辺境の魔導士と少女「R」


−5 収穫

 なんとも奇妙な村だった。
 ぱっと見にはそこらの農村と何ら変わりなかったが、その地下には何十、いや、何百にも及ばんという牢を擁していたのだ。
 戦時に用いられたものだろうか、今はその機能を為してはいない。もぬけの殻だ。
 そこには少々興味をひかれたが、時間が惜しい。すでに3人の"実験体"を確保していた私は、これ以上この村に留まる必要はないと判断し、ここを後にしようとした。
 その時だ。私の中に組み込まれている"魔導魂"が生体反応を捉えた。もうこの村には生きているものはいないはずだった。その反応は私の足元―地下牢から発していた。
 幾重にも分かれた牢獄の群。その"R区画"と名付けられた区画の一番奥に、彼女はいた。
 頬は痩せこけ、ぼろぼろの服から垣間見える腹部にはあばらが浮いて見えるというのに、彼女は凛とした眼差しで、私を睨みつけていた。
 それだけでもなかなかの逸材であることはわかったが、さらに興味深いものを見つけてしまった。
 鉄格子に掛かった札―。それを目にした私は、彼女そっちのけで大声で笑っていた。
 面白い…!これはかつてない収穫だ!


1.従者

 陳腐な言葉ではあるが、そこはさしずめ「オアシス」であった。
 他になんと言い表せばよいと言おうか。
 荒れ果てた地にあって、そこだけはうだるように木々が繁っているのだ。
 まあ、「オアシス」などと呼べるのはあくまで傍目だけであるのだが。その実情は、森に入った者のみ知る。
 目を凝らせば、その木々に覆われるように、建築物が建っているのが解る。
 森の中央には一本道があった。豪奢なつくりの柱が両脇に行儀正しく並んでいる。それは道の終わりまで並んでいた。魔術の道を齧ったものであれば、それがただの飾りではない事に気付くだろう。その道は真っ直ぐ、建物の玄関口につながっていた。
 宮殿のようなその造りは、ここの中央に座するに相応しい外観であった。
 それだけの建造物であるにもかかわらず、そこには二人の人間しかいなかった。
 その一人、20代後半程度に見える中肉中背の男は、"宮殿"に面した湖をバックに、紅茶を啜っていた。
 優雅。そんな言葉が当てはまるだろう。まるでどこか大国の貴族のようだ、と。
 彼が、薬品の匂いの染み付いた白衣を纏ってさえいなければ。
「…今日のはだいぶコクが強いね。たまには悪くない」
 科学者のような風体の男は、自分がこの光景に不釣合いな人間だと気付く様子もなく、まるで本物の貴族を気取るかのように、優雅に言ってのけた。
「いつもと違う等級だね、切らしたかい?」
「申し訳ございません、ご主人様。ここ最近、行商の者が現れませんので…。」
 問いに答えたのは、男の傍らにひっそりと佇む小柄な少女であった。彼を"ご主人様"と呼ぶからには、彼らは主従関係にあるのだろう。軽いウェーブのかかった金髪が目に栄える彼女であったが、今にも消え入りそうな声が、その外見に不釣合いに感じた。
 最寄の街は、少女の足では到底辿り着くには叶わないであろう、彼方にある。ここは辺境中の辺境であった。
「そう…それは残念だ…」
 男は歯切れの悪い少女の答えに、なんとも物憂げな声を上げる。例えば、長い間、床に付していた肉親の旅立ちに思いを馳せるような…。そんな含みさえ感じさせた。 
「原因はおそらく、アレでございましょう…」
 彼女の視線は、木々の合間を縫って遥か先を捉えていた。彼方に聳え立つ、マッチ棒のような建造物―恐らく、それは塔だろう。
「淀みの塔…。そうか。…ああ、なんと言ったかな」
「"マーベラスメイガス"」
 男の言葉に、少女は囁くように、そっと付け加えた。
「そう、それだ。またアレを始めるのか。アレはなかなか愉快な催し物だ。主催者はアッシュ・ヴァイザーと言ったか…。彼とは趣味が合いそうだ。一度会ってみたいな」
 目を細め、少しトーンを落として発したその言葉には、それまでの「貴族のお坊ちゃま」のようなナヨナヨしたイメージを一瞬で払拭させる、負の力があった。

