インターミッション:リラとクラウディア2


 仮に空腹でなかったとしても、その臭いを嗅いだら誰もが食欲をそそらずにはいられない。もし満腹だったとしても、デザートのように少しぐらいは詰め込む事が出来るのではないかと考えてしまう。
 日々の生活の中で培われた技術の積み重ねが、パンという形を取るとここまですばらしいモノが出来上がるのかと。
 龍騎士達のほぼすべての人間は、突然に振って沸いたような内容の食事に驚き、その状況に歓迎の声を上げた。


 だがそんな周囲の空気に、ただ怒りばかりが募る。どうして、彼女はそんな給仕達がするような仕事を好んで行ったのか。まったくその意図が読めない。
 同じ龍騎士の人間に対してここまで怒りを感じた事は一度たりとて無かった。
 龍騎士としての技量が足りないモノに対しての怒り、戦場に出る事の恐怖に駆られる人への怒りを感じた事はあれど、彼女達にはまだ龍騎士が何かを理解していた。
「まったく、何を考えているんだ……あいつはッ!」
 聞けば勝手に台所へと入り込み、周囲の空気を読まずに材料とかのありかを詰問してはパンを作り始めたという。しかも普段は見慣れない食材の一つ一つに目を輝かせるだなんて、どこの世界にそんな龍騎士がいるというのだろうか。
 そんなにパンが好きなら、素直にパン屋を続けていれば良かったのに。どうして神託は彼女のような人間を選び、彼女もそれを受け入れたのか。
 まったくもって理解に苦しむ。
 誰も強制なんてしていない、龍騎士という道を選んだのは彼女だ。
 ならばもっと龍騎士としての誇りを持って立ち振る舞い、他者の模範となるような生き方を示さなければいけないのに。
「それが、メイド達と入り混じってパンを焼いている龍騎士なんていていいはず無いだろうに……ッ」
「確かにこの件に関しては予想外でしたね。龍騎士として叙勲を受けて舞い上がり、ハメを外してしまう人は幾度か見ましたが。まさか他の龍騎士に挨拶する為に、パンを焼く人は初めてですね」
 そう、前代未聞なのだ。
 そもそもパン屋という経歴を持つ人間が叙勲を受けるのが初めてである上、それが使用人と同じ物事をするというのがありえない。
「他の隊でも評判だったようですよ、彼女のパン。特にディアーナ隊長は手放しで技術を褒めてましたけれど」
「だったらディアーナの隊にあの女をくれてやれ! 小麦粉と卵でもセットにして、ラッピングして。ついでにメイド服とかでも着せて、向こうの隊で給仕役として働いてもらえばいいではないか!!」
 一体、誰がこんな事を決定したというのだろうか。どうして彼女みたいな人間がこっちの隊に組み込まれたというんだろう。向こうが欲しがっているのなら、本当に国内で最高級の小麦粉と卵を準備してくれてやりたい。
 だが、それはいくら言ってみても上には受理されないだろう。
 龍騎士としての誇りや決まり事の中で、上の人間から伝えられた事は原則として従うのが当然である。仮に納得がいかなかったとしても、それを覆すだけのれっきとした理由が求められる。
 だが彼女が龍騎士としての自覚が欠けている、龍騎士の本分、矜持を理解していないというのは、覆す理由にならない。
「確かに彼女でしたら、メイド服とかも似合いそうですけど。可愛らしい顔立ちしていますし、ひらひらとした服装で……」
「ふざけるな!」
 私はそこで一喝すると、シュリは軽く肩をすくめてみせる。
「可愛ければいいだとか、パンを焼くのが上手だとか、メイド服を着せればいいだとか、みんな揃いもそろって何を考えているんだ!」
 いや、メイド服を着せればいいというのは私自身が言った事かもしれないが。
「クラウ隊長」
 そこで少しだけ普段とは少し違うめつきになって、シュリは真面目な顔つきになってこっちの事をジッと見てくる。正面からしっかりと見てくるその視線に、私は頭に血が上りすぎていた事をふと認識させられた。
 大きく息を吐き出して、少しでも熱を下げようと大きくかぶりを振る。
「すまない、どうやら自己紹介の時からいきなりパンを焼かれたという二つの出来事のせいで、かなり冷静さに欠けていたようだ」
「隊長が苛立っている部分については、確かに彼女にも多少なりとも自覚が欠けている所があるかもしれません」
 多少……というレベルを逸脱しているとは思うが。
 反射的にそう感じたが、シュリの話の腰は折らないように私は軽くうなずく。
