その少女には、表情がなかった。

「さて、ご来場の紳士の皆様! お次の品は本日の目玉でございます。
 獣人と人との禁忌の交わり。その結果生まれたのはご覧の通り。世にも珍しき半獣の少女でござい!」

 そこは闇奴隷市場。その中でも、小さい子供ばかりを選んで売る外道たちの集まる場所。
 主な顧客は、並の道楽に飽き果てた貴族達。だが稀に貴族以外もこの場所を訪れる。

 例えばその壮年の男がそうだった。
 魔術師である。
 うっそりとした表情を、他の客達のように仮面で隠そうともせずに、奴隷商人の説明に聞きいっている。その眼差しの先には“目玉商品”の少女がいた。

 恐らくは美人の類に入るであろう少女だ。
 よく梳かれた黒髪は光沢を帯び、白い肌は陶磁器めいたなめらかさを感じさせる。
 やや上等な奴隷服から伸びる手足は、細さの中に獣人特有のしなやかさを宿し、まだ発達途上のその体つきは、外道の趣味を持つ男垂涎の的だろう。
 そして髪から覗いた、少女の獣人の証である銀色の狼耳は、従順を示すかのようにぴたりと伏せられている。
 だが一つだけ、足りないものがあった。

「ご覧の通り、この少女には表情がございません。何故なら――」

 奴隷商人はそう言い、醜く太った手で少女の衣服越しになでまわす。首筋を、胸を、太ももを、腰を。そのぬめるような手つきに、魔術師の横の座る男が生唾を飲み込む。
 だが少女は、きょとんとした顔で商人を見上げるのみ。

「そう! この少女は知らないのです。自らが何をされているのか。自分が何故ここにいるのか。何も知りません。
 この少女には意図的に教育を行っておりません。ただ、“主人に従順であれ”とのみ教えてあります。
 名前すらありません。何故なら、彼女に名前をつけるのは新しく主人となる方だからです。
 勿論、処女であるのは言うまでもなし。
 すなわち、彼女は真っ白なキャンパスのようなもの。どのように染めるかは新たな主人の方次第です」

 熱をこめて演説する商人。その醜い顔がさらに歪むが、逆に隣の少女の美しさが一層に際立つ。むしろそれも狙いなのだろう。客達はすっかり少女にのめり込み始めているようだった。

「教養が無いと言っても、噛み付かれる心配はありません。
 彼女の混血率は低く、無粋な爪や牙は存在しません。加えて先ほどご覧のように大人しい子です。
 獣人のしなやかさを思う存分に確かめられるでしょう。どのようにして確かめるのかは……まぁ、それこそ口に出すのは無粋でしょうな?」

 品の無いジョークに、同じく品の無い笑いが客達から盛れる。一方、魔術師はぴくりとも表情を変えずに少女を見つめ続けている。

(……ふむ。良質の魔力を備えている。万人に一人の適合者だ。これは来た甲斐があった)

 そうこうしているうちに、競りの時間がやってきた。

「さて、私どもも商売でございます。これだけの少女、タダというにはサービス精神が過ぎるというものでございましょう。
 私どもが真心を示すのと同様、お客様の真心を示していただきとうございます。では、どうぞ!」

 同時に我先にと少女に値がつけられた。どれもこれも、館一つを買えるほどの値段である。もっとも、ここへ来るような貴族達にとっては大した出費ではない。
 値はどんどん釣りあがってゆき、やがては小さな城なら買えるのでは、というほどの金額になったとき。

 初めて魔術師の男が口を開いた。小さな国なら買えるほど値段だった。

 奴隷商人は喜びのあまり泡を吹きながら少女を魔術師に売り渡した。

 

