<1>


 月日が流れた。
 再び旅立ってから一年という時間が経過し、フェリルは恐ろしいほどの早さで実力を身につけていった。
 かつてのフレシアとまではいかないまでも、剣の扱いでは並の冒険者を遥かに凌ぎ、魔法もまた一流の魔術師イルビットも舌を巻くほどの勢いで吸収をしていった。

 ある日、フェリルたちは元仲間のフレシアが経営する酒場を訪ねた。

「久々だね、フェリル。最近じゃ、あんたの名声もよく耳にするよ。もうすっかり一人前じゃないか」
「あはは、まだまだだよ。もっと頑張らなくちゃ」

 笑いあいながら再会を喜んで杯を交わし、色々な話に華を咲かせた。
 一段落したところで、

「で、フェリル。あえて尋ねてきたからには、何か聞きたいことがあるんだろう?」
「うん。フレシア、良い魔法戦士の人って知らないかな?」
「魔法戦士? ああ、あんたは確かに魔法戦士向きだけどね」

 フェリルは体格にはあまり恵まれず、最後に体力が物を言う実戦の剣技においては伸びしろに限界があった。しかし魔法を扱う才能は秀でているため、魔法戦士の素質は十二分に備えている。
 だが、魔法戦士特有の術を学ぶには、実際に魔法戦士に教えてもらうのが一番だ。
 フレシアなら、その辺りの人脈には厚い。

「それなら丁度、一人そこにいるけど」

 見るとすぐ隣のカウンター席でグラスを傾ける女性が一人。

「あ、ええとっ」

 慌てて立ち上がるフェリル。
 その魔法戦士にも話は聞こえていたらしく、

「かしこまらなくていいわよ。魔法戦士になりたいのね?」

 振り向いた女性の顔を見てフェリルははっとする。
 相当な美人だった。顔立ちもさながら、翡翠色の髪はまさに宝石のような光を宿している。顔の半分を覆う眼帯さえもが、彼女の美しさを引き立てているかのようだった。

「私もまだまだ半人前だけど、それで構わないのなら。
 ただ、その前に教えてくれないかしら。あなたが魔法戦士を目指す理由」

 女性の切れ長の瞳が静かにフェリルを見つめる。何かを探るように。

「これは勘だけど、強くなりたいってだけじゃないでしょう?」
 
 まさしくその通り、フェリルの目的は単に強くなることではない。
 真剣な表情で答える。

「思い出さなきゃいけないことがあるんです」

 フェリルの記憶から抜け落ちた約半年の期間。その忘却は、フェリルにとって良い結果をもたらした。
 陵辱の記憶を無くしたおかげでフェリルは確かに立ち直り、こうして一人前にまでなることができたのだから。

 だが、旅を続けるうちに、いつからかフェリルの中に浮かんで消えない思いが生まれた。
 このまま全てを忘れたままでいいのだろうか、と。

「大事な人が、いたはずなんです」

 夢に見ることがある。半獣人の少女が一人で寂しそうに佇んでいる夢。
 フェリルはその少女を知っているはずだった。なのに、名前が思い出せない。

「忘れてしまった。いえ、忘れさせられたんです。忘却の魔法で」

 その言葉に、背後に座っていたイルビットとエインチェスカが飛び上がらんばかりに驚く。

「フェリル、お前……」
「色々勉強したからね。イルビットたちが黙ってたことは、仕方ないよ。
 実際、あのときの私には忘れることが必要だったと思うから」

 でも、とフェリルは続ける。

「いつまでも忘れてちゃいけない。それは事実から目を逸らしてるってことだから。
 あの子のことを、思い出さなくちゃいけない。今はそう感じてる」

 記憶を失った理由を悟ったとき、フェリルは自分が過去から逃げ続けていたのだと知った。
 そして、決めたのだ。立ち向かおう、と。
 ずっと見ないことにしていた自分の悪夢と、決着をつける。

「私は強くなったよ。今なら、全てを思い出しても、耐えられる」

 言い切る。
 この一年の間に必死で磨き上げた実力から来る自信があった。

「……なるほどね。そういうこと、か」

 女性は何かに納得したように頷くと、

「その思い出す手段が、魔法戦士になることなの?」
「はい。魔法戦士の術には高めた魔力を剣や肉体宿して力に変える術あるって聞きました。
 それを応用すれば、自身の魔力で忘却の術を打ち破ることも……」
「なるほど。確かに……上手く条件が合えば、できるでしょうね」

