<1>


 穏やかな日差しの午後、イルビットは今日もその場所へ赴いた。
 一行の泊まっている宿の裏手の広場。素振りをしている彼女に声をかける。

「……また練習か、フェリル。あまり激しい運動は体に毒だぞ」
「あ。イルビット。大丈夫だよ、もう、すっかり元気になったから」

 笑顔で答えて、再び剣を振り始めるフェリル。
 その姿は、つい最近まで娼婦としてどん底にいた者とは思えない。
 それもそのはずだった。

「それに、私の記憶じゃ、少し前まで普通に冒険してたんだから」

 フェリルは、クルルミクの地であったことの全てを覚えてないのだから。



 半年前、確かに単身で龍神の迷宮へと向かっていったフェリル。
 だが、そこでフェリル自身の記憶は途切れ、気がつけばベッドの上で、イルビットとエインチェスカが心配そうに覗き込んでいた。

 イルビットの口から聞かされたことは、少なからず衝撃だった。
 自分が龍神の迷宮でならず者に捕縛され、陵辱されたこと。その後、娼婦として売られ、数ヶ月もの間非合法の娼館で大勢の男たちの慰み者になっていたこと。
 居場所を知ったイルビットとエインチェスカが最寄りの街の騎士団を引き連れて、大勢の娼婦と一緒にフェリルを助けだしたときには、日々の陵辱のショックで記憶を無くしていたのだという。

 教えられてすぐには実感は沸かなかった。
 だが、後で自分の裸を見たとき、そこに刻まれた様々な陵辱の跡を見つけ、理解した。
 自分が汚されてしまったということを。
 その夜、フェリルは声もなく泣いた。

「新しい装備は用意してある。だが、くれぐれも無理をするなよ。
 お前の体は、本当にボロボロだったんだから」
「うん……、でも、本当に平気だから」

 自分に起きた出来事を理解してから、フェリルはしかし折れなかった。それどころか、以前よりも戦闘の訓練にのめり込むようになった。
 何度も何度も剣を素振りし、肉体が疲れれば部屋に戻ってイルビットの魔導書を読み漁り、頭を使うのにも疲れれば泥のように眠った。

 夜中にどうしようもなく体が疼いて目が覚めてしまうこともあった。性奴隷だったときの名残。
 歯を食いしばって、耐えた。性欲に流されれば、また性の虜に戻ってしまう可能性があると、エインチェスカに言われていた。

 再起のための過酷な日々の中で、フェリルは心の底から強くなりたいと願った。
 身をもって知ったのだ。弱肉強食の冒険者の世界で、弱い者がどういう目に遭うのかということを。

「強く、ならなきゃいけないんだ。折角、もう一度立ち上がるチャンスを得たんだから!」

 その目には、強い意志の光が宿っていた。



「全部忘れちゃったのは、良かったのかもしれないって思うよ」

 素振りの手をふと休め、フェリルは呟いた。

「クルルミクでは、きっと色々なことがあったから」
「………………」

 ワイズマンの事件の大体の顛末はフェリルも聞いた。
 迷宮に挑んだ女冒険者たちの半数は攫われて行方不明に、さらに残りの半数もならず者により陵辱された。まったく無事でいられた女冒険者はほんの一握りだったという。
 一緒に挑んだはずの仲間や友達が、どうなったのか。
 フェリルにはまだ、それを受け止めるだけの心の余裕はなかった。

「忘れちゃいけないことも、たくさんあったはずだとは思う。
 でも、もし覚えてたら、色々と悩んで立ち直れなかったかもしれない」

 何より、言葉で聞いただけで寒気がする陵辱の日々を、もしも覚えていたのなら、きっと自分の心は耐え切れなかっただろう。

「…………差し入れの弁当は、ここに置いておくぞ」
「うん。ありがとう。もう少し振ったら食べることにするね」

 切り株に弁当を置いて去っていくイルビットの背に、

「イルビット」

 フェリルが唐突に声をかけた。

「どうした?」
「あのさ、私を助けにきたのって、本当にイルビットとエインだけだった?」
「………………」
「なんか、他に誰かがいたような気が―――」

 首をかしげるフェリルに、

「気のせいだ」

 イルビットはすっぱりと言い放った。

「……そっか。変なことを言って、ごめん」
「いや……。じゃあ、また後でな」
「うん」

 再び背を向け、イルビットは去っていく。
 その顔に滲んだやりきれなさに、フェリルが気づくことはなかった。


<2>


「失礼するよ」

 フェリルと別れたイルビットは、そのまま別の宿へと向かった。
 そこの三階の一室に、フェリルの救出以来、一度も宿から出てこない少女がいる。

「フェリルは……どうだった?」

 部屋に入ると、椅子に座って本を読んでいたタンが顔を上げて聞いてきた。

「……経過は良好、といったところか。
 全てを忘れているよ。クルルミクの地であったこと。娼婦にされて働いていたこと。
 そして、タン。君のことも」
「……そう」

 タンの顔が和らぐ。

「それなら、良かった」

 そう言った。
 少女の狼耳が、少しだけ寂しそうに揺れた。



 あの夜、タンがフェリルに放ったのは殺傷の魔法ではなかった。
 タンにはフェリルを殺すことなど絶対にできなかった。だから、殺さずにフェリルを救う方法を考え、実行した。
 忘却の術でフェリルの絶望の原因、龍神の迷宮に挑んでからの出来事の全てを忘れさせたのである。