「名前は、なんという」
「………………?」
「……本当にないようだな。それ以前に、言葉も知らんとは」

 自分の館へ向かう馬車の中で、魔術師は少女に何度か声をかけた。
 少女はまさしく一切の教養を与えられていなかった。そして魔術師にとって、それは大きな問題ではなかった。必要なのは彼の魔法実験の素材となる対象だったからだ。
 少女の首には首輪、手には手枷がつけられている。どちらも魔術師が施した魔法の品である。首輪は少女の居場所を常に感知し、万が一魔術師に敵意を持った場合は手枷に封じた魔法で動きを束縛する。少女をあくまで素材として扱おうという魔術師の姿勢が現れていた。

「……お前には、俺の実験の被験体となってもらう。痛みを伴うが、我慢しろ」

 その言葉に、少女はこくりと頷いた。言葉の意味は理解していないだろう。だが、主人が何かを求めれば、本能でその意思を理解して必ず従うように仕込まれているのだ。どこまでも従順に。

 やがて魔術師の館に着いてすぐのことだった。
 長らく外出したことのなかった魔術師は、馬車を降りるなり眩暈を感じてよろめいた。

(しまった。遠出で少し体力を使いすぎたか)

 視界が真っ暗になる。自分がバランスを失ったことを即座に理解し、次に来るであろう地面との衝突の瞬間を覚悟し――――何かやわらかい物を下敷きにした。

「む…………?」

 目の前を覆っていた暗闇が晴れてみれば、魔術師の下敷きになったのは奴隷の少女だった。どうやら、巻き込んで倒れてしまったらしい。
 季節は冬。地面には霜柱がびっしりと立っている。粗末な奴隷服のまま下敷きになった少女の手足は一瞬で凍てついて赤く染まり、膝は擦りむいて血が滲んでいた。
 だが少女はそれを気に止めることなく、魔術師を見上げている。それを見て、少女はわざと避けなかったのだと理解した。

「……立て。そんな格好で、こんな場所に転がるんじゃない」

 主人に従順な、何も知らない、わからない少女。ただ求められていることを感じて実行する。
 この少女が死を理解しているとは思いがたいが、もし死ねと命じられれば確実に即座に実行しようとする雰囲気があった。自らの身を省みることなく。

 ふと、柄にもなく胸が痛んだ。

 それを自覚する前に、魔術師は少女の頭を撫でていた。
 少女はきょとんとした様子で、上目使いに魔術師を見上げている。

「…………言葉を、教えてやる。何かと……不便だろうしな」

 どこかぎこちなく言う魔術師の言葉を少女は理解していない。
 ただ一つだけ。自分の頭を撫でる大きな手を、温かいと思った。
 そして魔術師もまた同様に、久しく忘れていた人の温もりを手のひらで感じ取っていた。
 こうして魔術師と少女の生活は始まった。

 

 その魔術師の男は、かつてはライバルたちを全て蹴落としてクルルミク王国の隣国の宮廷魔術師の地位に登りつめた者だった。だが、次第に才能の限界を感じ、自らを認めさせるために外法の魔法実験にまで手を出した。実験の素材に適合する何人もの少年少女を殺し、やがてその事実が明るみに出るや男は国を追放された。それ以降、抜け殻のようになりながら、辺境の丘に館を構え魔法の研究を続けてきた。

 もちろん、少女はそのような魔術師の事情は一切知らない。
 ただ毎日、言われた通りに言葉の勉強をし、言われた通りに魔法実験の痛みに耐えた。だが、それは並の痛みではなかった。

「……………っっっ!!!」
「我慢しろ。今日の分は、もう終わる」

 椅子に座ったまま手枷に篭めた魔法で身体の動きを封じられ、口を大きく開いた状態で、少女は舌に魔法陣を刻まれていた。
 男の魔法実験は、賢者の知識の移植である。
 一人の賢者の知識を丸ごとコピーし封じ込めた魔法陣を他者の舌に移植する。魔法陣の力で舌を動かさせ、封じてある賢者の知識を、移植した者の声で再生するのだ。
 成功すれば、一般人を短い期間で優れた賢者へと変えられる。軍事目的に利用したときの効果の大きさは計り知れない。各国が喉から手が出るほど欲しがる技術となるはずである。