 高レベルの賢者にでも頼れば、忘却の術を解いてもらうことも可能なはずだった。
 だが、フェリルはあくまで自分の力でこの術を破りたいと思った。それが、自分の成長に証になる気がして。

「わかったわ。ただ、私の方で教える条件を二つほど提示してもいいかしら」
「……はい」
「一つは、私もあなたたちの旅にしばらくの間同行すること。
 そしてもう一つは、」

 そこで女性は微笑んで、

「私とはタメ口で話すこと。いい、フェリル?」
「あ……はい!」
「ほら、早速」
「あ、うん」

 一同にどっと笑いが溢れた。
 この人、良い人だな。フェリルはそう思った。

「それじゃ、よろしくね。フェリル。私の名前も、呼び捨てでいいわよ。私の名は――」

 キルケー。彼女はそう名乗った。


<2>


 そんなやり取りがあってから、二ヶ月。
 フェリルはキルケーと共に旅をする傍ら、魔法戦士になるための訓練に明け暮れた。
 魔力を肉体や剣に集積させるための精神集中は想像以上に困難だったが、それでもこの一年発揮し続けてきた向上心で成功させた。

「フェリルの成長度は予想以上ね。これほどまでとは思わなかったわ」

 今では魔力の集積にも大分手慣れてきたフェリルに、キルケーが感心する。

「教えてくれる人がいいから」
「そ、そんなことないわよ。うん。フェリルの努力の賜物よ。うん」

 照れたのか微かに頬を染めるキルケー。気を取り直して、

「……とにかく、私があなたにできることは今日のこれが最後」
「それじゃあ?」

 キルケーは頷き、

「今からやる訓練を成功させれば、多分あなたの記憶は戻ることになる。
 ちょっと危険な方法になるけど……覚悟はいい?」

 失敗するならまだいい。成功した上で、蘇った記憶に耐え切れなければ、フェリルは性奴隷に逆戻りだ。
 それでもフェリルはまっすぐにキルケーの眼を見つめ、

「大丈夫、覚悟はできてるよ」
「それじゃ、訓練の前に一つ。
 フェリル、私は貴女と出会う前、あなたのことをあまり良く思っていなかった時期があったわ。とあることが理由でね」
「え?」

 唐突に新たな事実を明らかにされて驚く。

「でも、この二ヶ月間、龍神の迷宮と同じだけの時間を一緒に冒険してみてわかった。
 あなたは確かにあの子に慕われるだけの魅力を持っていて、そして私はあなた達二人のために、自分の役割を果たすべきなんだってね」

 穏やかな眼差しを、フェリルは正面から見つめ返す。
 キルケーの瞳の奥に決意の光が見えた気がした。

「だから、あなたに記憶を思い出させる。それが、私の選択。
 そして選んだ以上、この剣にかけて、何が起こっても後悔はしない」

 ゆっくりと剣を構えるキルケー。
 途端に周囲の魔力がキルケーに集積し始めた。魔力の流れに動かされて、強い風が吹き荒れる。

「今から、あなたに剣を通して相当量の魔力を叩き込むわ。
 あなたもありったけの魔力を肉体と剣に集めて、弾き返して見せなさい。
 ぶつかり合う魔力の圧力が、貴女の記憶封印の術をも内側から弾き飛ばしてくれる。
 ――失敗すれば、怪我じゃすまない」

 上手く相殺できなければ、命を落としかねない。フェリルも、そして膨大な魔力を操作するキルケー自身も。
 キルケーはフェリルを信頼してくれているのだ。でなければ、こんな危険な方法を実行しようとは思わない。
 だからこそフェリルは怖気づくことなく剣を構え、

「私も後悔しないよ、何が起こっても。
 でも、大丈夫、きっとやり遂げてみせる!」

 信じていた。自分の可能性と、キルケーのことを。
 ゆっくりとニ、三度深呼吸をすると、フェリルもまた魔力の集積を開始する。
 強風が暴風にまで変化し周囲の物をなぎ倒す。