 ―マーベラスメイガス、魔道士の祭典。前回、腕に自信のある魔道士と、"良からぬ理由"で集う屈強な男達がこの界隈で溢れた為、今回の大会期間中には、行商や旅の者はこの辺りに寄り付かないようだ。

 薄汚れた白衣が、せせら笑うように風にはためく。
「…ふう」
 紅茶を時間を掛けて飲み干し、カップを少女に手渡す。
「おいしかったよ、ディンブラ」
「…光栄です」
 ディンブラと呼ばれた少女は、頬を薄紅色に染め、おずおずとカップを受け取った。すると、それまで窓辺の花のようにひっそりとしていた彼女が、元来からの華やかな外見に添う、晴れやかな微笑をみせた。
「が、バリエーションが減ってしまったというのは、なんとも嘆かわしい。どんなに良いカップで飲んでも、毎日同じ中身では飽きてしまう…」
 虚ろな目でディンブラを凝視する。
「死にたくなるぐらい憂鬱だよ…」
 冷え冷えとした虚ろな目でディンブラを見据えるが、その視線にはある種の倒錯した熱情のようなものが含まれていた。
 異常極まりないその視線から目を逸らす事無く、ディンブラは恋に夢見る少女のような瞳のまま、男を見つめ返していた。
「…ごくろうさま」
 そのディンブラの様子に満足したように頷く男。
「それでは、失礼します」
 踵を返し、中に引き返そうとするディンブラに、男はこう付け加える。
「ディンブラ…。リゼを呼んでくれないか」
 "宮殿"には、二人の人間しかいない。


−4 従順

 牢獄に捕えられていた少女を加え、合計4人の少女を連れ帰った私は、3時間程の仮眠を挟み、"手術室"に篭もった。手術には3日ほど掛かる予定だった。
 最初の"実験体"はディンブラと呼ばれた少女だ。彼女は私の"申し入れ"に対し、特に反抗するそぶりも見せず、自分の意思でここまで来た。
 いや、意思などというだいそれたものなのだろうか。
 彼女は「そうすることしかできない」と諦め、全てを受け入れているようであった。
 無駄な呪力を消耗せずに済んだ事は幸いだが、なんとも張り合いのないことだ。
 そんな彼女が実験体だったからなのだろうか、手術は予定より一日早く終わった。


