クルルミク首都から遥か南方、コルネード国境付近。
 コルネードは風の精霊の守護を受けているとされ、陸海問わず出現する巨大な竜巻によって幾度も他国の侵略を防いでいる国家だ。その影響か、国内に入っていないというのに、風が強い。そんな国境沿いの街道を一人の女性が歩いていた。
 女性、といってもその出で立ちは剣士のそれだ。特徴的なエメラルドグリーンのショートヘアーが風に揺れ、服装もそれに近い色で整えられた凛々しい姿。中でも特徴的なのは左目を眼帯で覆っていることだ。そんな彼女の名はキルケー・クロウン・アンブレラという。
 西の大陸の貴族の娘である彼女がこんな辺境を歩いているのも、かつてクルルミクで起こった“ワイズマン事件”がきっかけであった。もう事件からは既に数年が経過していた。今ではあの事件の話を口にする者も少ない。もっともその原因は、時間の経過だけではないが。
 当てのない旅。
 クルルミクの事件を経てから、そんな旅を始めてもう数年になる。時々はあの時の仲間を思い出し、一緒に行動したりもした。
 自分を見つめ、世界を見つめ、人を見つめ、キルケーは多くのものを得、経験することで糧にして成長してきたのである。事件自体も彼女を大きく成長させる要因ではあった。 そんな彼女が、今旅をしているコルネードの国境付近は、コルネードが大陸の中でもグラッセンに次ぐ内乱の多い国であり、常に傭兵達が跋扈する非常に治安の悪い国でもあった。そのために、彼女は連日のように襲われている。
 そして、今日も例に漏れず、二十人程度の傭兵崩れ――この際、ならず者と言っても問題はあるまい――に囲まれていた。彼女にとってはある種、日常茶飯事のような出来事。女と見ればよってたかって襲ってくる連中に嫌気が差しつつも、返り討ちにしなければ自分の身が危うい。
 だが、緑晶の魔法剣士は怯むことなく、それどころか勢い良く斬り込んだかと思うと、逆に瞬く間に五人の男たちを地面に這わせた。それがきっかけか、男たちはキルケーを生け捕りにすることを諦めたらしい。今までよりもはっきりと殺意を持って攻撃を加えてくる。
 これもいつも通り。
 ただ、キルケーにとっていつもと違ったのは、昨日雨が降った後ということであった。踏み込んだ瞬間、妙な感触が右足のグリーブを伝って感じられる。ぬかるんだ足場にはまってしまったらしく、勢いをつけて踏み込んでいたためにキルケーの身体はバランスを崩してしまった。そこへ、キルケーが斬りかかろうとした男が、逆に剣を振り上げて近づいてくる姿が映る。
「しまっ――!」
 油断していたつもりはなかった。しかし、体勢を崩した隙を突かれたのは揺ぎ無い事実。
 そこへ勢い良く振り下ろされる剣。
 防御は間に合わない。魔法も到底間に合うはずもない。
 こんな形で旅が終わるのか――そんなことを刹那に思いつつ、刃に照り返される陽の光もあいまってキルケーは目を強く閉じる。同時に“甲高い金属音”が耳に入った。そして、キルケーにその刃は届くことはなかった。恐る恐る目を開けてみれば、目の前には黒い人影の背中。腰よりも長く伸びて纏められた髪が風になびいている。
「大の男が女一人相手に、か――大丈夫か?」
 慌てた様子もなく、その影の主は口を開いた。低く、落ち着いた声。そして、キルケーの耳にも記憶がある声。
「貴女は……」
 面と向かって話したことは一度しかない。だが、その姿は妙に目に焼きついていて忘れることはなかった。あれからかなり時を経て、外見は大分記憶と異なる部分はあるが、彼女のその後ろ姿は色々な意味で変わっていなかった。だが、彼女はこんなところに居る立場の人間ではないはず。何故なら彼女は――クルルミク王国近衛騎士レイラ・シュヴァイツァーなのだから。
「レイラ、さん?」
「……!」
 キルケーの言葉に、レイラが一瞬背後を振り返る。それでレイラも倒れているのがキルケーだと気づいたらしい。だが、直ぐに視線を戻すと斬りかかってきた別の男を斬り伏せた。
「話は後だ。始末するぞ」