 もはや訓練ではなかった。これはフェリルに与えられた試練。
 記憶を取り戻すための最後の関門に、フェリルは決意を胸に挑んでいった。


<3>


「ただいま、ご主人様。やっと……帰って、これたよ」

 朝靄の中、その少女は一つの墓の前にいた。
 火災により荒れ果てた丘の上。かつてここにあった館は炎によって綺麗さっぱり姿を消し、今ではその残骸が辺りに散らばるだけ。過ぎ行く季節の中で、灰の中からは徐々に緑が芽生え始め、ここであった悲劇の痕跡を覆い隠そうとしていた。
 近くの村人たちが善意で立ててくれたという、館に暮らしていた魔術師の墓。誰も名前を知らなかったため墓標に名は刻まれていない。

「色々なことが、あったよ」

 主人の眠るその墓の前で、少女は死者に話しかける。
 首輪と手枷をつけられた半獣人の少女。ここに眠る男と共に暮らしていた娘。
 年月を経て体つきは見違えるほど女らしくなり、長く伸ばした黒髪は絹のような輝きを宿していた。以前には無かった狼の尾が朝の風に揺れる。

 だがその顔はくたびれ果て、その服はあちこちを引き裂かれてボロボロになっていた。

「少し長くなるけど、話すね。どんなことがあったのか」

 少女は墓の前に座り込むと、旅先であったことを一つ一つ語り始めた。
 嬉しそうに。時には悲しそうに。長かったようで短かった旅の話を。
 太陽が登りはじめ、日差しが強く辺りを照らしても、少女は汗を拭おうともせずに話し続けた。
 ひとしきり話し終えて、 

「ありがとう、ご主人様。とっても、楽しかった」

 自分に旅の機会を与えてくれたことに礼を言った。

「もっと話していたいけど……見つかっちゃった、みたい」

 音もなく姿を現す男たちがいた。全身を黒ずくめの装備で固めた戦士たち。一様に殺気を帯び、その数は40名ほど。
 集団を率いているのは見慣れた顔だった。

「ヒヒッ、こんなところに隠れてやがったか」

 フェリルとタンを執拗に狙う男、ナーブ。

 一年前。
 フェリル一行を見送った後、主人の眠る丘へと向かおうとしたタンを、ナーブとその手下が襲撃した。そのときは何とか撃退したものの、以降ナーブは執拗にタンを追い続け、隙あらば何度でも襲撃をしてきた。

 ナーブたちの手並みは鮮やかだった。街や村など、休める場所に入ろうとする度に先回りされて襲われるのである。
 結果、タンは食事も睡眠もろくに満たされない状態で逃げ回るしかなかった。時々行商人と遭遇する幸運が無ければ、すぐに力尽きていただろう。

 善意ある行商人の中には王国に知らせようか提案してくれる人もいた。
 だが、クルルミク王国には頼れない。タンはワイズマン事件の真相を知る数少ない冒険者の一人だったからだ。
 王国は恐らくタンとその仲間が真相を知っていることを把握している。迂闊に世話になりたくはなかった。

 ならば友人に助けを、とも言われたが、キルケーには会わないと決めていた。フェリル一行は論外である。その他の友人は連絡先がわからなかった。

 いっそ国を移動することも考えたが、やはりその度に先手を打たれて王国から出れない。

 手詰まりだった。

 それでもタンは頑張った。
 できるだけ姿を隠しながら、フェリルへの想いと、キルケーから教わったことを支えに耐え続けた。
 しかし相手の追撃は日に日に激化し、一年が経つ頃には、タンの体力も精神力も限界を迎えていた。

 多分、次に襲われたら、負ける。

 もはやこれまでと悟ったタンは、必死に追手を振り払ってこの丘へとやってきた。
 主人に今までのことを報告し、そして最期はその隣で眠るために。

「散々抵抗しやがって、もはやてめぇは捕まえてから犯すなんて悠長なことはしてやらねぇ。
 まず殺す。その後で、思う存分犯してやる」

 ナーブが狂気を潜めた笑みを浮かべて言う。
 チェックメイト。
 ナーブ本人はともかく、他の男たちはナーブの雇ったプロだ。統率された戦闘のプロフェッショナル数十名を前に、どうやったところで今のタンに勝ち目はない。
 だが、絶体絶命な状況で、少女は微笑む。

「何を笑ってやがる。頭がおかしくなったか?」

 どのみち、ここで死ぬつもりだった。
 悔いが無いと言えば嘘になる。もう一度だけ、会いたい人たちがいた。
 けれど、自分がすべき役割はもう果たした。
 後はきっと、上手くいく。そう信じることにした。
 それにナーブはフェリルの復活に気づいていない。タンがここで死ねば、この男は満足し、フェリルは安心して旅を続けられるはずだった。