2.元気な子

 数十分後、はたしてそこに現れたのは、またもディンブラだった。服をそれまでのメイド風のものから、ゴシックロリータ風の黒いドレスに着替えている。
 しかし男はそんな彼女に、「リゼ、こちらにおいで」と呼びかけるのだった。
「はい、"お父様"!」
 ディンブラ…、いや、リゼと呼ばれた少女は、ぱたぱたと忙しなく男の方へかけよった。
「おおっと…。リゼは今日も元気だね。元気な子は好きだよ」
 貧弱な体が椅子ごと倒れそうになるほど、リゼは思い切りよく、男の胸に飛び込んだ。
「うん!あのね、今日はね…」
 口早に"今日の出来事"を男に語りだすリゼ。しかし、彼女に今日の思い出は、まだ無い。
 あるかのように仕組まれているだけなのだ。そういう仕組みが、彼女"達"の中に組み込まれているのだ。
「だからね、リゼはお菓子ははんぶんこよ、って言ってあげたの、でね…」
 リゼの話はとりとめもなく続く。少女の瞳は、終始、男を捉えたまま離れない。宝石をありったけ詰めたかのようにキラキラと輝く瞳は、ディンブラのそれと"同じもの"とは思えないほど、印象深く残る瞳だった。
 リゼは男に抱きついた姿勢のまま、体全体で物事を伝えようとするので、男は姿勢を保つので精一杯であるようだ。少女の話など右から左、だ。
 しかし、聞いている、いないはリゼにとって問題ではない。相手が少女を受け止めてくれるのであれば、あとはどうだって構わないのだ。それだけの信頼を男は得ている、と言う"設定"らしい。
 男は少女の暴れん坊ぶりに手を焼きながらも、その目、その口元には笑みが浮かんでいた。人が本当に愛しい者だけに向ける顔を、今まさに彼はしているのだ。数分前まで、メイドのように仕えていた少女に対して、だ。
 突然、大きな唸りを上げ、強い風が彼らを襲った。
「きゃあ!」
 悲鳴をあげ、男の白衣をギュっと掴むリゼ。それを庇うように、男はとっさにリゼを自分の懐に抱え込んだ。
 風がひとしきり渦を巻いたあと、バルコニーにはもうひとつの影が現れていた。
「お初目にかかる、魔道士"パラケルス"」
 影は紳士を気取って、腰を深く曲げてそう告げた。
 魔道士パラケルス。
 ひとりの少女に"ご主人様"と呼ばれ、"お父様"と呼ばれた男。彼を指して、影はパラケルスと呼んだ。
「この魔性の森を抜けてここに辿り着くのは、結構骨なものでした。…ああ、失礼、私の名は」
「必要ない」
 男―パラケルスは、影の言葉を遮ってそう言った。
「玄関を通らずに直接ここまでやって来られるとは、なんともせっかちなお客様だ。ならば、手短にご用件を済ませて戴こうではないか」
 まただ。先ほど「マーベラスメイガス」の単語を耳にした時の彼と同じく、圧倒的な負の力を、その痩せこけた体から漂わせ、影を圧倒した。
「…フ。話が早い。有無を言わさず消す、ですか。まあ、それでも構いません。その方が私の…」
「悪いが、連日の"手術"で気が滅入っているのでね」
 またもや影の話の腰を折るように、パラケルスはスッパリ言ってのけた。影はもう、ぐうの音も出ない、といった様子だ。
「彼女がお相手しよう」
 そう言って、胸にしがみつくリゼを床にそっと下ろし、彼は名を口にする。

「ルフナ、こちらのお客様のお相手を」

 景色が歪んだ。
 少なくとも、影の目にはそう映った。


−3 無垢

 次の実験体はリゼ。4人の少女の中で最年少に当たる。
 私は子供が大好きだ。何故と言われれば、答えは簡単だ。
 何も知らないからだ。
 これから、私がこの娘に好きなように色を付けられる。快感ではないか。
 特にこの少女は、村長の家で大事に育てられた、所謂箱入り娘だ。どのようにもできるが…。
 逆に、このままにしてはおけまいか、と言う考えがふと湧いた。
 ディンブラに対しても大袈裟な"修正"は施していないが、白いものが永遠に白いままでいる…。
 これほど美しいものはないのではないだろうか。
 彼女には最小限の記憶の削除と追加だけ施した。ものの1時間程度の手術だ。
 

