<1>
薄暗い森の中を、タンは走っていた。目指す館はすぐそこにある。
クルルミクでの冒険が終わり、キルケーたちと別れてからずっと探し続けていたフェリルの行方。彼女の居場所について情報を入手した瞬間に、タンは即座に行動を開始していた。
フェリルの仲間であったイルビットたちには連絡をしてある。予定では彼らとの合流を待ってから行動するはずだった。
だが、タンはこうして待ちきれずにフェリルの元へと急いでいる。
それというのも、フェリルの居場所に問題があったからだ。
娼館。それも、裏社会の。
クルルミク北方。グラッセンとの国境付近の森に密かに存在し、扱う商品は近隣諸国からさらって来た特別な身分の娘ばかり。
そこでは口に出すのも憚られるような猟奇的なプレイの数々が許されており、そこの娼婦で半年以上の期間を生きられる者は少ない。散々慰み者にされた挙句に殺人趣味の者によって命を散らされ、人肉食趣味の者の胃袋に収められるのが、そこに送られた者たちの末路だった。
女を家畜としか見ていない悪魔たちが巣食う場所。
そんな地獄のような場所にフェリル売られてから、数ヶ月の時間が経過している。
もはや一刻の猶予もなかった。
(フェリル!)
息を切らせて走るタン。最寄りの町まで馬を飛ばしてからは、休みなく走り続けている。
足腰が悲鳴をあげ、何度も転びかけたが、タンは立ち止まらない。
(フェリルっ……!)
その脳裏に浮かんでやまない親友の顔。迷宮を冒険していた頃には必死で押さえこんでいたフェリルへの想いが、ここへきて一気に溢れ出していた。
もしかしたら、フェリルはとっくに――。
頭に去来する悪い予感を必死に振り払って、走る。
(今行くよ、フェリル……!)
目的の館の黒い影が見えてくる。頑丈そうな黒金の大きな門扉。門番らしき屈強な男たちが、タンを認めて身構える。
いつもなら人間相手に本気を出すことのないタンだった。だが、今夜、この場所にいる男たちには一切の容赦はしないと決めていた。
「呪文、再生!!!」
直後、凄まじい轟音と共に、館の門は男たちごと吹き飛んだ。
<2>
ここへ来て、もう何日が過ぎたのだろう。
虚ろな頭でフェリルは思う。
今日も、何十人もの男たちの相手をさせられた。最近では、もはや犯されることに何の感情も沸かない。
呼吸と同じ。食事と同じ。排泄と同じ。自分はそういう存在なのだから。
けれど何も感じなくなった精神とは裏腹に、肉体は性の快楽に染まりきり、四六時中熱を帯びて疼くようになっていた。
男は客。奉仕して、ねだる。そうすれば気持ちよくしてくれる。
女は娼婦仲間。押し倒して絡み合う。そうすれば気持ちよくなれる。
媚薬を使われたわけでもないのに頭の中には霞がかかり、性交以外のことをしようなど考えられない。
今のフェリルにとって、人間はすべからく自分の性欲を満たしてくれる存在にすぎず、フェリル自身もまた何も考えず快楽を味わうだけの肉人形に過ぎなかった。
だから。
突然館のあちこちで轟音が響き渡り、人が慌しく廊下を走り回っても、フェリルは何も気にすることなく、
「フェリル! 見つけた!!」
どこかで見たような少女が飛び込んできたときも、
「見かけない子……新入り、かな」
「……え、フェリル? なに、を――」
「じゃあ、気持ち良いこと、教えてあげる」
フェリルはいつも通り、彼女を押し倒して陵辱した。
「やっ……フェリル!? やっ……あああああああああああああっ!?」
ねっとりとした快楽の時間。
少女を思う存分に弄りまわし、自分も少女の体を使って快楽を得る。
泣きそうな表情を浮かべ、悲鳴をあげながらもフェリルにされるがままの少女。
舌で、掌で、指先で、悦楽を共有する。いつも通りの背徳の時間。
けれど何だかいつもと違う。
目の前の少女が顔を歪め、許しを願う度に、フェリルの中の記憶がゆっくりと蘇ってきた。
そうだ。
あれは確か、クルルミクで冒険をしていた頃。
暴走して、こんな風にこの子を弄んでしまったことがあった。
この子?
この子って、誰?
