たとえ何が在ろうとも

〜フィリス(俺の背骨に花よ咲け)

 

 無人の荒野を歩くのは自分がいかに疲れ切っているかを自覚することに他ならなかった。

ほんの少し前までは剣戟や歓声や悲鳴で溢れ却っていたはずの戦場が、今は静まり返って

風の音すら聞こえない。いや、実際は戦が終わってから数分しか経たないのか、数時間が経ったのか、確信はない。疲労が時間を把握することすらも困難にさせる。

 だがそれでも、ランドは重い足を引きずるような心地で歩き続けた。休むことは許されない。

実際には彼は自軍の陣に帰っているだけであり、急ぐことなどなかったのかも知れないが、

限られた時間がじわじわと削り取られていくような気分が拭いきれない。

 三年。彼女の後を追って帝国兵に志願して三年。自分は一体何を学んできたというのだろう。彼女は若干16歳で遂に騎士になったというのに、年齢では5つも上回る彼は結局今日も彼女に

遅れないようについていくのが精一杯だった。彼女を絶対に守ってみせるなどという思い

上がった使命を勝手に自分に課して有頂天になっていた三年前の自分がまったく気恥ずかしい。 ふと何かが聞こえたような気がして彼は身を固くした。物音に反応するだけの気力が残って

いたことがまず奇蹟だと言えるが、反応したところで起きる事態に対処できるわけではない。

彼は緩慢に近くの茂みに身を隠した。取り敢えず最も安全そうな策を取ったのである。

 こそこそと覗いた彼は目の前の光景に息までも止めて見入ることになった。そこには彼の

焦がれて止まない少女、フィリス=クリスティが一人の男と話している姿があったのである。

 

「何をなさっているのですか?」

 後ろから聞こえてきた声に彼は手を止めて振り返った。白い優雅なドレスに身を包んだ少女が

不思議そうにこちらを見つめている。彼はひどく困惑した。

「お館様の言いつけで、今日中に納屋の掃除をすべて終わらせなければならないのです。

それよりも、お嬢様こそこんなところで何を?ここはお嬢様の来られるような所ではありま

せん・・・お館様に叱られてしまいます」

 彼は答える。五年前の彼は答える。15歳の彼が答える。目の前の少女も今より5歳若い。

このとき彼女は11歳だったはずだが、ずいぶんと大人びて見えたものだ・・・。

「・・・でもこれだけの広さの納屋をお一人で掃除するなんて・・・」

「大丈夫です。これでも慣れていますから・・・」

 彼の問いかけを無視する形で発せられた呟きに、彼はもう一度答える。

「あの・・・何かわたしにできることは・・・」

 そう。この頃から彼女は優しい心の持ち主だった。一使用人の息子に過ぎない自分にさえ

ずっと優しく接してくれた。彼にとっては、それで充分だった・・・。

 

 どうやらフィリスは困惑しているようだった。見たままに判断すれば、戦場から帰る途中に

突然男に声をかけられたというところだろうか。

まったく冴えない男だった。年の頃はランドよりもだいぶ上だろうが、その身ごなしや目つき

から貴族などの出身でないことが一目で知れる。武装も明らかに彼と同じ下級兵士のものだ。

何を話しているのかははっきり聞こえないが友好的でないことは一目瞭然である。

 そのうちに男がいきなり剣を抜いて斬りかかった。ランドは息を呑んで自らの剣の柄に手を

掛ける。助けなくては、と思えば思うほど硬直したように身体が動かない。

しばらくは打ち合っていたが遂にフィリスの手から弾かれた剣が飛んだ。男が彼女に肉薄して

地に押し倒す。その瞬間、彼は男がフィリスに何をしようとしているのかを理解した。

 と、同時にランドの身体が剣を抜き放って茂みを飛び出している。意味のない叫びが彼の

喉からほとばしった。彼女の名前を呼んだようにも思うが別のことだったようにも思う。

彼が力一杯振り下ろした剣を、しかし男はすんでのところで受け止めたようだった。衝撃で

弾け飛んだ剣を男が思いの外俊敏に拾い上げ−ようとしたところへ彼は飛びかかった。

「ランド?どうして・・・!?」

「フィリス様、お逃げください!」

 驚愕の声が響くと同時、彼は叫んだ。無論視線は組み合った男から外さない。

「私には戦いの才能なんてないのかも知れない・・・それでも、それでも一番大切な女性くらいは

この手で守ってみせるっ!絶対に!!」

 自分が何を叫んでいるのか、そんなことは気にならなかった。ランドは自分自身腕力だけは

自信があったが切羽詰まっているせいか男はものすごい力で首を締め上げてくる。

 悲鳴のような声が遠くに響いている。呼吸が苦しい。視界も涙でかすむ。彼は必死に

探り当てた剣を渾身の力で握り締め−気が付くと首を絞める力が緩んでいた。荒い呼吸を

繰り返しながら見やると例の男が自分のすぐ横に倒れている。脇腹から夥しい量の赤い液体を

流し、痙攣を繰り返していた。まだ息はあるがすぐに息絶えるであろうことは疑いない。

彼のしっかりと握り締めた剣の刀身は血糊がこびりついてはいるが・・・乾いていた。少なくとも

数時間前に付けられたものであると分かる。そして・・・倒れた男の向こう、涙でかすむ視界に

息を荒げて立ち竦む少女の姿が見える。彼女の手にした剣からは赤い、赤い液体が滴っていた。

「フィリス様・・・」

「あ・・・」

 何とか呼吸を整えながら声をかけるとフィリスは大きく目を見開き、こちらを見て・・・膝を

落とした。彼女の手から離れた剣が地面で甲高い音をたてる。

「無事だったのね・・・ランド・・・ランド・・・」

 フィリスはランドの胸に顔を埋めて泣き出してしまった。今まで何度も修羅場をくぐり抜けて

きたはずのフィリス。だが今、彼の腕の中で泣いているのは紛れもない一人の少女だった。

「フィリス様、聞いてしまいましたか・・・?いつからだろう、私は貴女を愛しています。

たとえ身分違いの恋だとしても、私は・・・」

「こんな・・・こんな状況で言うなんて・・・ずるいです・・・」

 まだ朦朧とする意識の中で永く温めてきた想いを告げる。少女はしゃくりあげながら、しかし彼を拒もうとはしなかった。二人、しばしお互いのぬくもりを離すまいと寄り添う。

「わたし・・・わたしも・・・貴方のことを・・・」

 ずっと同じカタチを持ちながら合わさることのなかった心が今、一つになった。

死が二人を分かつそのときまで、もう二人が離れることはないだろう。たとえこの先にどんな

困難が二人を待ち受けていようとも・・・。