3.魔道士見習い

「仰せに通りに、"マスター"」
 今度はパラケルスを"マスター"と呼んだ少女―いや、外見は変わらずとも、そのしぐさ・身に纏った殺気は、子供に身に付く代物ではない。今は"女性"と呼ぶべきだろうか―は、パラケルスの前、影と対峙する位置に立った。
 その彼女の変貌ぶりに、影は戦慄を覚えた。
「"付け足した"のか、魔道士パラケルス…!こんな幼い少女になんとむごい事を…」
「ほう、区別がつくか、お客様。多重人格か、などととぼけて見せれば、少しは手加減もできたというのに」
 口の端をこれでもかと釣り上げ、パラケルスは愉快そうに笑ってみせた。
「そうか、"コレクター"とはその事を指していたのか…!」
「懐かしい呼び名を思い出させてくれるじゃないか。もう結構だよ。お開きとしようか、ルフナ」
 "ルフナ"と化した"少女であったもの"は、風にたなびく髪を後ろでさっとまとめると、左の人差し指と中指を揃え、ピッと影を差した。
「何のつもり…」
「"ファイアボール"」
 ルフナの左手が燃え盛る。一度、腕を右肩辺りまでゆっくりと持ってゆき、左側に薙ぎ払った。迸った炎は、影を取り囲んでいた暴風に乗り、爆炎と化して影に襲い掛かる。
「な、なんだと、私の風を利用して…!」
 爆炎はあっという間に影を覆い尽くす。
「グアアアア!た、助け…、み、水…!」
「水ならバルコニーの下にたらふくある。思う存分召し上がるがいい、せっかちなお客様」
 ルフナが告げるや否や、バルコニーから湖に一直線に飛び降りる影。
 しかし、彼が着水する音はついぞ、聞こえることは無かった。
 それより早く、大口を開けた、巨大なワニ―のようないきもの―に飲み込まれてしまったようだ。
「助かったよ、丁度エサの時間だったものでね」
 彼の瞳には何の感情も浮かんでいなかった。その間、パラケルスは椅子から立つことは無かった。突然の強襲も、彼にとっては余興程度のものでしかなかったのだ。無論、影が何故自分を襲ったかなどとは、微塵も考えない。
「任務遂行しました」
 微かに笑みを浮かべつつ、ルフナはそう報告した。
「いや、任務などという大それたものではない。君はまだ見習いの身だしね。しかし、面白いものを見せてもらった。相手の風を利用して、ファイアボールをヒートストームに転化するとは。彼にしてみれば、アレは盾のつもりだったようだが」
 風が止んだ。再び、「宮殿」には二人だけの静寂の時間が訪れた。もう片方はころころと入れ替わっているようだが、外見上は二人には違いない。
「さて、突然呼び出してしまってすまなかったね、ルフナ。せっかくだから昨日の…。ルフナ?」
 パラケルスは、ルフナの異常に即座に気付いた。なにやら言葉にならない呻き声をあげ、体をくの字に曲げて苦しんでいた。
 そんな彼女に対してパラケルスは話すことを止めただけで、ルフナに駆け寄ろうともしなかった。事の成り行きを静観するだけだった。
 やがて、勢いよく顔を上げた彼女には、それまでの冷え冷えとした印象は消えていた。
 少女は蒼い瞳に慄然と輝く怒りの炎を湛え、パラケルスに対峙した。
 そしてパラケルスは、またしても名を呼ぶ。
「…そろそろ起きる頃かと思ったよ、"アールグレイ"…」
 

−2 使命

 次の実験体が厄介だった。名はルフナ。
 村の護衛隊の隊長などと名乗っていた。
 あんなちっぽけな軍隊で私をどうこうしようというのだから片腹痛い。草刈用のカマを構えて突進してきた輩さえいた。まさかこんな辺境の村を、しかもたった一人で襲うなんて者がいるとは考えもしなかったのだろう。まあ、それだけあの地は他と隔離されていた、と言うことの証明でもあるな。
 そんなものの隊長ではあるが、彼女はなかなかのやり手だった。私が呪文を唱える間に、自分の剣の間合いにまで詰め寄ってきた者は数少ない。最も、彼女の活躍はそこまでだったが。
 それでも、呪文の効果が薄れたのか、術中に暴れられてさんざん苦労した。彼女には膨大な魔力を注ぎ、反抗心を根こそぎ取り除いた。その他、いくつか細工する必要があったので、手術は1週間という長丁場となった。
   