 だが、実験に伴う痛みは魔術師の予想を遥かに超えていた。
 魔法で陣を刻み付ける際の肉体的な痛みはない。一人の人間の体内に、他者の知識をそっくり植え付けるために、魂が拒絶反応を起こして痛みを感じるのだ。当然、麻酔の類は一切効かない。
 施術の方法さえ未完成だった頃は、何人もの被験者がショック死や精神崩壊を迎えた。
 今ではある程度安全な施術の方法を見出したものの、凄まじい痛みが襲うことまでは止められない。
 少女は辛抱強く痛みに耐えたが、限界はあった。何度となく身を痙攣させ、泡を吹き、失神し、その度にその日は実験を中断せざるを得なかった。無理に強行すれば、折角の素材が簡単に壊れてしまうだろう。

「はーーっ、はーー……」
「……よく、がんばったな。今日はここまでにしよう」
「はい……。ごしゅじん、さま……」

 涎と涙でぐちゃぐちゃになった少女の顔を拭ってやり、頭を撫でてやる。
 すると少女は嬉しそうな顔で目を細めた。
 いつからか、少女には表情が生まれつつあった。
 そして、魔術師の心には、少女に対する愛しさが微かに芽生えつつあった。

(俺は何を考えている……。この子は、ただの奴隷だぞ……)

 必死に自分の心を否定する。実験素材に思いいれてもロクなことはないとわかっていたし、今までそのようなことはなかった。
 だが、懸命に自分に尽くそうとし続ける少女の姿は、とうに枯れたはずの魔術師の心を確かに蘇らせようとしていた。

(何も考えるな。考えてはいけない)

 心の中で自分に強く言い聞かせる。

(急がねばならない。俺と、俺の実験のことを、よく思っていない輩もいる……)

 周囲の邪魔者を全て排除してのし上がってきた魔術師には敵が多かった。否、敵しかいなかったと言っていい。いつ暗殺者を送ってよこされるかもわからないのだ。
 なるべく早く実験を成功させなければならない。そのためには、余分な感情は邪魔だった。

 だが、そんな決意とは裏腹に、娘の頭を撫でてやるたび、そして嬉しそうに目を細める顔を見るたびに、魔術師の中の想いは次第に大きくなっていった。

 

 そして、しばしの月日が過ぎ去った。
 少女は多くのことを学び取り、魔法実験は最後の段階を迎えようとしていた。

 どこまでも澄んだ空の下、魔術師と少女は館の外を歩いている。
 最近の少女は様々な事柄に興味を示す。そしてそんな少女に物事を教えるのが魔術師のささやかな楽しみになっていた。

「あのトリ……なまえ、なに?」

 若干のたどたどしさが残る口調で、少女が尋ねる。

「タネジャー……フウキンチョウの一種だな。この辺りでは珍しい。遠くから渡ってきたのだろう」

 少女が見上げる小さな鳥は、鮮やかな銀のラインの入った黒の翼を青空に広げ、飛んでいく。

「わたし、に、にてる」
「確かに、お前も黒髪に銀色の耳をしている」
「はい……それに、わたし、も、とおくから、きたから」
「…………………」

 少女のどこか寂しげな顔を、魔術師はじっと見つめた。

「自由に、なりたいか? あんな風に」
「ううん」

 少女は即答し、魔術師に微笑みかける。

「ごしゅじんさまが、いるから」

 その言葉に、魔術師はいつものように少女の頭を撫でてやる。
 嬉しそうにする少女。
 そんな少女に、内心の迷いを振り払い、告げる。

「明日、最後の実験を行う。伴う痛みはこれまで以上だろう」
「だいじょうぶ。たえられる」

 いつものように、少女は答える。彼女はこれまでもそうしてきたし、これからもそうするだろう。
 だが、最後の痛みはとてつもないものになるはずだった。
 だから魔術師は、三日三晩迷った末に、ある決断を下していた。