「……できれば、痛く、しないでほしいな」
「ククッ、できるだけ痛めつけて殺してやるよ」

 男たちが抜剣する。数瞬後にはその刃が殺到し、少女の体はただの肉塊へと変わる。
 恐怖があった。顔から血の気が引いていくのがわかる。足ががくがくと震える。
 けれど少女は立っていた。自分の運命を受け入れて。

「そら、かかれ!」

 一斉に迫る男たち。

(ご主人様。今、逝くよ)

 かつて果たせなかった、主人と共に逝くという願い。
 今こそタンは、その想いを遂げようとして―――。

 そのとき、奇妙な既視感を覚えた。

 脳裏にふとよぎる思い出。
 あれはもう二年ほども前のこと。こんな風に40人の男たちに囲まれて絶体絶命の状況だったときがあった。
 あのとき、ギリギリで助けにきてくれた少女がいた。月明かりの下、たった一人で、その銀髪をなびかせて。
 その姿は、今でも鮮明に思い出せる。少女にとっての一番大切な記憶の一つだから。

 そう、だからこそ。

「…―――見つけたよ、タンちゃん」

 あのときと同じ言葉と共に、あのときと同じように颯爽と銀髪をなびかせた少女が現れたとき。
 タンはそれを幻だと思った。


<4>


 時はわずかに遡る。
 最後の訓練は無事に終了した。

「……思い出したよ……全部、思い出した」

 フェリルはその場でうずくまったまま、しばらく動けなかった。
 一度に取り戻された悪夢。身も心も堕ちたときの記憶は、やはり衝撃だった。
 様々な負の感情と悦楽の記憶が、フェリルを再び性奴隷に変えようとした。

 だが同時に、大切なことも思い出した。
 クルルミクでの出来事。確かに嫌なことも多かったけど、良い思い出だってたくさんあった。
 一緒に冒険した仲間。酒場で大騒ぎした友達。そして、あの半獣人の少女。

 耐え切った。今度は、心を折られずに。

「おめでとう。……これでやっと、義理が果たせるわ」
「キルケー、もしかして、最初から?」
「……うん。あなたに記憶を思い出して欲しかったから」

 キルケーは事情を説明してくれた。
 龍神の迷宮での冒険を終えてしばらく後、キルケーはタンからの手紙を受け取った。それによるとフェリルを助けたが、諸事情からすぐ別れたという。
 何か引っかかるものを感じたキルケーは旅をしがてらフェリルを追い、そして実際に話してみてタンとの間に何があったのか悟ったらしい。
 そして、フェリルの記憶を取り戻すことに尽力することを決意したという。

「ずっと黙ってて、ごめんなさい」
「謝らないで。魔法戦士の訓練をしてくれたこと、記憶を取り戻せたこと、心底から感謝してるよ」

 偽りのない本心からの言葉。

「キルケーは、私のかけがえのない仲間の一人だよ。
 けれどもう一人、大切な仲間がいる。今、ここにはいない子が」
「……そうね」

 その言葉にキルケーも頷き、一枚の地図を取り出した。ある一箇所の地名に赤い丸が記されている。ここからそれほど離れてはいない場所。

「実はこっそり人に頼んで調べてもらってたの。
 突然消息を断った、ある女の子の行方をね」

 誰のことか、すぐにわかった。

「あの子はどうやら、誰かに追われているみたい。
 でも幸いまだ無事で、この地図の場所へ向かったそうよ」
「そっか……」

 足に力をこめて、立ち上がる。
 ふつふつと沸いてくる熱い気持ちがあった。

「フェリル。あの子を迎えに行ってあげて。それはきっと、あなたがするべき役目だから」

 キルケーの真摯な眼差しにフェリルは頷く。

「うん。キルケーもあの子も、皆、自分の役目を果たしたんだよね。
 だから今度は、私が役目を果たす番。――迎えにいってくるよ、タンちゃんを」


<5>


 そうして、フェリルはこの場所に立っていた。

 目の前には40名余りの男たち。
 ふと昔の記憶が蘇る。
 かつてフェリルはタンと共に、同じ位の人数の暴漢たちと戦ったことがある。
 あの時は結局タンに助けられてばかりだった。

