魔眼と魔舌の夜想曲


<0>


 月光の下、その少女は言った。

「…―――見つけたよ、タンちゃん」

 風になびく銀髪。澄み切った青い瞳。真っ直ぐ見つめる先には、捕えられ、拘束されたタンの姿。
 周囲には数十人のならず者。

(だめっ! フェリル、逃げて!!)

 必死に首を振って、逃げるように意思を伝える。
 だが、彼女は逃げるようとしない。大勢の屈強な男たちを前に、臆する素振りすら見せず、微笑みすら浮かべ、

「友達だからね」

(………っ)

「友達が困ってたらさ。助けなきゃ」

(―――――――――)

 その瞬間、その言葉は、確かにタンの心の中の何かを射抜いた。

 ならず者たちが動きだす。少女もまた、動きだす。

 タンはじっと見つめていた。タンのために、たった一人で数十人もの男たちの只中へ飛び込んできた友人を。
 月の光の中、銀の髪と銀の剣を踊らせ立ち回る姿には、女神のような美しさすら感じられて――。
 そのとき、タンは思ったのだった。
 この人を、自分の一番大切な人にしよう、と。



 そして、月日は流れた。



「フェリル……」

 クルルミクのとある宿屋の一室。
 タンはベッドの上で呆然としていた。その腕の中に、かつてフェリルが着ていたローブを抱きしめて。
 傍らには、ならず者たちがあちこちに張りまわっていたポスターが置いてある。ハイウェイマンズギルドに捕らえられ、性奴隷として売り払われた女冒険者の痴態を描いた悪趣味な宣伝ポスター。
 描かれていたのは、フェリルだった。
 
「こんなの、やだよ……フェリル……」

 どこか虚ろな顔で、ぼんやりと宙を見つめたまま呟くタン。
 まるで抜け殻のようなその姿を、半開きになったドアの外からそっとキルケーが見つめていた。

「………………」

 何か言葉をかけようとするも、何を言ったらいいのかわからない。
 やがて音も無くため息を一つつくと、キルケーは扉をそっと閉めて立ち去った。


<1>


「どうでしたか。タンの様子は」

 一階に下りてきたキルケーに、フロアで待っていたリエッタが声をかけた。

「さっきよりは落ち着いたみたい。でも、かなりダメージは大きいわね……」
「……そう、ですか」

 フェリルが本当に性奴隷として売られたことを知ったとき、タンは酷く取り乱し、手がつけられなかった。まるで自分の半身が奪われたかのような悲痛な号泣を前にして、リエッタもキルケーも何もすることができなかった。

「悔やまれます。私は、フェリルがああなってしまう前に何とかできたかもしれないのに」

 リエッタは沈痛な表情を隠せない。
 かつてリエッタはフェリルとパーティを組んで冒険していたことがあった。だがある日、仲間の一人がならず者にフェリルを売渡してしまうという事件が起きたのだ。
 そのときは無事には済んだものの、それ以来フェリルは人が変わったように冷たくなり、リエッタたちの元を去って他のパーティへ参入し――そのまま迷宮から戻ってくることは無かった。

(なぜ、あの時、彼女が売り渡されるのを止められなかった――)

 一瞬のことで、止める暇など無かった。
 それでもあの場で自分が何とかしていれば、結果的にフェリルが性奴隷として売られることは無かったかもしれない。タンがああして傷つくことは無かったかもしれないのだ。
 フェリルにタン。笑顔がとてもよく似合う二人から、その笑顔を奪ったのは。

(他ならぬ、私なのかもしれない)