「明日は魔法をお前にかけてから施術する。今日は早めに休んで、体力を養っておけ」
「…? はい、わかった」

 魔術師の様子にどことなく普段と違うものを感じつつも、少女は従順に頷いた。

 

 そして、最後の魔法実験の当日。

「あっ、ああ、ああああーーーーーーっっ!?」

 少女の悲鳴が響き渡る。
 痛みよってではなく、快楽によって。

 魔術師は一つの魔法を少女にかけた。痛みを快楽に変換する魔法である。
 魂の苦痛に麻酔をかけることはできない。魔法でもっても発生する苦痛を無くすことはできない。だが魔法で苦痛の信号を強引に組み換え、快楽に変えてしまうことは可能だった。

「いっ、あ、ああああああっっ」

 少女が背中を弓なりにしならせ、身体を震わせる。全身の肌は汗ばんで上気し、小さな胸は激しい喘ぎに上下し、秘所から溢れた液体は下着を濡らし、腿を伝ってピンと張った足先から床に滴った。
 涎をこぼして激しくおののく少女の指先が、誰かを求めて切なげに動く。だが魔法によって拘束され、その手が届くことはない。

(あああ、ごしゅじんさまっ! ごしゅじんさまぁ!!)

 少女の悦楽に霞んだ瞳に映るのは、紛れもなく目の前の魔術師である。
 魔術師もまた、術式を書き込む傍ら、少女の痴態を目に焼き付けていた。

 本当ならば、こんな魔法を使わずとも痛みを軽減させる方法はいくらでもあった。
 それでもこの手段を選んだのは、結局のところ魔術師の欲望にすぎない。

 魔術師の中にくすぶり続けた想いは、もはや止められないところまで来ていた。
 最初は、ただの奴隷だったはずなのに。いつからか、誰よりも愛しい存在になってしまった。
 理由は自覚している。彼女は、敵しか作ってこなかった魔術師にとっての、初めての味方だったのだ。

 だが少女を抱くことはしない。この少女の処女を奪い、その身体に消えぬ跡を刻む行いは、自分のような道を外れた者がして良い行為ではなかった。
 だからせめて、この身に沸いた恋という狂気を鎮めるために。ただの一度でいいから、この上なく淫らな舞を。

「はっ、ひっ、うあ、あっ、あっ、ああっ!!」

 魂が直接感じる強力な快楽に、少女は何度となく絶頂を迎え、そして一際大きな快楽の波がすぐそこまで来ていることを感じた。
 脳が焼け付くような快楽に溺れて、少女は幻を見る。魔術師がその逸物で少女の膣内を突き上げている幻。いつだったか性知識について教わったときから、時々夢にちらついた願望。幻の中で、少女は願いを叶えようとしていた。

 恋をしていたのは、少女も同じだった。
 その魔術師は少女にとって、生まれて初めて優しくしてくれた相手だったのだから。

「最後の一文字だ。いくぞ」
「あっっ!!! あ、あああーーーーーっっっ!!!」

 叫び。少女の筋肉が一瞬きゅっと絞られ、どっと脱力した。
 心地よい虚脱感が全身に広がっていく。

「はぁ、はぁ、はぁ………」

 訪れる静寂。少女の荒い息と、椅子の下に液体が滴る音だけがしばらくの間空間を満たした。
 少女はこれまでに無く満ち足りた心で、自分が幸福であることを信じて疑わなかった。