 一瞬の出来事に戸惑うキルケーをよそに、レイラは双剣を閃かせ、傭兵くずれのならず者たちを屠る。それに合わせるようにキルケーも立ち上がり体勢を整えると、レイラとは別方向へと斬り込んでいった。ただでさえ、キルケー一人に半数以上を失っていた傭兵たちはレイラの介入であっという間に散り散りに退散していき、数分も経たないうちに物言わぬ死体と二人の女剣士だけがその場に残ることになった。
「久しぶりだな」
「そうね。元気だった?」
「まぁ、な」
 キルケーの言葉に、歯切れの悪い返事を返すレイラ。その表情はどこか困惑しているような、その上、どこか陰さえ感じさせる。
「立ち話もなんだし、近くの村にでも行かない?」




「私を消しにきたの?」
 酒場に入るや否や、キルケーは対面に座るレイラに単刀直入に問いかける。こんな国境の側、しかも近衛騎士である彼女と遭遇する時点でそれ以外の理由がキルケーには考えられなかった。彼女が知る“ワイズマン事件”の真実は、クルルミク王国にとって、それほど重要なことなのだ。
 事件終結直後、何人かの変死体がクルルミク国内のあちこちで発見されたのがそれを物語っている。その死体は賢人から冒険者、一介の商人と多岐に渉っていた。だが、変死体で見つかった彼らは事件の真相を知ろう、または知った人間ではないのか、という噂が流れ、そのためにクルルミクに消されたのではないかという憶測が飛び交ったりもした。もちろん、正規のルートでの情報ではない。それだけに“噂ではすまされない”話である証拠でもあった。
 幸い、といっては不謹慎かもしれないがキルケーと同様に“真実”を知るリエッタや黒曜、タンがそれに巻き込まれたという話は聞かなかったのがキルケーにとっては幸いであったが……。
「いや」
 キルケーの問いに、レイラは視線を逸らしたままゆっくりと口を開く。
「単なる休暇だ。君……いや貴女と会ったのは偶然だよ。キルケー・アンブレラ」
 自分の本名を、レイラがさらりと口にしたことに一瞬戸惑いを覚えるキルケー。だが、視線を逸らしたままのレイラに対し、キルケーは即答で反応する。
「嘘が下手ね」
 その言葉にレイラは視線をキルケーに移すと、きょとんとした表情を浮かべた。
「いや、本当なのだがな」
「そう、ならそういうことにしておくわ」
 グラスに新たなワインを注ぎながら、キルケーは嘆息し、グラスを傾ける。
 美味しくない。
 昼間、毎日のように撃退している傭兵崩れ相手に不覚を取ったことも。
 そのときに現れた人物のせいで、あまり良いとは言えない思い出を思い出したことも。
 それら全てがワインの味を不味くしている原因であるのは確かである。
 だが、一番の理由は、目の前で知った顔に湿気た面をされていることだ。
「レイラさん」
「レイラでいい。今はただの一般人だ」
「じゃあ、レイラ」
 透き通った碧眼の眼差しが、暗く闇を漂わせる隻眼へと突き刺さる。
 キルケーはかつて――ワイズマン事件終結のときにレイラに忠告を受けた。そのとき感じたのは英雄になったって言うのに、なんて寂しい目をしているんだろう、ということだった。だが、直ぐにレイラがあの事件において得た物よりも失った物の方が多かったのだろうと察し、その寂しそうな背中を見送ったのを思い出す。
「貴女は何故、まだそんな目をしてるの?」
 クルルミクで仲間たちと別れる直前、キルケーだけがレイラと会っていた。そして、そのときに感じた彼女の雰囲気、そして瞳がまるで変わっていない。
「…………」
「自分が許せない?」
 何も語ろうとしないレイラに、キルケーはポツリと呟いた。
「そうかもしれんな」
「国家の危機を救った英雄なのに?」
「それは違うな」
 今度はキルケーがきょとんとした表情を浮かべる。
「私は……友一人を救えない人間でしかない」
「いいえ、貴女は――」
「……おっと、そこまで。今はそんな話をしたい気分ではないんでな」
 だが、キルケーの言葉をレイラは言葉と右手で制す。一瞬のことであったが、同時に殺気も向けられていたのをキルケーははっきりと感じ取っていた。それだけ、レイラにとってこの話は触れられたくないことなのだろう。