「フェリルっ……正気に、もどってぇ……っ」
聞き覚えのある声。
私は、この子を知っている。
この子は。この子の名前は――。
「………………タン、ちゃん?」
その名を思い出すと同時に、急に頭の中が晴れた。
目の前の光景を改めて認識する。
「良かった。フェリル……気が、ついた……」
フェリルに組み敷かれた半獣人の少女。
乱れた衣服。引き裂かれた下着。容赦なく嬲られた秘所とフェリルの指との間に引いた糸。
晒された乳首にはフェリルの歯型が痛々しく残り、散々舌で蹂躙した肌には唾液の跡が光っている。
涙の滲んだ目で見上げているのは、紛れもなく親友の少女だった。
「な………なん、で………」
自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。
「助けに、きた、よ……。もう、男の人は、みんな追っ払った、から。逃げ、だせる、よ」
「あ……あああ…ああ……」
「追い払うときに火を使ったから、早くしないと危険……フェリル?」
正気を失う前に待ち望んでいた救いの到来。だが、嬉しさなど微塵もない。
押し寄せる罪悪感があった。
また、やってしまった。
かつてこの少女を傷つけたとき、もう二度とやらないと誓ったことを。
「もう……もう、私……こんなとこまで、堕ちて……」
男に陵辱され、調教され、娼婦にされて、散々嫌がっていたはずのことを。
親友に対して、やってしまった。
それも、自分勝手な快楽に溺れて。
「ふぇ、フェリル。しっかり?」
「ああ……ああああああああああああああああああああ!!!」
二人以外に人のいなくなった館に、フェリルの悲鳴が木霊した。
それは絶望の叫びだった。
<3>
燃えていた。
二度と抜け出せないと思っていた悪夢の館が、真紅の轟炎に包まれて、夜空を焦がしながら崩れていく。
あまりにも、呆気ない終わり。
「…………私、何してたんだろ」
タンに連れられて外に出たフェリルは、燃えさかる館を見上げて呆然と呟いた。
こんなに簡単に壊れるような場所で、ひたすら快楽に溺れることしかできなかった自分。
抜け出そうなんて思わなかった。怖かったから。そんな力無いからと、諦めていた。
逃避していた。自分の弱さを言い訳にして。
その挙句の果てに、助けにきてくれた親友にまで手をかけた。
「最、低な、私………」
自分自身への深い失望と絶望があった。
フェリルの心から、あらゆる力が急速に失われていく。
「フェリル。館が崩れたら、ここにも炎が来る。はやく、逃げよう」
館に捕らわれていた娼婦たちを近くの川原へと誘導し終え、タンが声をかけてくる。
けれどフェリルは動けなかった。
「……生きてちゃいけない」
「え?」
こんなに汚らしい生き物である私は、もう生きてちゃいけない。
一歩を踏み出す。炎の館へ向かって。
「フェリルっ!?」
「ごめんね、タンちゃん……」
振り返ったフェリルの顔を見て、タンは息を飲んだ。
虚ろな顔。全ての気力を失い、絶望しきった顔。
「汚れるだけ汚れちゃった……もう、戻れない」
「そ、そんなこと、ないよ! フェリルは、まだ――」
タンの言葉を皆まで聞かず、フェリルは服の裾をたくし上げて見せた。下着をつけていない秘所が露になる。
濡れていた。炎の光に照らされたそこは淫らに輝き、一筋の雫が太腿を流れた。
「私の体ね……四六時中、男を欲しがるようになっちゃった。
こうしてる間にも……体、疼いちゃってる。
頭の中も、やらしいことしか考えられなくて。さっきも、タンちゃんのことさえわからなかった。
私……壊れちゃった。もう、壊れちゃったんだよ」
「そ、そんなの、治るよ! きっと!」
必死で否定するタンに、フェリルは首を振る。
「堕ちきった人間は……戻れない。
ここで何人も、そういう人、見てきたから」
簡単に治るようなら、ここまで深みにはまったりしない。
調教され、性奴隷にされた女は、もはや普通の生活には戻れないのだ。
性の虜になった体やひび割れた精神は、どんな優秀な回復魔法でさえも癒せない。
「私は冒険者フェリルじゃない。もう、娼婦フェリル。
でも、私の中にほんの少しだけ残った冒険者フェリルが、娼婦フェリルを否定してるの。
お前なんか、消えてしまえって」
心が張り裂けそうなほどの、自分への嫌悪感。
汚らわしいフェリル。いやらしいフェリル。親友まで傷つけて。
死んでしまえ。今すぐ、死んでしまえ。
「だから、死ぬよ。私、ここで」
「っ!?」
呟くように、言う。
「……疲れちゃった」
かつて輝いていた青の瞳は光を失い、柔らかだった唇はカサカサに乾いていた。
瑞々しかった肌は痛めつけられ、透き通るような銀髪は多くの精液を吸って酷くくすみ以前の面影はない。
くたびれ果てた、哀れな娼婦。
少女が夢想した、美しいものに溢れているはずだった冒険の、これが結末。
(終わりに、しよう)
また、逃げるの?
心のどこかで、それは逃避に過ぎないと言う自分が言う。
けれど、もう一度立ち上がるだけの力なんて、どこにも残されていなかった。
タンの顔が、青ざめているのがわかる。
ごめんね。心の中で謝る。ほんとうに、ごめんね。
「………さよなら」
そして燃え盛る炎の館へと振り向き、一歩を踏み出し―――たところで、タンがフェリルにしがみついた。
「ま、待って! フェリル、行かないで!」
「……離してよ、タンちゃん」
「タンは、なんでもするよ!