 だが。

「……にげ、ろ……」

 何時の間にか拘束魔法が解かれているのを感じて視線を上げた少女の目に映ったものは。

「に、げろ……はやく……」

 鈍い光を放つ刃に、背中から貫かれた魔術師。

「ごしゅじん…さ……」

 その後ろに立つ、見慣れない鎧姿の男。

「暗殺命令を受けて来てみれば、こんな変態がターゲットだったとはな。反吐が出る」

 男が刃を捻る。内臓の千切れる生々しい音が響いた。

「がはっ!!」

 魔術師の口から大量の血が溢れ出た。
 降り注ぐ赤色の中、少女はただ呆然と目の前の光景を見つめていた。

「残念だったな。
 実験を成功させて、再び取り立ててもらおうって腹積もりだろうが、そうなって欲しくない奴がたくさんいるのさ」

 男が腕を大きく振る。魔術師の身体は振り回され、刃から抜けて壁にぶつかり、糸の切れたマリオネットのように転がった。

「さて、こいつはこれでよし。でもってお嬢ちゃん。
 あんたも悪いが死んでもらうよ。こいつの実験は世に出さないようにしろとの命令でね。」

 男は飄々とした態度で少女に近づく。
 悪夢だった。
 幸福の幻から一転して、少女は突然、最悪の夢の只中に放り出されていた。

「ひ……っ」

 少女は慌てて離れようとして椅子にひっかかり、大きな音を立てて転がった。
 ズキリと、痛み。
 夢でもなんでもない。間違いなく魔術師はこの男に殺され、少女もまた殺される。

「逃げても無駄だよ。この館はもう俺の部隊に包囲されてる」

 男の片手が少女の細い首を掴んで持ち上げる。

「うぐ…っ!?」
「不運だったと思って諦めな。同情くらいはしてやるよ」

 男の刃の切っ先が少女に向く。
 少女の目が恐怖に見開かれる。その瞳に、ボロクズのように打ち捨てられた魔術師が映った。
 魔術師の口が微かに動いている。

(つ、か、え)

「…………?」

(ち、か、ら……つ、か、え)

 血の海に沈みながら、魔術師は穏やかな顔で少女に呼びかけていた。
 少女の視線に気づいて、男が振り返る。

「なんだ、しぶといヤツだな」
「あ…っ」

 男は少女を放り出し、魔術師に歩み寄る。
 血の海に沈むそれを見下ろし、

「今度こそトドメだ」

 容赦なく剣を振るった。

 刹那。

 奇妙な音がした。

「………?」

 男が手元を見やる。持っていた剣がない。それどころか、剣を握っていた右手までもが、一瞬で灰となって燃え尽きていた。

「な……っ!?」

 男が振り返れば、少女が立っている。
 鋭く男を睨む瞳に涙を浮かべ、大きく開いた口の奥、舌に刻まれた魔法陣が赤く輝き―――。

「か、完成していたのか!」
「ああああああああああああああああああああ!!!」

 少女の叫びが響き渡る。
 腹の底から湧き上がる、灼熱の感情。
 少女は生まれて初めて“怒り”を感じていた。

「じゅもん、さいせい……っ!!!」

 魔法陣に呼びかける。使い方は、教わっていた。少女はただ、魔法陣を作動させればいい。

「させるかっ!」

 男が無事な左手に短剣を握って迫る。だが突き出された切っ先はむなしく空を切った。
 少女がまるで獣のように後ろへ飛びすさって回避したのだ。

「獣人の娘かっ! クソ!!」

 男が第二撃を繰り出そうとする前に、少女が口から朗々たる詠唱が流れだす。

「『踊れ 踊れ 災炎の蜥蜴 遺灰の砂漠で凱歌を歌え!』」

 少女の声でありながら、少女のものではない知性を秘めた響き。
 途端に少女の周囲に何本もの燃え盛る炎の柱が噴出し、男へと襲いかかる。

「ぐああああああああ!!」

 四方八方から生き物のように迫る炎の柱を回避する術はなく、男が一瞬で灰と化す。
 炎はそれだけでは止まらない。館のあちこちからも灼熱の柱が吹き上がり、館を包囲していた男達は一瞬で灰となった。

 吹き荒れる業火は止まらない。それは少女の怒りだった。
 全てを巻き込んで燃えてゆく。
 いつしか館を来たときに乗った馬車。魔術師に言葉を教わった書斎。二人で歩いた小道。
 みながみな、一瞬で灰へと変わっていった。

 