 だが、今は違う。
 タンは見るからに衰弱して戦闘不能。フェリル一人で、目の前の敵を倒さねばならない。

 できる。きっと、できる。
 自分に言い聞かせる。

 一年間。死に物狂いで努力した。
 今こそ証明すべきときだった。自分が、どれだけ成長したのかということを。



「バカな……」

 ナーブの震える声。自らの手で再起不能にしたはずの少女が立っていることへの驚愕。
 目を見張り、動きが止まる。

 予定外の乱入者の登場に、しかし手下の男たちは動じなかった。
 5人ほどが妨害を阻止するために向かってくる。残りはタンへと走る。

 刹那、空を銀光が走った。フェリルが一瞬で抜き放った剣を投げたのである。
 その剣は見事な狙いでタンの足元に突き刺さり、次の瞬間。

「『閃光』」

 フェリルの呟きと共に、その刀身が眩い光を放った。タンへと走っていた男たちが目を眩ませて一瞬竦む。
 目眩ましの術を組み込んだ戦術の組み立て―――フェリルの得意技。
 フェリルへと向かっていた5人は光の影響を受けずに剣を振るう。だが、その斬撃の悉くが金属音と共に受け流された。

「鞘で受けた!?」

 驚いた男の鳩尾に容赦の無い打撃。崩れ落ちる男を踏み台にしてフェリルが跳躍する。銀色の髪が翻る。
 そのまま男たちの肩を足場にして、一気にタンの元へ。目が眩みながらもタンへ向かって刃を振り下ろす男たち。それより僅かに早く、タンを掻っ攫う。
 閃光によって目が眩んでいたタンは、突然抱え上げられて、何が何だかわからない。

「くそっ、逃がすな!」

 相手の次の一手が逃走だと読んだナーブが叫ぶ。だがフェリルは逃げるつもりなど毛頭ない。
 タンを抱えたまま堂々と立ちはだかり、

「唸れ、唸れ、風精の輪舞―――」

 呪文詠唱。タンが驚きに目を見開く。その魔法は、あのときタンが使った魔法と同じ。
 否。同じ呪文ながら、フェリルの方が篭められた魔力が遥かに大きい。

「―――巻き上げ、貫き、叩きつけよ!」

 直後、豪風が吹き荒れた。大地を抉るほどの空気の流れが猛然と襲い掛かる。
 予想外の大魔法の発動に、男たちが驚愕の間もなく吹き飛ばされ、地面に叩きつけられて動かなくなった。
 後に立っているのは、立ち止まっていたナーブのみ。

「ばっ……ばかな! そんなバカな! プロの連中が40人だぞ!?
 お前みたいな凡人が、こんな芸当、できるわけが――」

 その言葉にフェリルは微笑む。

「凡人だよ。ただ、ほんの少し、死ぬ気で頑張ってみただけ」

 そう言って、タンを下ろして前に出る。地面に刺さっていた自分の剣を抜く。
 徐々に視力が戻ってきたタンに、そのフェリルの背中が映った。一年前とは比べようもないほど、頼もしい雰囲気を纏った背中。

「畜生ォ、ふざけるんじゃねぇ! 俺のモノで散々喘いでいた女がっ……うおおおおおおおおお!!」

 目の前の現実を認められないナーブが、剣を抜いて迫ってくる。

 フェリルは落ちついて剣を構える。
 脳裏によぎる、目の前の男に陵辱され性奴にされた記憶。
 けれど一切動じることなく、自分でも驚くほどの冷静さで忌まわしき記憶を振り払った。

「――――『撃剣破』」

 キルケーから直々に授けられた魔法剣技。
 タンは凄まじい魔力が一瞬のうちに少女の剣に集中するのを感じた。
 そして、一閃。


 その瞬間、フェリルは、己が過去の自分を越えたのだということを実感した。


 甲高い金属音が響いた。
 宙を舞う刃。ナーブの剣が半ばから切断されていた。

「――――――!!」

 ナーブが慌てて飛びのくより早く、その股間に深々とフェリルの爪先が突き刺さった。

「ひゅぐっ」

 喉から奇妙な音を出して、目を剥き、そのまま突っ伏して動かなくなるナーブ。
 そのナーブに対し、フェリルは剣を改めて握り直すと、

「ふぅ」

 そのまま鞘に収めた。

「……殺さんのか」

 男たちの一人が、ふらつきながら起き上がる。どうやら意識はあったらしい。

「殺したくない。だから、連れて帰ってくれないかな」

 少女の返答に男は驚く。

「貴殿の仇ではないのか、その男は」
「その通りだよ。でもね、別にもういいやって」

 あの陵辱の日々は確かに地獄だった。
 だが、フェリルは既にその記憶を乗り越え、前に進んでいる。
 旅人が既に越えた山の高さに悩むことが無いように、フェリルにとってナーブはもはや復讐する必要のない存在だった。