「少し乱暴な例えになるかもしれませんが、騎竜とてすべてがいきなり従順に乗りこなせる相手ではありません。そういう意味ではまだ彼女は、生まれたての竜と同じと考えた方がいいでしょう」
 確かに言われてみれば、そういった一面はあるのかもしれない。
 龍騎士がそれぞれ騎乗する為の竜にしても、生まれながら必ずしも従順であったという事ではなく、竜の調教師によって手なずけられているのが常である。言葉を交わし合う訳ではなくとも、多少なりとも意思の疎通が出来なければ戦う事もままならない。
「クラウ隊長のように誰もが最初から、立ち振る舞えるという訳では無いのです」
「それはそうかもしれないがな。ならばどうして逆に、そういった礼儀などをしっかりと教え込ませた上で叙勲させなかったのかという疑問が沸いてくるが」
「ですから隊長、それは先日にウチの隊がスキーマを失ったという事からの、早急な人員補充による対処であるかと」
 結局はそういった部分に戻ってきてしまうのか。
 しみじみとため息をつきながら、話題がループしているという事実に改めて私は小さく肩を落とす。
 結局の所は、しつけにしても何にしても出来る状況ではなく、拾ってきた野良猫に対しての礼儀はこっちで叩き込めという事なのだろう。
「つまりシュリは、もう少し寛容になれと……そう私に言いたいのか?」
「いえ、そこまでは……」
 あえてそこから先は口にしなくても、わかる。結局の所、シュリは新しく入ってきたリラの事を認めろという事だ。
 ただ彼女の事を認めるにしても何にしても、認めるべき理由が戦力が足りないからという事であってはいけない。そういった何かしらの事情の為に、それを認めてしまったら規律がおかしくなる。
 龍騎士が龍騎士である為には、矜持が必要なのだから。
「ただ我々はあくまでも軍であり、力なき人々を守る為の剣であり盾でもあります。そこに必要なのはまた……」
「いい、やめてくれ。そういった理屈ではないんだ」
 シュリの言葉を私は大きく遮って、あえて大きく手を左右に振る。
「……わかりました」
 こちらの心境を察してくれたのかどうかはわからないが、シュリはそこで素直に言葉を打ち切ってくれる。そのあたり、こちらの心情を察するのに長けているのは、今みたいな感情を抱いている時は非常にありがたいと思う。
 せめてリラに、彼女にシュリのような周囲の状況から、自身の行動を選び出してくれる能力があったのならば。私もここまで苛立ちもしなかったし、こんな頭の痛い事態になる事も無かっただろうに。
「では今はこれにて失礼します」
 一礼し、シュリが立ち去っていった部屋の中。
 私はそこでもう一度ため息をつくと、机の上に置かれているパンが不意に視界へと飛び込んできた。先ほどシュリが持ってきて、そのまま放置されていたものだ。
「あいつ……持っていってくれればいいのに」
 このまま放置しておけば、使用人が適当に処分するだろう。だが、食べ物を粗末にするというのも、それはそれで……あまり褒められた物でもない。
 なので、今は自分が処分するしか無いだろう。
「……」
 口に運んで、それを囓る。
「……美味いな」
 元々食事にはあまり深い知識が無いから、たいした感想を口にする事は出来ない。今だって単純に、美味いか不味いかのおおざっぱな判断でしか無い。
 ただ、普段の使用人達が作っているパンと比較して、大きく質が違う。
 代々王侯貴族に使えている料理人達が作る食事というのは、その材料は国内でも可能な限り上等な物を取りそろえているはずである。
 だから誰が料理しようが、料理人と言われる人間なら適当な物が作れる上、そんなに差は無いと思っていたのだが。
 リラの焼いたパンは、少し冷えている今でも美味だった。
「けしからんではないか、城下町の人間の方が我々より美味な物を食べているとは。何より同じ材料を使っているはずなのに、何故ここまで差があるというのだ?」
 ますますもって、神託の意味が理解できなくなってくる。これほどの腕があるというのならば、今すぐ給仕人をクビにして彼女を雇った方が良くなる。
 世の中何か、おかしいのではないだろうか。
「まったく、本当にけしからん……何よりパン一つだけでは満足出来るはずが無いではないか」
 気付いたら、すでにパンはすべて食べてしまったようだった。何も残っていない手を少し動かし、物足りなさに私は改めて顔をしかめる。


 やっぱりあのリラという彼女、空気が読めて無い……。