 ぎり、と噛み締めた奥歯が鳴った。

「リエッタ……」

 心中を察して、キルケーが声をかける。

「……キルケー。タンの傍にいてあげてください。
 彼女は、貴女にフェリルと似た雰囲気を感じ取っていた。
 今、彼女の力になれるとしたら、貴女以外にいません」

 淡々と言葉を紡ぎながらも、その声は苦渋に満ちていた。

「私は無力です。神に仕え、鍛錬をし、人を癒す力を授かったというのに……タンの心の傷は、癒せない」

 こんなに己の無力を感じたことは今までなかった。すぐ目の前で大事な仲間が傷ついているのに、何もすることができない。

「リエッタ。あまり自分を責めない方がいいわよ。
 ……タンのことは、任されたわ」
「……ありがとう。お願いします、キルケー」

 再び二階へ上がっていくキルケーを見送り、リエッタは呟いた。

「風神デュラよ。願わくば彼女らの行く先に、祝福の風あらんことを……」


<2>


「タン、入ってもいい?」

 部屋の扉を小さくノックして呼びかける。だが返事はない。

「タン……?」
「……っく……あっ………」

 キルケーの耳に、微かにタンの声が聞こえた。嗚咽ではなく、何か傷みに耐えるような――。

「……入るよ、タン」

 一言断って部屋に足を踏み入れる。

「……っ! タン、何してるのよ!!」

 ベッドの上には、下半身を曝け出したタン。
 今まさに、自分の秘所に小さな瓶を押し当て、こじ入れようとしていた。
 目の前の異常な光景に一瞬くらっとするのを感じつつ、慌てて駆け寄って瓶を取り上げた。

「あ……っ」

 呆然とキルケーを見上げるタン。その虚ろな目に、キルケーはぞっとするものを感じた。

「タン、どうしてこんなことを……」

 キルケーの知っているタンは、自慰行為すらロクにしたこともないような少女だったはずだ。自分からこんなことをするなんて、信じられなかった。

「フェリルは……」
「え……?」
「フェリルは……どのくらい痛かったのかな、って……」

(――――――)

 理解した気がした。
 犬系の獣人によくある話と、昔書物で読んだことがある。彼等は高い忠誠心を持つがゆえに、忠誠の対象が死ぬと自ら命を断つことすらある、と。
 ある種の現実逃避だ。あまりの強いショックに、精神が耐えられずに自ら崩壊しようとする。

「フェリルが痛かったなら……タンも…痛くならなきゃいけないの……」

 つまりタンは、フェリルの後を追おうとしていたのだ。

(さっきより落ち着いたなんて、とんでもない。この子は、もう壊れる一歩手前なんだ)

 虚ろなタンの表情には壊れた笑みすら浮かびつつある。それほどまで深刻な衝撃だったのだ。フェリルが売られてしまったことは。
 思わずキルケーはタンを抱きしめていた。

「っ……キルケー……?」
「いいのよ、タン。あなたがそこまでしなくても、いいのよ……」

(フェリルの馬鹿。なんでこの子を置いていったの)

 心の中でいなくなった少女対して文句を言っていた。
 一緒にいたなら、その後でどうなっていても、こんな風に一人だけ残されたタンが傷つくことはなかったはずなのに。
 しかし、起きてしまったことはもうどうしようもない。

「キルケー、止めないで……タンは、タンは……」
「なんで……。タンがそんなことしても、フェリルはきっと喜ばないわ」
「タンも……タンも行かなきゃ……タンも……」
「……っ」

 駄目だ。
 タンは現実逃避し、完全に後追いモードに入ってしまっている。

 どうしたらいいのだろう。
 どうやって止めればいいのだろう。
 大事な人、とタンは言う。これほどまでにフェリルのことを強く想っているなんてキルケーは知らなかった。

(フェリル……あなたは、ずるいよ)

 ちろりと灰色の火が心の中で燃えるのを感じた。タンにここまで想われている彼女に、嫉妬の感情が沸きあがる。
 そして、一つだけ、解決方法を思いついた。

(でも、それは……)

 それは、ある意味最低の方法だ。
 失敗すれば今よりもっと酷いことになるし、成功しても自分で自分を許せなくなるかもしれない。
 だけど、これ以上タンを放っておくことはできなかった。そして何より、心の中に燃え上がった嫉妬の炎が、今のキルケーの背中を後押しした。