「そう」
 その言動に、キルケーは再び嘆息雑じりに答えた。
 僅かでも、と思ったが、自分では彼女の心の氷は溶かせない。それを悟ったからこその嘆息。
「なら、そんな湿気た顔しないで欲しいな。せっかくの美人が一緒なのに」
「私は女だぞ」
「かっこいい人と飲めることに性別は関係ないわよ」
 キルケーは無駄に明るく振舞いながらワインの追加を注文する。だが、その言葉に当のレイラは困惑した表情を浮かべているだけだ。
「冗談よ。貴女とこうして飲める機会なんてもう二度とないでしょうから、ゆっくり飲みましょうよ」
「……と、言いたいところだが」
「そうね、邪魔が入りそう」
 レイラは相変わらずの鉄面皮、キルケーは呆れたような表情を浮かべ、二人ともが壁に向けて視線を向ける。その向こう側は集落の中央通だ。酒場の中の何人かも気づいたらしいが、自分たちに対してではないと取り立てて動くことなく喧騒を続けている。つまりは、暗に二人に出て行けと言っているのだ。コルネードとの国境付近の彼らにとってもこれが日常茶飯事。だからこそ、自分たちで火消しをすることも暗黙のルールとなっている。
 やれやれ、と嘆息雑じりに立ち上がるレイラ。キルケーは黙ってそれについていく。酒場の外に一歩出ると、辺りはすっかり夜の帳が下りて一面真っ暗だった。
「昼間の奴らか」
「んもう、しつこいわね」
 レイラが呟き、その言葉にキルケーがぼやきを漏らす。まるで夜を全て見通しているような鋭い眼光。それは暗さなど全く気にする様子を感じさせない狩人のそのものの眼だ。
「頭数が少し増えている。ちょっとした徒党だな……さて、どうする?」
「どうするも何も、付き合ってもらわないと」
「高くつくぞ?」
「出世払いでいい?」
 そんなやり取りをしながら、キルケーは細身の魔法剣を、レイラは二振りの東方片刃剣を携え、群がる男たちに斬り込んで行く。それに応じるように一人の怒号が僅かに離れたところから上がった。直後、彼女たちに向けて男たちも突っ込んでくる。元が傭兵なだけに様子を窺っている者もいるが、大半が連携などを無視したバラバラの攻撃。かつて、彼女たちが龍神の迷宮で相対したならず者たちと、いや、下手をしたらそれにすら至らないレベルの者までいる。
 それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
 当人たちには解らなかっただろう。ただ、辺りには血臭が漂い、多くの男たちの死体が転がっている。だが、当の二人はまだ軽い傷を負った程度であったが、如何せん雑魚が相手とはいえ、スタミナには限界というものがある。
「予想より多いな」
「そう、ね。さすがにちょっと上がってきちゃったかな」
 互いに背中合わせになると、荒い息で二人は言葉を紡ぐ。レイラの言葉にキルケーは振り返り、キルケーの言葉にレイラが振り返る。僅かに見せた二人の剣士の一瞬の隙。そこをたまたまか、熟練した男二人がそれぞれに飛び掛った。それは隻眼という二人の死角を突いた攻撃。
「!」
「っ!!」
 だが、二人の女剣士はその動きに合わせるかのように、くるりと互いの位置を替えるとその向かってきた二人を素早く斬殺する。その動きはまさに見ている方にしてみれば驚愕の一言としか言い表せないほどの動き。合図一つ無く互いの目標をスイッチし、斬り伏せたのだ。男たちはざわつき、中にはそれだけで逃げ出す者すら現れる始末だ。
 それほどまでに、彼らと彼女たち二人のレベルが違いすぎたのだ。それを今知ったとしても、遅すぎた。
「今のは危なかったぞ」
「そっちこそ。見てないでしょ」
「キルケーが居るからな。短い間とはいえ、今は頼れる“相棒”だ」
「あら、嬉しいお言葉。それじゃ残りの後始末行くわよ。レイラ」
「了解だ」
 一度しか邂逅したことがなかったはずなのに、見事なまでの連携。だが、それを彼らは知らない。それこそ、彼らにはこの二人が長いこと組んでいる間柄だと感じたかもしれない。