4.愛しい娘

「前より仕切りが薄くなったみたいね。おかげでいつもより容易に突破できたわ」
 そう軽口を叩く少女―アールグレイは、その口振りとは裏腹に、額に玉のような汗を浮かべていた。
「そんな無理をしなくても、もうすぐ"呼ぶ"ところだったんだよ、アール」
 パラケルスは彼女を"アール"と親しげに呼んだ。
 心底心配している様子で、パラケルスは彼女の元に駆け寄ろうとした。
「触らないで!」
 アールグレイの左手から蒼白い炎が迸り、彼女の手のひらを包んだ。
「ああ、素手で炎を喚ぶなんて…!」
 パラケルスは本当に狼狽している様子だった。
「"さっきの"もそうしていたわ」
 アールグレイはルフナを指してそう言った。
 今までの"少女達"に比べると、アールグレイは外見の煌びやかさに似う、強気で傲慢な性格のようだった。
「ルフナは君より優秀な魔導士だ。君にはまだ補助具が必要なんだよ。さあ、炎を消して」
「…あくまで父親面を通すのね」
「何をいっているんだい。何より君が大事だから、そう言っているんだ。さあ」
 パラケルスは諭すように言った。それでも炎を消そうとしないアールグレイに対し、彼はズカズカと歩み寄っていった。
「ちょ…、ちょっと、私は本気よ!?」
「知っているよ、アール。君はいつでも本気だものね」
「解ってるんだったら引きなさいよ!」
 パラケルスに歩みを止める様子はない。
「…そう、聞かないのね」
 アールグレイは急にトーンを落として呟くように言った。彼女が覚悟を決めた合図だ。呪文発動の構えに入る。
「ファイアー…!?」
 その時にはすでに、パラケルスは彼女の間合いに入っていた。
 炎で燃え盛る左手を、素手で鷲掴みにした。
「な…」
「本来、その術はそうやって唱えるものじゃないんだ。指先に神経を集中し、そこから火の玉を発するものだ。ルフナはああ見えて派手好きでね、アレは本当は無駄な動作なのだよ。上級者なりの遊び心だ。しかし、腕を護る為にも魔力を回しているから、余程の鍛錬を必要とする」
 パラケルスの手に吸い込まれるように、蒼白い炎はその姿を消した。パラケルスにも、そしてアールグレイにも、火傷をした痕跡はない。
「…ふん、何ともないじゃない」
 鼻で笑い、アールグレイはパラケルスの腕を払った。
「で、今日は何の用だい、アール。また、楽しい芸を見せてくれるのかな?」
「余程自信があるのね…」
 パラケルスの言う"楽しい芸"とは、アールグレイが彼の命を狙い、時に真っ向から挑み、時に毒入りの紅茶を差し出すと言った彼女の殺意を指す。
 ―喉が渇いて仕方がない。薄笑いを浮かべながら圧倒的なプレッシャーを放つパラケルスに対し、アールグレイは身動きも出来なくなっていた。 
「肩の力を抜いて、アール。悩み事があるのなら、私が全て聞いてあげよう。我が愛しい娘…」
 その言葉を聞いた瞬間、アールグレイの中で押さえきれない、マグマのような怒りの渦が湧き起こった。それは喉元までせり上がり、怒りの叫びを吐き出させる。
「私を娘と呼ぶな!汚らわしい!」
「…ほう、汚らわしい、とは。まるで身分の差をひけらかすお嬢様のようだ」 
 何故そんな言葉が出たのか、アールグレイには解らなかった。ただ、その言葉をきっかけに、彼女はパラケルスのプレッシャーから逃れる事に成功した。
「私と、賭けをして」
「賭け?」
 さしもの辺境の魔道士も予想だにしなかったのだろう、パラケルスはきょとんとした顔をしてみせた。
「ええ…。賭けよ」
 彼女はボロボロに疲れ果てていた。パラケルスの施す"手術"は、身体には一切手を加えない。常人には蜘蛛を掴むような話だが、身体のどこに存在するかも解らない領域に、彼は手を施すのだ。
 その度重なる"手術"によって、アールグレイには3人の人格を植え付けられた。もしかするとそれは、"魂"と呼ばれるものかもしれない。
 そんなものがこの幼い少女に3つも付け加えられたのだ。疲弊しないわけがない。もちろん、パラケルス自身にとっても彼女を失うのは大きな痛手なので、"手術"の後には充分な休息が与えられる。
 しかしそれでも、彼女の中には常時4つの心が同居している事になる。多重人格とはまた別の苦痛だ。見えない壁に隔たれた向こうに、自分ではない誰かがいる―。しかも、それぞれの名をパラケルスに呼ばれただけで、彼女の体はその少女のものになる。
 弄ばれているのだ。
 だが同時に、この苦痛から逃れる方法も知っている。受け入れる事だ。彼の望む事―パラケルスの娘である事を受け入れれば、この苦痛から逃れる事が出来る。事実、他の少女はそれを選んだようだ。強制的に、かもしれないが。
 幸運にも―と言うべきか―、パラケルスはアールグレイには強引な手段を用いることはしなかった。しかしそれは同時に、自分から折れなければ、苦痛から解放されない事を示していた。
 負けてたまるものか―アールグレイは類稀なる強靭な精神を持ち合わせていた。それは元来からの性格がそうさせるのと同時に、彼女の薄れつつある過去の記憶が、負ける事を拒絶させていたのだ。