フェリルがどんな風になったって、平気だよ!
言うことだって、何でも聞くから。
だから、だから、フェリルっ……」
必死に止めようとする。
相手を否定できない性分のタンには、自分の身を差し出すことでしか説得する術を持たない。
「だったら――」
そのときのフェリルには、自分がどれほど残酷な言葉を口にしようとしているのか、理解するだけの余裕はなかった。
虚ろな表情のまま、タンを振り返って、告げた。
「私を、殺してよ」
<4>
「………え?」
タンはフェリルの全てが好きだった。
フェリルがタンに望むことなら、何でもやりたいと思っていた。
生まれつき奴隷だったタンにとって、好きな相手にそうして奉仕するのは自然なことだったから。
だが、今。
「私を、殺してよ、タンちゃん……」
フェリルは、殺してと言った。冗談でも何でもなく、本心から。
「え………え?」
混乱した。
フェリルが望んでいる。なら叶えてあげたい。
だけどフェリルを殺すなんて、タンにはできない。
フェリルの全てを肯定してきたタンにとって、その願いは自分の在り方と矛盾するものだった。
(ど、どう、しよう……どう、したら………)
心の内で賢者に問いかけてみても、何も答えを出してくれない。
「ほら、こうして……」
フェリルはタンを振り返ると、その両手を持ち上げて自分の頭に添えさせた。
「タンちゃんなら、楽に、死なせてくれるでしょ?」
「や……やぁ……っ」
タンの全身がガタガタと震え始める。
「な、なん、で、フェリル……っ」
何故、そんなことを言うのか。
何故、一緒に行ってはくれないのか。
何故、殺してなんて頼むのか。
折角、また会えたのに。
「……お願い、タンちゃん」
どこまでも虚ろな表情のフェリルが、タンにせがむ。
「タンちゃんに殺されるなら……タンちゃんにした酷いことの償い、少しはできると思うから」
「そ、そんなの……タンは、気にして、な…っ」
「私自身が、ゆるせないんだ。ごめんね……私の勝手、押し付けちゃって。
でも、私の頼みを一つ聞いてくれるというのなら、お願い」
フェリルの最後の願い。
私を、殺して。
「た、タン……は……」
震える声。
そんなタンを見つめるフェリルの瞳は、どこまでも深く、暗い。
(そう、なんだ。フェリルは、もう……)
理解してしまっていた。
フェリルは死ぬ。ここでタンが殺さなくても、きっと自ら命を断つ。彼女の絶望は深すぎて、タンにはどうにもできない。
(ごめんね……フェリル。フェリルが壊れちゃう前に、見つけてあげられなくて)
全てが、遅すぎた。
賢者の知識があっても、フェリルの親友であっても、もはやフェリルの心と体をを元通りに治すことなんてできないのだ。
(だったら、もう、タンにできることは――――)
汚れてしまった自分を消したい。
そんなフェリルに、タンがしてやれること。
タンは答えを出そうとしていた。
「フェリル、が……望むなら、タンは……叶えて、あげたい……」
その手に徐々に力がこもり、フェリルの頭をしっかりと押さえる。
手のひらに当たるフェリルの頬が温かかった。悲しいほど、温かかった。
「だから……タン、は……フェリル、を……フェリル、を……」
タンの瞳に徐々に決意の光が宿り、フェリルの光の消えた瞳をまっすぐに見つめる。
「……………ふぇ、りる」
フェリルとタン。
知り合って長い年月が過ぎたわけではないけれど、お互いに相手のことを強く想ってきた二人。
一緒に遊んだ。色々な話をした。冒険をした。
振り返ってみれば、そこに流れていた時間は間違いなく幸福の時間だった。
「……タン、楽しかった……よ。フェリルと……会えて」
「……私も、きっと、楽しかったんだと、思う」
燃え盛る柱の一つが勢いよく二人の傍に倒れてきた。
凄まじい熱と火の粉が押し寄せる。それでも二人は動じることなく見つめ合っていた。
「………………」
「………………」
やがて、
「タン………フェリルのこと、大好き」
ぽつりと呟いたタンの言葉に、
「うん」
フェリルが虚ろなまま微かに笑みを浮かて、
「私も、タンちゃんのことが大好き」
――――――――――――。
「呪文、再生」
白い光に包まれながら、フェリルは思い出していた。
タンと二人でお祭をまわり、キャンディを一緒に食べたこと。
(ああ。あのキャンディ、美味しかったなぁ)
少しだけ、あの頃に戻りたいと思った。空しい夢想に過ぎないとわかっていたけど。
そういえば、また一緒にお祭をまわるという約束も、結局果たすことはできなかった。
(タンちゃん。もしも生まれ変わったなら、私は、もう一度タンちゃんと―――)
「………ばいばい、フェリル」
最後の瞬間、タンの優しい笑顔を見た気がした。