「タン……大事な人と、一緒にいたいのね?」
「………うん」

 小さく頷くタン。
 次の瞬間、その口をキルケーの口が塞いでいた。

「ん……っ!?」

 タンの目が見開かれる。
 とくん。
 お互いの心臓が一つ大きく高鳴るのを感じた。

(ごめんね、フェリル)

 心の中でキルケーは彼女に謝罪する。

(この子はしばらく、私が預かるわ)

「ぷは……っ。な、なに……?」

 キルケーはゆっくりと眼帯を外すと、

「タン、私の目を見て」

 魔眼の力を解放した。


<3>


 いつからだろう。タンに対して、特別な想いを抱くようになったのは。

 最初に出会ったときは、タンの素性を疑っていた。賢者というには、タンの外見は明らかに幼く、頼りなく見えたから。

 けれど共に冒険をし始めてからは、何度もタンに助けられた。もしタンとパーティを組まずに、適当な傭兵でも雇い入れていたなら、キルケーは今こうして無事にはいられなかっただろう。

 初めての冒険の苦しさや辛さの中で、常にキルケーに笑いかけてくれるタンへの想いはいつしか仲間としての感情を越えようとしていた。

 優しいタン。どんなに自分が辛いときでも、笑顔で励ましてくれるタン。

 そんなタンの虚ろな顔は、キルケーには耐えられなかった。
 だから、使った。

 操錠の魔眼。
 ゴーレムを操り、人を操る魔性の眼。よほどのことがない限り封印していたそれで、タンに一つの暗示をかけた。

 私のことを、フェリルと思え、と。



「んむっ……はふ……」
「ん………」

 月の光が差し込む部屋で、二つの陰が重なる。
 口付けを交わす二人の少女。キルケーとタン。

「ぷはっ……フェリル……」

 けれどタンは、キルケーのことをフェリルと呼んだ。その顔は確かに、目の前に親友の姿を認めて赤く上気している。
 魔眼の力による暗示の効果。
 キルケーは、自分をフェリルと思いこませることで、タンのストレスを解消しようとしたのだった。

 親友の姿を前にすれば、タンの現実逃避や自滅衝動は無くなるはずだ。
 後は思う存分、甘えさせてやればいい。

(親友……っていうには、もう一線越えちゃってるみたいだけど)

 潤んだ瞳のタンを目の前にして、そんなことを考えた。
 行為に対する反応から見て、フェリルとタンの関係は、明らかに親友以上だった。
 それは、かつて心に傷を負ったフェリルをタンが身を呈して癒したことが原因なのだが、キルケーには知り得ないことだった。
 キルケーの胸のどこかを、また灰色の炎がちろりと焼く。

「フェリル……もう、どこにもいかないよね」

 すがり付いてくるタンを、そっと抱きしめる。心地良い体温が、一時的にキルケーの中の嫉妬を和らげてくれる。
 このままずっと、フェリルでいようか。そんな気持ちさえ沸いてくる。
 そっと髪を梳くように頭を撫でる。柔らかく暖かい黒髪の感触。

「大丈夫……私は、ここにいるでしょう?」

 優しく諭す言葉も、今のタンにはフェリルの声として届いているはずだった。

「うん。……フェリルの心臓、すごくドキドキしてる」
「そ、そう? きっと、タンが、好きだからね」

 慌ててごまかす。タンとキスしてから、キルケーの鼓動は早鐘のように鳴り始め、いまや耳まで真赤に染まっていた。
 そのくせ思考だけは妙に冷静に状況を分析している。

(やっぱり、私、タンのことが――)

 自分はノーマルだと思ってたのに。そんなことを思いながら、再びキルケーを口を近づけた。

「ん………」

 タンもそれに応える。
 重なり合う柔らかな唇。ぴくんと震える狼耳。 

(もうちょっと……深くしてみるかな……)

 ふとそんな欲求が沸いた。
 そっと舌で唇をなぞると、タンはすんなり口を開いて受け入れた。

「んむ……っ」

 舌が絡み合う。交じり合う唾液。
 キルケーの鼓動が跳ねる。

(あ、ちょっと、やば……)