 炎の塊と貸した館の中、魔術師にはまだ息があった。全身の血が流れでてゆく。間もなく命は尽きるだろう。
 冷えてゆく体に、温もりを感じた。見れば少女が、倒れた魔術師に寄り添うように横になっている。

「……行け。俺は、ダメだ。ここも、崩れる」

 その言いつけに、少女は首を横に振る。それは少女の初めての反抗だった。

「……お前まで、共に死ぬことはない。行くんだ、」

 少女に呼びかけようとして魔術師は気づいた。この少女には名前がまだない。

「そうだ……。名前を、つけてやらねばならんな……」

 脳裏に浮かんだのは、つい昨日のこと。少女は一羽の鳥を見上げていた。

「そうだ。タネジャーは、どうだ……」

 あの鳥のように。自由に生きて欲しいと思った。
 お前の主人は、もういなくなってしまうのだから。

「だが、少々変な名前になってしまうな。略して…タン、か。タン、はどうだ」

 少女はただ首を振る。このままここにいたかった。主人とどこまでも共にいきたかった。
 その頭に、ふと大きな手が置かれた。優しく撫でる。いつものように。
 魔術師の温もりに、少女の目が嬉しそうに細まる。
 そして少女の温もりに、魔術師は今こそ心から安らかだった。

「お前に、救われた……。俺は、何人も殺した罪人なのに…お前は、いつも隣にいてくれた……」

 そして、最後まで実験に付き合ってくれた。
 魔術師は実験を成功させ、元の地位に戻るつもりなどなかった。
 ただ、このまま実験が失敗のままで終わってしまったなら、その過程で犠牲になった少年少女たちの死が全くの無駄になるゆえに、ひたすらに完成を目指していたのだ。
 だからこそ、最後の最後でこの少女を殺すわけにはいかなかった。
 それが、何人もを魔法実験の犠牲にしてきた男の、せめてもの償いだから。

 頭を撫でていた手のひらが離れる。
 ハッとして、少女は魔術師の顔を見上げた。
 今まで一度たりとも見たことのない柔らかな笑顔。
 魔術師の身体の魔力が動く。
 最後の呪文を唱えるために。

「生きてくれ。お前の枷は、ここで砕く」

 刹那、少女の脳裏に流れ去るのは、館で過ごした幸福の日々。
 他者の目にどう映ったかわわからない。
 或いは、少女はずっと騙されていたのかもしれない。
 それでも少女は幸せだった。
 確かに幸せだったのだ。

「やめ―――」

 少女の制止の声は届かず、男は笑顔のまま呪文を完成させた。



「『忘却(フォゲット)』」

 

 

 

 

 一介の冒険者であるタンは、今日も青空の下にいる。
 気の向くままに歩む旅路は、なかなかに楽しい。

「んーー……」

 空を見上げて伸びを一つ。今日も平和な旅路である。
 ふと、頭上を一羽の鳥が飛んでいった。
 タネジャー。自分の名前の由来となった鳥だ。

 名付け親のことを、タンはよく知らない。
 奴隷であったタンを買ってくれた人がいたことを覚えている。だがそこから先の記憶は曖昧だった。
 気がつけば、大きな火傷を負って小さな村の宿に担ぎこまれていた。
 自分は燃えてしまった魔術師の館で暮らしていたらしい、と、後で人から聞いた。

 タンの持ち物はこの外れない首輪と手枷だけだったそうだ。
 タンはそれを気に入っており、今でも隠そうともせずに身につけている。

「きめた。次は、あの鳥の、向かうところへ、いこう」

 今日もタンは、青空の下で旅を続ける。
 残された記憶は三つだけ。
 名前と、自分に授けられた力。そして、いつも頭を撫でてくれた優しい手のひらの温もり。

 あの大きな手のひらはどこか遠くへ行ってしまったけれど、その記憶は今でもタンの宝物だった。

「タンは、今日も元気だよ」

 何となく呟いてみる。青空の向こうに、誰かの笑顔が見えた気がした。