「それに、この場所を血で汚したくないしね。
 あなた達も、もう仕事できないだろうし、帰ったら?」

 周囲に倒れた他の男たちは死んではいないが完全に気を失っている。
 確かに現状を見れば、任務の遂行は不可能。

「……それだけの腕を持ちながら、随分、甘いのだな」
「甘くていいよ。甘い物の方が好きだしね」

 さらりと言ってのける少女に男はふと笑って、

「大した器だ。名を聞いておこうか。もっとも、我等に名乗るほどお人良しならの話だが」
「フェリル・エイフェンス」

 エイフェンス。キングクインから独立したシェルフースの有力貴族の一つ。暗殺者の男は今度こそ驚愕する。
 それほどの名を隠さないとは、それだけ自分の腕に自信を持っているということ。そしてその自信が自惚れでないことは、たった今証明されたばかりだった。

「ますますもって大した女よ。一つ良いことを教えてやる」

 覆面の下に笑みの気配を滲ませながら、男はナーブを担ぎ上げる。

「この男は借金までして我等を雇い入れていた。雇用の期限は本日。もはや、この男の願いが達せられることはないだろう」
「……なんで、そこまでして」
「ふむ。これはまぁ、ウッカリ口を滑らせたのだと思って欲しいのだが――」

 男はふと神妙な顔つきになって。

「この男は、どうも、汝らを憎むと同時に……惚れこんでいたようだった。
 その愛情表現は、自分の手で相手を壊すという歪んだものだったようだがな」

 男の言葉にフェリルとタンが目を白黒させる。

「さて、喋りすぎた。ではこれにて……御免」

 そう言って男は口笛を吹く。途端に一陣の風が吹き、男たちは音も無く姿を消していた。
 その去り際を見て、フェリルは一人納得する。

「シノビの人たちかぁ。確かにフウマさんと雰囲気が似てると思った」


<6>


「久しぶりだね、タンちゃん」

 剣を鞘に収めて振り向いたフェリルを、タンは座り込んだまま呆然と見上げていた。
 どこまでも澄んだ青の瞳。日の光に透けて輝く銀の髪が、柔らかに風に解ける。
 健康的な色の肌には瑞々しさが溢れ、以前より伸びた背と女らしい柔らかさを手に入れた肢体。
 けれど少し幼さの残る顔に浮かぶ表情は、全く昔と変わらずに輝いている。
 二度と出会うことがなかったはずの人。

 はっとして、タンは慌てて顔を隠す。

「え……あ……ど、ちらさま、ですか」

 相手を見ないように、自分を見せないように。
 自分は、二度と姿を現してはいけないはずなのだから。

 ふぁさっとタンを暖かいものが包む。

「あ……?」

 フェリルが優しくタンを抱きしめていた。
 懐かしい匂いと、温もりに包まれる。

「大丈夫、全部思い出したよ。だからもう、隠さなくてもいいから」

 顔を隠していた両手をどければ、フェリルの優しい微笑み。
 タンの瞳は目の前の事を未だ信じられず、ぼんやりと遠くを見ている。

「色々な人に助けてもらっちゃった。
 タンちゃんやフレシア、イルビット、エイン、キルケー……」
「え……」

 ふと出た仲間の名前にぴくりとタンが反応する。
 フェリルは頷き、

「話さなくちゃいけないことがたくさんあるけど、全部話してたら日が暮れちゃう。
 だから――」

 この上なく真剣な表情を浮かべて、

「――今は、三つだけ言うね。一つは、“ごめんなさい”」

 何度も何度もタンに迷惑をかけてしまった。
 傷つけてごめん。裏切ってごめん。酷いことをしてごめん。
 謝りたいことがたくさんあった。その全てを、その一言に込めた。

「もう一つは、“ありがとう”」

 どれほどタンに助けられたかわからない。支えられたかわからない。
 今フェリルがあるのは、間違いなくタンのおかげだった。
 いくら言葉を尽くしてもきっと伝えきれない気持ちを、その一言に込めた。