 急速に全身の温度が上がっていくのを感じた。比例するように、目の前の少女への想いが募っていく。
 キスが、こんなに興奮するものだとは知らなかった。
 思考が徐々に白く染められていく。

「んんっ……ふぅっ……」

 それはタンも同じらしい。目がとろんと溶け、頬が真赤に染まっている。
 互いの体温が熱く熱く燃えていく。

「はっ……ん……」
「ぁむ………」

 ぴちゃり。
 まるで別の生き物のように絡み合う舌と舌が立てる音。骨を伝わって、直接頭の中に響く。
 首筋がじんじんとしびれ始める。

(このままじゃ、おかしく――)

 危険を感じ始めたキルケーの視線の先で。
 もじ、とタンが切なげに両膝を擦り合わせた。

 その意味を悟ると同時に、

(――――――だめ、だ)

 自分の理性があっさり弾け飛ぶのを感じた。

「ぷは………」

 唇を離す。
 お互いの舌と舌が、糸を引いて離れた。

 そして、ゆっくりとタンの身体をベッドの上に横たえる。

「あ……フェリル……っ」
「ごめん……ちょっと、もう、止まらない」

 小さな身体が震えていた。キルケーもまた震えを止められなかった。
 心臓はますます高速で脈打ち、呼吸が荒くなっていく。
 周囲の音が遠のいていく。
 キルケーは震える指先で、そっとタンの衣服を脱がし始めた。


<4>


「やぁ……あっ…ふぁっ」

 これで、いいのかな?
 熱に浮かされるままに行為を続ける一方で、冷静な自分が考えている。

 これは、本当にタンのためなんだろうか。
 自分の欲求を満たすための行為に過ぎないんじゃないのか。

 加熱しすぎて、真っ白になった頭の中。視界さえ霞んで、目の前の光景がどこか遠くの幻想世界のことのように思える。

「あっ……だめ…だめぇ……」

 タンの白い裸体が、キルケーの下で踊っている。熱に染まり汗が滲んだ肌が、この少女には似つかわしくないほど艶かしく輝いている。

 はむ、とタンの大きな耳を甘噛みする。

「ひきゃ……っ」

 目を見開き、大きく口を開いて喘ぐタン。
 熱い体液が溢れ、そこを弄り続ける指先を濡らした。

「やああっ、やああぁぁ……」

 想像以上に、敏感な少女だった。刺激を与えれば、その倍の反応が返ってくる。
 そしてその度、キルケーは自分の下半身にも甘い痺れが走るのを感じた。

 それは間違いなく快感だった。

 タンの身体を、自分の想いが染めていく。フェリルが染めた色を上から自分の色が塗りつぶしていく。
 舌で、指先で、掌で、肌で、キルケーがタンを征服していく。

  ――タン。
  ――好きだよ。タン。

「あ………んんんっっ」

 完全にとろけた顔で、されるがままのタンが、舌を突き出してキスをねだる。
 興奮のままに、何度も何度も唇を合わせた。

 空いていたキルケーの片手を、タンの手がぎゅっと握り締める。快楽の波に流されてしまわないように。

「もうっ……いかないで…っ…いかないでぇぇ」

 そして、目の前の人がどこかに遠くに行ってしまわないように。

  ――大丈夫。どこへも行かないよ。
  ――私は、ここにいるから。
  ――だから、私の名を呼んで。

 一層強く刺激を与える。
 桜色の乳首を舐り、陰核を激しくこすり上げた。
 弓なりに背を反らし、タンが絶頂へと導かれる。
 雷に撃たれたかのように、跳ねる小さな体躯。キルケーの腕の中で、熱く熱く煮えたぎる。