 嫌な記憶を忘れることは、精神への負担を減らす。
 タンは、自分を消してというフェリルの頼みに記憶を忘れさせることで応え、同時にその追い詰められた精神を救おうとしたのだった。

 だが一つ問題があった。
 タンの使った忘却魔法は記憶を消去するのではなく、封印して思い出せなくする魔法である。
 しかし、この魔法には欠点がある。
 忘れさせた記憶に関わり深いものに触れると、連想によって魔法が解けてしまうことがあるのだ。ゆえに連想を促すような別の記憶も封印しなければならなかった。

 すなわち。
 フェリルの精神に最もダメージを与えた出来事は、タンを二度も襲ってしまったことだった。
 この記憶を封印するためには、タンのことも全て忘れさせなければならない。

 そのことを知った上でタンは、迷わずに魔法を実行した。

 フェリルが元通りになるとは限らない。
 肉体と精神に刻まれた深い傷は、記憶がなくても彼女を苛むだろう。
 それでも立ち直れる可能性があるなら、タンはそれに賭けようと思った。

 そして賭けは、成功した。
 フェリルは、タンも驚くほどの向上心で回復しつつあった。

「だが、本当にこれでよかったのか」
「………………」

 今のフェリルにとって、タンは危険な存在になってしまった。タンのことがきっかけで、絶望を思い出す可能性がある。
 だから今後、タンは二度とフェリルの前に姿を見せることはできない。

「ずっと、会いたかったのだろう。なのに、こんな」
「……お別れの言葉は、済ませたから」

 本当ならば、こんなはずではなかった。
 再会して、一緒に旅をして、約束していた祭を一緒にまわって。楽しい日々を夢想していた。
 けれど、そうはならなかった。 
 フェリルが生き延びるために、タンは切り捨てられなければならない要素だったから。

 だからあの夜、さよならを言った。

 ―――ばいばい、フェリル

 今のフェリルは、もうそれすらも覚えてはいない。

「タンが、悪かったんだよ。イルビットたち、待たなかったから」
「それは違う。フェリルの体と心は限界だった。合流を待っていたら、廃人になっていた可能性が強い」

 あの時点でフェリルをすぐ助けに行けたのはタンのみ。
 タンが行くことで、フェリルが絶望への最後の一歩を踏み出してしまうことなど、誰にも予想できなかった。

「何故、こんなことになってしまったのだろうな。
 君たちは、何も悪いことはしていなかったというのに」

 イルビットが嘆息する。

「……大丈夫。タンは、満足してるよ」

 立ち上がり、タンは窓からこっそりと外の景色を見下ろした。
 そこからは近所の宿の裏庭が見える。素振りを終えたフェリルが、切り株に腰かけて一休みしていた。
 差し入れの弁当を美味しそうに頬張るその顔には、かつての明るいフェリルが戻っている。

「フェリルが、元気になってくれた。タン、満足だよ」

 フェリルにはやっぱり、明るい笑顔がよく似合う。
 あの笑顔が見れただけで、タンは報われる思いだった。

「人は誰とだって、最後には、別れる日が来るんだよ。
 フェリルとは、それが少し……早かったってだけ」

 自分に言い聞かせるようにタンは呟き、そっと手の平に置いた物を握り締めた。
 大粒のブルーダイヤ。キルケーから別れ際にもらった物。

「……フェリルは、もうすぐ、また旅を始めるよね」
「……そうだな」
「フェリルを、支えてあげて。今度は、失敗することがないように。
 フェリルの夢を、叶えてあげて」

 イルビットの目を真っ直ぐに見つめるタン。

「フェリルが望みを叶えることが、今のタンの望みだから」

 心底からの願いだった。

「わかっているよ。だが……君は、どうするんだ。
 この間言っていた、キルケー嬢の元へ行くのか?」
「フェリルを助けたら、報告してって言われた。
 だから手紙は出す。でも……」

 会いに行くことはできない。優しい彼女に会えば、全てを話してしまうから。
 キルケーの性格をタンはよく知っている。彼女がこの結末を知ったなら、フェリルとタンを何とかして再会させる手段を考えようとしかねない。
 それだけは、ダメだった。
 もう決めたのだから。二度とフェリルには会わないと。
 それでフェリルは確実に救われる。なら、それでいい。