 他愛もない話だ。
 幼い日の、少年との約束。
 それが、彼女の大切な思い出。
 そして、唯一の記憶。

「今、行われているマーベラスメイガス…。あれに参加するわ」
「…ふふ、あれがどんなものか、知っての発言かい?」
「ええ」
 アールグレイはきっぱりと言ってのけた。
「…なるほどね…」
 パラケルスの表情に、一瞬だけ迷いの色が現れた。しかし、それは一瞬にして消える。
「それで?」
「"澱みの塔"のてっぺんまで登れたら、私を解放して欲しい。登れなかったら、私はあなたの"娘"として生きることを受け入れるわ」
 彼女はその賭けが成立していない事を理解していない。パラケルスがこの賭けに乗って来なくても、アールグレイを"娘"にする為ならば、彼は何十年と言う期間を費やしても厭わないと考えている事を。しかし、パラケルスはこの賭けに乗った。
 パラケルスは立ち上がり、彼女の青い瞳を見据えた。そして乱れた白衣を正すと、仰々しくこう言ってのけたのだ。
「いいでしょう、我が愛しい娘。反抗期というものは、誰にも等しく訪れるものですから」
 

−1 統合
 最後の"実験体"は"R区画"の少女だ。
 彼女の牢に立て掛けられていた札にはこう書いてあった。
「grey」、と。
 "R区画"の「grey」か…。なかなかくだらなくてよいじゃないか。
 他に彼女の名前を示すものがなかったので、彼女の名をアールグレイとした。
 もしかすると、本名もそれで合っているのかもしれない。
 ディンブラ、リゼ、ルフナ…。全て紅茶葉の名称だ。そしてアールグレイも然り。
 彼女らは姉妹なのだろうか。まあ、そう考えるのが妥当だろう。あまり似た姉妹でもないが。
 それぞれが別々の家で養われていた事、アールグレイだけ牢獄に入れられていたという事、そして笑えない立て札には少々引っ掛かるものがなくもなかったが、まあいい。さしたる問題ではない。
 それならば少々、予定を変更しようか。魂の統合だ。
 検査の結果、やはり魂は似通った"カタチ"をしていた。これなら可能だろう。
 「4」と言う数字はなんとも半端で気持ちが悪い。数が少なければ、その分"管理"の手間も省ける。 
 危険度は高いが、やってみる価値はありそうだ。
 さて、"宿主"は誰にしよう…。