「フェリル……っ」

 タンが名前を呼ぶ。

  ――違うよ、それは私の名前じゃない。

「あ…っ、フェリル、フェリルぅ、もう、無理……」

 切ない声で。何度も、何度も。

  ――そうじゃない。私の名前。私の名前を――。

「フェリルっ! ああっ、あああああっっっ!!!」

  ――私の、名前は――。

 その瞬間。
 達したタンの瞳に映っている人物は確かに、キルケーではなかったように見えた。

 とろりと溢れ出したタンの想いの証が、膝を濡らすのを感じながら。

  ――どうして。

 キルケーの中の何かが、ひび割れて崩れ落ちていく。

  ――こんなはずじゃ。
  ――なかったのに。

 ゆっくりと、興奮が冷めていくのを感じた。


<5>


「フェリル……あったかい……」

 抱きしめあい、ベッドの横たわりながら、温もり分かち合う。
 愛しい時間のはずなのに、どこか、空しい。

「これから、ずっと一緒だよね、フェリル……?」
「そうよ、タン。ずっと一緒に……」

 これから先、キルケーがフェリルとして振る舞い続ければタンは少しずつ心の力を取り戻していく。そうして元気になってくれるなら、それはキルケーにとって嬉しいことだった。
 なのに。

「フェリル……」

 悲しかった。
 タンがフェリルの名を呼ぶたびに、どうしようもなく悲しかった。胸の奥に、きゅっと鋭い切なさが走る。

「ああ、フェリル……」

 幸せそうなタンの声。

(……馬鹿だな、私)

 悲しさばかりが募っていく。
 当たり前だった。他人のふりをして、好きな人と一緒にいられても、相手は自分のことは見てくれない。
 どれだけ想いを告げたところで、実ることは決してないのだ。

(こんな、みじめになるはずじゃ、無かったのに)

 キルケーの頬を一筋の涙が零れ落ちた。

「? ……泣いて、いるの?」
「……泣いてなんか、ないわ」

 じっと見つめてくるタンに、無理矢理笑顔を作って応える。

「……悲しいんだね」
「……悲しくなんか――」
「もう……ここまでにしよう? キルケー」

 キルケーの目が見開かれた。

「これ以上、嘘をついても……キルケーも、タンも、壊れちゃうよ」

 絶句する。

「……いつから、気づいていたの?」
「途中から……フェリルは、タンちゃんって呼ぶから……。
 ごめんね。タン、キルケーがそんなに辛かったなんて、思わなかった」

 魔眼の力は、魔法に抵抗力を持つ相手には効果が薄くなる。そういう相手にかけた術は、些細なことで解けることもある。そんな初歩的なことを、キルケーはすっかり失念していた。
 自分を殴ってやりたい気分だった。
 タンは途中で気付いていながら、最後までキルケーの芝居に付き合おうとしてくれていたのだ。

「……ごめん。私……こんなひどい、嘘を……」

 終わった。
 事前に危惧していた通りだ。自分で自分を許せなかった。
 がらがらと足元が崩れていく気がした。
 だがタンは、

「ううん……キルケーの嘘は、やさしい嘘だったよ。だから続けたの。
 タン、嬉しかったよ。さっきのタン、幸せだったもの」

 今、幻は晴れ、タンの目には、紛れも無くキルケーの顔が映っている。

「……おかげで、なんだか、頭、スッキリした」

 自分からフェリルの幻を否定することで、タンは今はっきりと、フェリルの喪失を受け入れていた。
 キルケーは結果的に、確かにタンを自滅の道から助けていた。

「……ありがとう。キルケー」

 その言葉で、キルケーは幾分か救われた気がした。
 笑顔をキルケーに向けてくるタン。フェリルに起きた事実を認めたタン。笑っているのに、ひどく悲しそうで。

 いつもと同じだった。どんなに自分が辛くても、タンは笑いかけてくれる。
 けれど、今は。今だけは――。

 キルケーは無言でタンを抱き寄せた。タンはされるままに、キルケーの胸へ顔をつける。

「………タン」

 タンの肩が震えていた。現実を受け入れた衝撃に、今にも何かが溢れそうになっていた。

(私にできることは、もう一つだけ)