「では、どうする?」
「……帰ろうかな、ご主人様のところに」
「主人? 主がいたのか」

 イルビットには初耳だった。タンは天涯孤独の身だと聞いていた。

「フェリルに魔法をかけたとき、思い出した。
 タンを、奴隷商人のところから助け出してくれた人がいるの」

 優しい手の平の持ち主。タンの恩人。
 彼との別れもまた、炎の中でのことだった。
 フェリルとの別れの状況がタンに過去を連想させ、封じられていた記憶が蘇っていた。

「今は、ご主人様はたった一人。だから、タンが傍に行ってあげなきゃ、寂しいと思う」
「そう、か」

 それなら良かった、とイルビットは思う。
 正直なところ、寂しがりやのこの少女が、フェリルと一緒にいられなくなることで早まったことをしないか心配だったのだ。

「帰るところがあるなら、心配しなくてもいいな」
「うん。タンは、大丈夫だから。フェリルに力を貸してあげて」
「ああ。約束するよ。フェリルは必ず立派な冒険者にしてみせる」

 その言葉に、タンは嬉しそうに微笑んだ。
 イルビットには知る由もないことだった。タンの主人は既にこの世にはなく、その館も炭と灰しか残されていないことなど。


<3>


 それから一月ほどの時が過ぎ、フェリルの旅立つ朝がやってきた。

「んーーーーーっ」

 宿の前で伸びを一つ。朝の日差しと、静謐な空気が気持ち良い。

「久々だな、こうしてまた共に旅をするときが来るとは」
「そうですね。なんだか嬉しくなってきちゃいます。ねぇ、フェリルさん」

 傍らに立つイルビットとエインチェスカに、フェリルは笑顔で答える。

「あんまり久しぶりって実感はないけどね。
 でも、また二人と一緒に旅ができるのは、うれしいよ」

 イルビットは地図を取り出して、

「で、どうする。お前の行きたい遺跡や名所には一通りチェックしてみたが」
「ん。見せて見せて」

 地図を広げるフェリル。ふと、眉を潜めて、

「……イルビット。ここの街、一度チェックをつけた後に消してあるけど」
「あ、ああ。それはな。間違えたんだ。そこの街には特に何もない」
「ふーん……」

 だが、頭のどこかにひっかかった。
 この街にフェリルは行ったことがある気がした。
 そして、そこで誰かと出会った気がした。背が小さくて、暖かくて、まるで妹のような――。

「……ま、いいか」

 よく思い出せないことを考えてもしかたない。今は、これからの冒険のことについて考えよう。

「うーん、ここからどこへ行くにしても、この街道の先の隣街を通った方が良さそうだね。
 そっちには冒険者の集まる酒場もあるみただし、まずはそこを目指そう」
「わかった。問題ないだろう」
「了解です」

 そして歩き出そうとして、

「あ、ちょっと待って!」
「今度はなんだ」

 フェリルは道端で開いていた露店を見つけて、駆けていった。
 そしてそこで何かを買って戻ってきた。

「はい、イルビット、エイン。これ、美味しいんだよ」

 人数分買ってきたそれを、イルビットとエインに渡す。

「ん? これは棒キャンディじゃないか。フェリルはこういうの好きだったか?」
「あはは、好きなのは私じゃなくてね、タンちゃんが―――」

 ―――――――――。

「――――――あれ?」

 ぽたり、と棒キャンディを握った手に雫が落ちた。

「今、私……だれ、かの……名前……」

 次々と零れ落ちていく雫。

「フェリルさん……」
「あ、はは。ごめん、なんか、涙が、勝手に……あ、あれ? ははは」

 慌てて涙を拭う。その手には、人数分買ってきたはずのキャンディ。
 イルビットに渡し、エインに渡し、しかしフェリルの手の中には二本のキャンディが残っていた。

「……行こう、フェリル」
「あ、うん。ごめんね。なんか、変。すぐ、元通りになるから……」

 一行は歩き出す。次の街へと向かって。

「……ところで、私、今、誰かの名前、言った?」

 涙を拭きながら、不思議そうな顔で首をかしげるフェリルに。

「いいや」
「誰の名前も……言ってませんよ」

 二人の仲間は穏やかに返した。



 三人の姿が小さくなっていく。
 その様子を、物陰からこっそり、半獣人の少女が見送っていた。

 これでやっとフェリルは、在るべき場所へ帰ることができた。
 そして笑顔と共に、今度こそ旅を成功させるだろう。

 タンは幸福だった。
 もうフェリルには二度と会えない。けれどフェリルの幸福を思い、その旅の成功を思うだけで、タンもまた幸福だった。

 だから、フェリルに笑顔が戻ってきたように、タンもまた、笑顔で一行を見送った。

 視界が滲むのは気のせいだった。
 頬を何かが流れていくのも、気のせいだった。
 胸の奥が張り裂けそうになるほど痛いのも、きっと気のせいに違いなかった。

「元気でね、フェリル」

 遠ざかっていく三つの人影。やがて彼等が見えなくなってしまった後も、その少女はそこにいて、親友の背中を見送っていた。
 いつまでも。
 いつまでも。