 程なくして剣戟の数は徐々に減っていき、結局その場に残ったのはキルケー、レイラの二人と、多くの死体。そして、死体から溢れる血臭だった。
「これでここにも居られなくなったな」
「貴女の場合、どこでも居辛いんじゃない?」
 ――しまった。
 いつもの調子で、思わず皮肉を言ってしまった自分の軽率さを悔やむキルケー。だが、レイラの口から漏れたのは、彼女の予想とは反したものであった。
「……違いない」
 自嘲気味な言葉と笑い。けれども、その笑いは明らかに今までとは違った。心の底から笑っている。顔を見なくても、何となくキルケーにはそれが感じ取れた。
「この辺りだとね。死体から物を漁った人間が処理するそうよ」
「ほう」
「良くも悪くも、治安が悪い場所ならではの風習、てやつかしら」
 中央での生活が長いせいか、昔よりもそういったことに疎くなっているレイラにキルケーは細かく説明する。その言葉を興味深く聞きながら、小さく頷く。
「そうか。なら、後始末を気にする必要もないな」
「そう、だからもう遅いし泊まって行きましょ。休暇なら急ぎで出て行く必要もないでしょ?」
「そうは言うがな」
「なら決まり。行きましょ」
 そう言ってキルケーは村外れの宿に向かって歩き始める。その背中を見つめながら、レイラは辺りを見回して再び尋ねた。一度納得したとはいえ、やはり気になるものは気になるらしい。
「本当に放置しておいていいのか?」
「でも、片付けられないでしょ」
「……もっともだ」
「なら、その土地にはその土地の風習があるってのを信じてくれればいいわ」


 ――翌朝。
 キルケーとレイラは一緒の部屋に泊まっていた。だが、レイラは身についた習慣なのか朝早くには目を覚まし、その部屋の窓から外を眺めている。その視線の先には、彼女たちが昨晩戦いをしていた中央通。そこには血の跡こそあれ、死体は一つも転がっていなかった。キルケーの言ったように、漁った人間が夜中の間に全て処理したらしい。その残った光景に、レイラは不思議なものだ、と思わず苦笑する。
「ん、おはよう……早いのね」
「……服くらい着て寝ろ」
 キルケーの挨拶に、レイラは視線を彼女に移すと開口一番そう告げる。見れば、キルケーは全裸で寝ていたのだ。一糸纏わぬその姿は、女性ですら見とれるほど綺麗なものであった。
「あら、恥ずかしがってるの? ま、わざとやってみたんだけど」
「性質が悪いな、まったく」
 苦笑しながらも、朝陽の中で笑みを浮かべるレイラ。その顔には、昨日見た翳りはなかった。いや、本当はあるのかもしれない。けれども、キルケーには今の彼女にはそれを感じることはなかった。
「ねぇ、レイラ」
「ん?」
「本当に、偶然?」
「偶然だよ。正直私も驚いたくらいさ。ましてや、あの頃よりさらに美人になってるしな」
 その言葉にキルケーは思わず頬を紅潮させる。まさか、そんなことを面と向かって言われるとは思っていなかったのだ。
「ちょっと、からかわないでよ」
「からかってなどいないさ。事実だ」
 そう言いながら、二人は出立の準備を整えていく。
「これから、どうするの?」
「ま、行く予定のところに行って戻る。それだけだな」
 チェックアウトを終えた二人は、宿の前で見詰め合うと、そのまましばし時間が止まったかのように過ぎていく。一日だけだったのに、妙な感覚。それはレイラがキルケーのことを“相棒”と言ったからだろうか。
 さらに少しの間を置いて、不意にレイラの唇に自分の唇を重ねた。キルケーにとって、親愛と礼の意味を込めた一種の儀式のようなもの。レイラもそれを拒むことなく受け入れ、そして、軽く抱き合ってその背中を叩く。
「ありがとう。あのとき助けてくれて」
「ん……私も、君に会えて良かったよ」
 身体を離し、二人はお互いを見つめなおす。そこには先までの妙な雰囲気はない。ただ別離を待つ二人の姿があるだけだ。
「また、な」
「ええ。また、ね」
 一夜限りの相棒は、そう言って互いに別々の方向へと歩き出す。
 それぞれの人生を歩むように、別々の道へと……。



 ――Fin.