「最後に、もし、私を許してくれるのなら―――“またこれからも、よろしく”」

 そして、新たな始まりの言葉。
 その言葉に、ようやくタンの目に光が戻り始めた。おずおずとフェリルの体を抱きしめて、戸惑ったように口を開く。

「……一緒にいて、いいの?」

 その顔は懸命に何かを堪えていた。
 何度も何度もすれ違い、一年以上もの間必死に押さえ続けてきた感情が、今にも溢れそうになっていた。

「一緒に行こう、タンちゃん。
 また一緒に旅して、一緒に祭をまわって、一緒にキャンディを食べよう。
 今度こそ、私は約束を果たすから」

 フェリルが笑う。タンの好きな、太陽のような笑顔で。

「だって私たち、友達じゃない」

 タンの瞳から、ぽろりと涙が零れた。

「あっ……」

 一度決壊した涙は止めようがなく、次々とタンの頬を流れ始める。

「あ……うっく……う……」
「たった一人で、よく頑張ったね、タンちゃん」

 もう一度、強く抱きしめる。

「でも、今は、私がいるから」

 だから、もう、我慢しなくていいんだよ。

「あ…うっ……うぁっ……」

 そして、もはや我慢なんて、できるはずもなかった。

「うっ………うああああああああああああああああああああああああああ!!!
 フェリルっ! フェリルぅぅ!!」

 小さな子供のように泣きじゃくるタンを抱きしめて、フェリルは思った。
 これでようやく、戻ることができたのだと。
 散々遠回りしてしまったけれど。
 二年もかかってしまったけれど。
 やっと、元通りになることができたのだと。

「――――――ん?」

 何か小さな金属音がした。
 見ると、地面に何かが落ちている。

「あ……れ…?」

 それはタンの手枷と首輪だった。
 生まれつき奴隷として自由を制限されていたタンを象徴していたかのような、魔法の手枷と首輪。
 どうやっても外れなかったそれらが、独りでに外れて落ちていた。

「ご主人様が………」

 タンが涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま空の彼方を見つめ、狼耳をぴくぴくと動かす。

「タンちゃん?」
「ご主人様が、今……行きなさいって……言った気が、した」

 フェリルは傍らに立つ、魔術師の墓を見る。
 そこに見えない誰かが、優しい誰かがいる気がした。

「……行こう、タンちゃん。皆が、待ってるよ」
「…………うん」

 フェリルに支えられながら立ち上がり、タンは魔術師の墓と向き合う。

「…………………」

 きっともう、ここには戻らない。

「………いってきます。ご主人様」

 だからこそ、満面の笑顔でタンは別れを告げた。
 優しく頭を撫でてくれた、初恋の人に。

 そして二人は歩き出す。その手をしっかりと繋いで。

 季節は夏。
 雲一つない蒼天の下で、名も無き魔術師の墓が遠ざかる二つの影を見送っていた。


<7>


 それから先の話は、あまり多くを語る必要はない。
 一行は新たにタンを加えて旅を続けた。フェリルとキルケーという大好きな二人との旅に、タンは何度か幸せすぎて卒倒するという不思議な技を披露した。

 その後、イルビットとエインチェスカは冒険者を引退。
 フェリルとキルケーとタン、三人は多くの冒険を経た後、フェリルの故郷シュフルースで大きな事件を解決。華々しく称えられる。
 キルケーはそのまま旅を続けたが、フェリルとタンはフェリルの実家であるエイフェンス家に留まった。タンはそこで養女として迎えられ、フェリルの妹となる。

 タンは、それほど長くは生きられなかった。
 短命な獣人の血ゆえ、22歳の誕生日を前にしてこの世を去る。
 だが、フェリルの腕の中で最期の眠りについたとき、その表情は幸福に満ちていた。

 フェリルは魔術儀式によってタンの賢者の声を受け継ぎ、タンの死後、再び旅に出て世界各地で名声を上げる。
 その後、賢者の声は次期当主となるフェリルの息子に受け継がれ、以降エイフェンス当主は代々賢者の知識を封じた魔法陣をその舌に受け継ぐことで有名となる。
 その血筋はキングクインが滅んだ後も末永く続いたという。



 誰も訪れることなき小高い丘。
 名も無き男の墓の傍らに、見事な大樹が聳えていた。たくさんのフウキンチョウたちが、そこで少しだけ翼を休め、再び飛び立っていく。
 樹の枝の中に、きらりと光るものが二つある。
 小さな首輪と小さな手枷が、朝露に濡れて光っていた。