと笑い、
「いささか自分の分に超える約束をハルヒさんとしてしまったものですから」と気恥ずかしそうにはにかんだ。
その笑顔は実に優しそうで、いつもの顔よりは幾分年相応の女性らしさが覗いていた。

「随分と懐かれてるようだな」
「彼女の中の勇者像に私を重ねてるようで…困ったものです」
「あんたも変わったな。まるで……そう。今の顔は母親のようないい顔だ」

これはマスターの失言だった。花のようだった笑顔はふっと幻のように消え失せた。
(母、ですか。姉ではなく)とディアーナは心の中でひとりごちて、うつむいた。
マスターはそのディアーナの機微に気付く事無く、会話が終わったと見て奥に入ってすぐに戻ってくる。

「あんたのお仲間にも伝令を出しておいた。例のものもついでに頼むように言って聞かせておいたぞ」

マスターは景気よく話しかけるがディアーナの耳には入らない。
何か考え事でもしているかと思ったが無視されていると感じたマスターの声に次第に怒気を帯びていく。
二度三度。四度呼びかけてようやくディアーナはこちらへ帰ってきた。

「……どうも疲れているようだな。仲間が帰還するまで宿で休んだらどうだ?」
「…あ、いえ」
「まだ何か用があるのか? 奥のお姫様が心配ならパーラに送らせるが」

(それはそれで厄介を招きそうだ)とディアーナは思ったが、口には出さなかった。
しかし、落ち着いてマスターの声に返事をしようとするがどうにも歯切れが悪い。

「いえ、そうではなく。私はもう少しここにいたいのです」
「それが別にかまわんが…」

マスターはディアーナの様子が不思議だった。
普段はここのような雑多な社交場には姿を見せる事も無く、むしろ喧噪が騒がしい場所は好ましく思っていないはずである。
椅子も宮仕えのディアーナには雑に思えるような粗末なものである。座り心地が良いとはお世辞にも言えないだろう。
迷宮から帰ってきたばかり、ましてや危うい目に遭ってすぐにでもベッドで休みたいだろうにここになぜ留まろうとするのか。

また、今のディアーナの姿が誰かとダブる。
さて誰だったか、と腕を組むと奥から大きな物音とパーラとハルヒの悲鳴が一緒に聞こえてきた。
どうせまた何か物にひっかかって転倒でもしたのだろう。ドワーフの酒蔵亭では日常茶飯事の出来事でマスターは特に意にも介さなかった。

だが、その悲鳴を皮切りに「ふむ」とマスターは唸った。
ようやく思い出せた。今のディアーナ。その所作があのパーラと重なって見えたのだ。
あの日のパーラは冒険者としての夢が潰えた時の事、ようやく自らの才能がない事を悟って剣を捨てた晩。
パーラはいつまでも寝付く事無くカウンター席に座って酒を飲むでも無くうずくまっていた。
その時はいくら聞いても理由を答えようとはしなかったが、後日パーラはなにげなく理由を明かした。

理由は男である。とは言っても色恋沙汰ではない。パーラは雇った傭兵に騙され、あわや慰み者としてギルドへ売り飛ばされかけた。
幸いこの時は他の冒険者の手で助けられたが、しばらくの間、その恐怖は心の傷として残っていた。
部屋に戻り、一人になればあの男達の声と手が迫ってくるような。
そんな恐怖に塗れて一夜を過ごすより、このドワーフ亭の喧噪に身を任せていた方がいくらか気が紛れたのだと言う。

ディアーナもつい先ほど、ギルドの玄室に捕われ危うく慰み者にされかけた。
いくら装備を剥がされただけとは言え、無数の男に襲われる恐怖は男には理解できない。
白竜将と呼ばれる女傑も辿れば少女である。
(なるほど、な)

無言でうつむいたディアーナの前に、ドンと一本の酒とグラスが置かれる。
普段ディアーナはこうした冒険者に無償で提供されるはずの嗜好品には一切手をつけなかった。
それはクルルミクの惨状を自らが招いてしまったと言う自責によるもので、
これらの物品がいかに国民の犠牲の上に成り立っているものかを痛感していた。
だが、人によってはそれを高潔と呼ぶかもしれないがマスターから見れば無駄に自分を追い込んでいるように見えてならなかった。

「呑め」
「………私は」
「まあ呑め。呑めば紛らわせるものもある」

ディアーナが戸惑っていると横からルビエラがひょいっと酒瓶を持ち上げてグラスに注ぎ、
目をぱちくりさせて「いらないならあたしがもらうけど」とでも言いたげにニンマリと笑う。
ディアーナはふぅ、とため息をつき、酒瓶をルビエラから奪い返す。

「あなたはまだ15でしょう。このままでは酒が無駄になってしまいますから」

そう言うとディアーナはグラスに入った酒を一気に飲み干す。
それを見たルビエラはマスターを見てキシシと白い歯を見せて笑う。

(……そういえばそうだったな)
マスターはルビエラも何度かギルドに捕まっていた事を思い出す。
ルビエラの真意を汲取ったマスターはルビエラに合わせてキシシと白い歯を出して笑ってみせた。
それは思いのほか滑稽で、そのささやかな酒宴を盛り上げるのに一役買った。

そうこうしているうちに日は昇る。ドワーフの酒蔵亭の一日が始まる。