 もはやフェリルではない自分にできることがあるとすれば、それはタンの想いを全て吐き出させてやることだけだ。

「フェリルになってみて、わかったわ。タンは……本当に、フェリルのことが好きだったのね」

 穏やかな口調で語りかける。
 思い知っていた。どうやっても、自分ではフェリルに勝つことはできなかったのだと。

「うん。フェリルが好き……」

 タンが震える声で言う。ポロポロと、涙が零れ始める。

「今だって……っく……だいすき、だよ……」

 嗚咽が込み上げ始めたタンの背中をそっと撫でて、

「泣いていいよ。私はフェリルになれなかったけど、胸は貸してあげられるから……」

 その言葉で、決壊した。

「ううう…っ…うっ…うわあああああああああああああああああああああああああ」

 内から溢れる感情のままに、タンは泣き叫んだ。
 子供のように泣きじゃくるタンを抱きしめながら、キルケーもまた泣いていた。
 タンの悲しさを受け止めたかった。その悲しみで、キルケーの悲しみを塗りつぶしてしまいたかった。

 やがて二人は泣き疲れ、徐々にまどろみへと向かっていった。

「……一つだけ、教えて。キルケーはどうして、ここまでしてくれたの?」

 睡魔によって瞼を落としかけながら、タンが聞く。

「タンが……困ってたから」
「………」
「好きな人が困ってたら……助けなきゃ」
「………」

 その言葉にタンは何かを思い出しているようだった。
 最後にタンは小さく、ありがとう、と呟いて眠りに落ち、キルケーもまたまどろみに身を委ねた。

 明日には、タンがきっと、今より元気でいられますように。

 恋に破れた切なさを胸に、それでもキルケーはタンの幸せを胸に祈って眠りについた。


<6>


 翌朝。
 キルケーがベッドで目覚めたとき、隣にタンの姿は無かった。

「タン………?」

 昨夜の疲労を振り払いつつ、階下に向かうと、そこにはリエッタとタンが待っていた。

「おはよう、キルケー」
「タン、その格好………」

 タンは新緑色のローブを纏っていた。フェリルがただ一つ残していったもの。

「これを着れば、フェリルが傍にいてくれるような気がするから」
「そう………」

 少しだけ寂しさがあった。
 それでもタンが元気になってくれたことは、とてもとても嬉しかった。
 笑顔を浮かべて言う。

「よく似合ってるわよ」
「ありがとう、キルケー……どうしたの? 寂しそう」
「そ、そんなことないわよ。でもフェリルが傍にいるなら、タンはきっと寂しくないね」

 そう言うと、タンは笑顔で頷く。

「うん、寂しくないよ。大事な人が、一緒にいてくれると嬉しいよ」

 その言葉に胸に小さな痛みが走る。
 そしてタンは、

「だからキルケー。これからも、タンと一緒に、いてくれる……?」

 上目遣いにおずおずとキルケーを見上げて言った。

(――――――)

 思わず、タンをぎゅっと抱きしめていた。

「わふ…っ」
「一緒にいるよ……タン」

 キルケーの腕の中に愛しい温もり。
 タンは少し驚いていたが、すぐに嬉しそうに目を細める。

「ずっと、一緒に……」

 自分は、フェリルの代わりにはなれなかった。
 けれど、タンはキルケーを必要としてくれていた。今は、それだけで良かった。それだけで満たされる気がした。

 傍らで二人を見ていたリエッタが優しく微笑んでいた。

「それじゃ、酒場に、行こう?」
「うん。行こうか」

 こうして三人は新たな朝に、再び冒険へと赴いた。
 キルケーとタン。歩き出した二人の手は、お互いをしっかりと握っていた。



 一方その頃、酒場では。

「………遅い! すぐ酒場に来るかと思って、結局一晩待ってしまったではないか!」
「黒曜。だから俺は宿に一度戻れって行ったんだよ」

 ぽつんと一人で待ち続けている黒曜に、ペペが呆れていた。